2014年12月7日「存在を見出してくださる主」

2014127日花巻教会説教

聖書箇所:マルコによる福音書5120

「存在を見出してくださる主」

 

マリアの賛歌

 今週は、アドベントの第二週です。イエス・キリストの到来を待ち望み、その希望を新たにする時です。

 

アドベントの時期に読まれる聖書の言葉で、マリアの賛歌があります。イエス・キリストを身ごもったマリアが神さまにささげた賛歌です。ラテン語訳の冒頭の言葉をとって「マグニフィカト」と呼ばれることもあります。

 

《そこで、マリアは言った。/「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。/身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。/今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、/力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、/その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。/主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、/権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、/飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。/その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません。/わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」》(ルカによる福音書14655節)

 

 このような賛歌です。賛歌の中には、非常に力強い表現が出て来ます。《主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、/権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ…》。過激と言えば過激な表現です。権力者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げる。まさに社会の構造をひっくり返すことがここで言われています。イエス・キリストがこの世界に来られるということは個々人の救いのためだけにとどまらず、社会全体を変えてゆくことにつながる、ということが示されています。

 

 

ローマ帝国への批判

 このような考え方というのは、時に権力者たちにとっては危険思想として映ったことでしょう。新約聖書が記された当時、最も権力をもっていたのはローマ皇帝でした。イスラエルのヘロデ王もこのローマ皇帝のもとに従属していました。今のマリアの賛歌は見方によっては、間接的にローマ皇帝に反抗している歌とみなされかねないものでしょう。

 

 初代のクリスチャンたちはローマ帝国への反抗心を、直接的な言葉ではなく、象徴的な言葉で表現することをしたようです。たとえば、ヨハネの黙示録がその一つです。ヨハネの黙示録には一見、何を表そうとしているのか分からない不思議な表現が出て来ます。それら不思議な表現が、暗にローマ皇帝への批判となっているという箇所が幾つもあります。そのような手法を取ることで、ローマ帝国から無暗な攻撃にさらされることを避けつつ、同時に、分かる人には分かる言葉でローマへの批判を記そうとしたのでしょう。

 

最もよく知られた表現は、《六百六十六》という数字であるかと思います。ホラー映画なのでは悪魔の数字として引用されることもある表現ですが、この《六百六十六》という数字は、ローマ皇帝ネロを暗示しているのだという見解が一般的です。ネロ皇帝は、キリスト教会をローマの大火の犯人にしたてあげて迫害したことでも知られています。

 ヨハネの黙示録ではこのようにローマ皇帝を暗に批判しつつ、さらに、イエス・キリストはこれら強大な勢力を最後には打ち倒すのだということを語っています。ローマ帝国はいつか必ず滅びると宣言しているわけですから、それこそ危険思想ということになります。ですので、それらメッセージを象徴的な表現で、間接的に書き記す必要があったのでしょう。

 

 

レギオン、《大勢》なる者

 本日のマルコによる福音書の聖書箇所も、以上のことを踏まえて読んでみると、より分かりやすくなる箇所であるかと思います。本日の聖書箇所も一見、何が書かれているのか分かりづらい物語となっています。一人の男性に取りついていた大勢の悪霊とイエス・キリストとの対決を描いた場面ですが、悪霊が豚の中に入ると二千匹ほどの豚が湖になだれ込んだ、という異様な出来事も記されています。なんだかちょっと怖さも感じるような、不思議な物語です。どうやらこの物語にも、ローマ帝国への密かな反抗心が隠されているようなのです。

 

 9節から、改めて読んでみたいと思います。男性に取りついた悪霊に、主イエスが名前をお尋ねになるシーンです。

910節《そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。/そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った》。

 

 悪霊たちは名前を訪ねられ、《名はレギオン。大勢だから》と答えました。何のことやら分からない答えですが、当時のイスラエルの人々にとっては、この《レギオン》という名前はよく知られていたものであったようです。

レギオンとは、当時イスラエル全土に駐在していた、ローマ軍の名称でした。一つの隊で40006000人もの人数となる、大規模な軍隊であったようです。まさに《大勢》です。よって当時の人々にとって、《レギオン》とは「たくさんの数」の代名詞となっていたようです。男性には《大勢》の悪霊が取りついていたので、そのたくさんの数を表現する《レギオン》という名をもっているのだ、ということが語られています。

 

たくさんの悪霊が取りついていることを表現するために《レギオン》と名乗っているのだということは理解できましたが、しかしここで大勢の悪霊とローマ軍とを結びつけているわけですから、物騒な表現であるということになります。暗に、ローマ軍は悪霊とイコールであると語っていることになるからです。ここに、マルコによる福音書によるローマ帝国への批判が見いだすことが出来るでしょう。

 

しかも、マルコはローマ帝国への批判を示すにとどまりません。ローマ帝国の権威は、イエス・キリストによってひっくり返されるのだということを語ります。それを暗に示しているのが、大勢の豚が湖になだれ込む場面です。

 

1113節《ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。/汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。/イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ》。

大勢の《豚》も、ローマ軍隊《レギオン》を象徴しているものです。当時、ユダヤ教の人々の間では豚は「汚れた」動物であるとされていましたから、ローマ軍を大勢の豚として表現することに強烈な皮肉が込められているということができるでしょう。そしてその大勢の豚は崖から湖になだれ込み、おぼれ死んでしまう。つまりローマ軍隊の権威はひきずり降ろされ、そして滅ぼされてしまうということが暗に描かれているのだと受け止めることができます。イエス・キリストのまことの権威を前に、ローマ帝国の権威は失墜し、滅ぼされるだろうと宣言されているのです。このように受けとめてみるとき、今回の聖書箇所が謎めいた、不思議な表現の仕方を取っている意図が分かって来るのではないでしょうか。

 

母マリアは主イエスをみごもった時、歌いました。《主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、/権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ…》。それら予告された出来事が、このマルコによる福音書の場面でより具体的に、かつ間接的に描かれていることが分かります。

 

 

《大勢》の集団の本質

 本日の物語の冒頭で、《レギオン》に取りつかれていた男性の悲惨な境遇が語られています。男性は共同体の外に追いやられ、墓場を住まいとしていました。度々足枷や鎖で縛られたことがあったと記します。しかし男性は自ら鎖を引きちぎり、足枷を砕きます。悪霊に取りつかれた危険人物として共同体から排除されてしまっていたことが伺われます。

 なぜこの男性がここまで追い詰められてしまったのか。その要因は男性の個人的な問題にあるのではなくて、もっと大きなものがその背後にあることが、すでに私たちには示されています。《レギオン》という名で暗示される勢力が、この男性をここまで追い詰めてしまっていたのです。具体的には、ローマ軍の支配下にある当時の社会構造自体が大きな要因としてあるのだということになります。

 

《レギオン》という名に象徴されるこの勢力の本質は、《大勢だから》という言葉の中に端的に示されているように思います。この《大勢》なる勢力の本質は、「不特定多数」というところにあります。非常に大勢の数が集まっていますが、その中においては一人ひとりの人格というものは存在していません。それぞれが「替わりが効く」存在であり、個々人が「かけがえのない」存在という視点はそこに存在していません。残念ながら、軍隊とは本質的に、そのような側面を内在している制度であると言わざるを得ないでしょう。

 

《レギオン》なる《大勢》の集団において失われているもの、それは「個人の尊厳」ということです。ローマ軍に象徴されるこの《大勢》なる集団において失われているもの、それは個人の尊厳であると本日は受け止めてみたいと思います。

 

 

神の国の福音の本質

主イエスが私たちに伝えて下さっている神の国の福音は、これら《レギオン》の論理とは真逆のものです。神の国においては、「一人ひとりのかけがえのなさ」ということが最も大切なものとされます。わたしの替わりとなる存在は、どこにも存在しない。あなたの替わりとなる存在は、どこにも存在しない。神さまから見て、私たち一人ひとりはかけがえなく、貴い。その真理を伝えて下さっているのが、神の国の福音です。

 

主イエスはこの度自らこの一人の男性のもとに赴かれ、この一人の男性にこの神さまからの尊厳の光を取り戻されました。個人の尊厳を取り戻されました。主イエスはこのただ一人の男性のためだけに、この度ガリラヤ湖を渡り、福音を伝え、そうしてまたガリラヤ地方へ戻ってゆかれました。

この尊厳の光を受けて、男性に取りついていた悪霊たちは、もはや男性の内にはいられなくなりました。《レギオン》は本質的に、個人の尊厳の視点とは同時に存在することはできないからです。そうして《レギオン》は男性から出て行って、大勢の《豚》の中に入ることを願いました。しかし主イエスと同じ場にいること自体に耐え切れず、ついには湖の底に消えてゆくことになります。

私たちの目には余りに強大な勢力に見える《レギオン》も、主イエスの神の国の権威の前に打ち倒されるということが、はっきりとここで示されています。

 

 

個人の尊厳の取り戻し

まことに力あるものとは、私たち一人ひとりに神さまから与えられている尊厳の力です。この尊厳の力こそが、やがては巨大なピラミッドをひっくり返すことにさえつながってゆくのだとマルコ福音書は述べています。

 

《大勢》なる者の論理は、いまも私たちの間で力を奮っているように見えます。神さまの前にかけがえのない存在である一人ひとりの個人が、まるで顔のない道具のように扱われてしまうという、悲しむべき現実があります。

私たちはいま神の国の福音に固く立ち、個人の尊厳を私たちの間に取り戻してゆかねばなりません。神の国の真理に固く立ち、一人ひとりのかけがえのなさを取り戻してゆかねばなりません。私たちの先頭には、神の御子イエス・キリストその方がおられます。