2014年2月16日「御心に適った悲しみ」

2014216日花巻教会説教

 

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二7816

「御心に適った悲しみ」

 

 

「悔い改め」とは

 

お読みしました聖書の箇所に、「悔い改め」という言葉が出て来ました。たとえば10節の言葉、《神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします》。 

 

「悔い改め」という言葉は、教会の中でもよく耳にすることがある言葉です。悔い改めという言葉には「悔いる」という言葉が入っていますので、「自分の過ちを告白し、懺悔する」イメージをもってこの言葉を受け止めている方もいらっしゃることと思います。実際、教会ではその意味でこの言葉が用いられていることが多くあります。

 

 

 ただ、原文のもともとの言葉には、必ずしも「悔いる」というニュアンスが含まれているわけではないようです。悔い改めと訳されている言葉は、もともとのギリシャ語では「メタノイア」という言葉ですが、この言葉がもつ元来の意味は、「心の向きが変わる」です。もともとは「方向転換」を意味する言葉でした。

 日常会話の中では、たとえば「考え直す」とか「視点を変える」という意味で用いられていた言葉であったと思います。その言葉を、初代のクリスチャンたちがより重い意味をもって、使用するようになったようです。つまり、私たちの心が「自分自身から神さまの方へ方向転換する」ことを表す言葉として、この言葉を使用するようになったのです。日常生活よりさらに深いレベルにおける方向転換を現す言葉として、聖書はメタノイアという言葉を用いています。

 

 

心が過去から向き直る

 

さて、聖書における「悔い改め」とは、私たちの心が「自分から神さまの方へ向き直る」ことである、ということを確認しました。このように言葉で説明するのは簡単ですが、しかしそれが実際に実現されてゆくのは、難しいことでもあると思います。

 

 

私たちの心が自分から神さまへ向き直るというとき、その間に、段階的な過程というのもあるように思います。使徒パウロのように、劇的な経験によって私たちの心の向きが一気に180度方向転換するということは、私たちには滅多に起こることではないでしょう。

 

 

たとえば、「悔い改め」ということを、まず、自分の心が「過去から向き直る」ということとして捉えてみたらいかがでしょうか。私たちの心が「自分から神さまへ向き直る」ということとしていきなり捉えるのではなく、私たちの心が「過去から未来へと向き直る」ということとして、まずこの悔い改めという言葉を受け止めてみるとどうでしょうか。

 

 

後悔

 

 私たちは日々の生活の中で、さまざまな失敗をします。「どうしてあんなことをしてしまったのだろう」、「どうしてあんなことを言ってしまったのだろう」と、思い返すと今も落ち込んでしまうような失敗を、私たちは即座に幾つも思い出すことができると思います。

 

一度そのような過去の失敗や過ちの記憶を思い出し始めると、私たちの心はだんだんそのことでいっぱいになっていきます。心の中からは穏やかさが失われて、代わりにだんだんと不安や無力感が心の中を埋めてゆきます。自分にとってその思考はとても不快であるのに、でもそのことを考え続けずにはおられません。

 

 

 すでに起きてしまった過去を繰り返し思い起こしてしまう――私たちはしばしば、この「後悔」するという状態に陥ります。精神医学の用語では「反芻思考」とも言うそうですが、この思考に囚われているとき、私たちの心と体からはだんだんと健やかさが失われてゆきます。反芻思考は、場合によっては「うつ状態」へとつながり得ることもあるそうです。

 

 

このように、私たちが過去の記憶に囚われすぎている状態というのは、私たちの心と体の健康にとって、危険なことです。私たちの心が「過去から未来へと向き直る」ことは、私たち自身の心身の健康にとっても重要なことであるということができます。

 

 

自分を大切にすること

 

教会ではよく「神さまのために」ということが言われます。何をするにあたっても、私たちは神さまのためにそれを行うのだ、と。もちろんそれは信仰者が常に目指してゆく地点であり、目標です。

 

 一方で、同時に、「自分を大切にする」というのも、忘れてはならない視点です。私たちは、自分自身をまことに大切にすることができたとき、神さまと隣人を大切にすることもまた、少しずつできるようになってゆくのではないでしょうか。

 

 

次のような言い方をすると少し語弊があるかもしれませんが、私たちが「心の向きを変える」ことは、私たち自身のためにも、大切なことです。私たち一人ひとりの健やかさが守られるためにも、大切なことです。

 

 そしてそこに、神さまご自身の願いがあるのではないかと思います。「あなた」という存在が守られること――。それこそ、神さまが何よりも優先して、願ってくださっていることです。

 

 

かけがえのないあなたが守られるために

 

 旧約聖書のイザヤ書には次のような言葉があります。《わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする434節)。神さまの目から見て、人がどれほど大切な存在であるかが語られている言葉です。《わたしの目にあなたは価高く、貴く…》――この言葉はいま、私たち一人ひとりに語りかけられている言葉です。

 

 

 それほどまでにかけがえのない存在が、もしも過去にばかり目を向け、自らの心と体を傷つけているとしたら、どうでしょうか。きっと神さまは悲しまれることでしょう。そしてそのような状態から抜け出ることを願ってくださっているでしょう。

 

 かけがえのないあなたが守られるために。あなたの命が守られるために、神さまは、私たちに心の方向転換を求めておられます。

 

「誰かのために」でなくてもいい、ましてや「神さまのために」でなくていい。他ならぬ「あなた自身のために」、心の向きを変えることへと、心を開いてほしい。神さまは、そのように絶えず私たちに願っておられます。旧約聖書の箴言にはこのような言葉があります。《何を守るよりも、自分の心を守れ。/そこに命の源がある423節)。私たちが自分の心を守ること、そこに、神さまの願いもあります。

 

 

神さまの願い

 

それは言い換えますと、私たちが普段どれほど自分で自分を傷つけているか、ということの裏返しでもあります。私たちはすぐに過去に囚われ、後悔や思い悩みを繰り返し、自分の心と体から健やかさを失わせてしまっています。自覚的に、また無自覚に、わたしたちは神さまから与えられたこの大切な心とからだを痛めつけています。

 

 

神さまが「方向転換」を呼びかけるのは、まず何より、そのような危険な状態から、大切な「あなた」という存在が守られるためです。あなたが今日も健やかであるように。今日も、平安であるように。あなたの一日一日の歩みの上に、喜びがあるように。

 

私たちが自分で自分を傷つけているとき、互いに傷つけあっているとき、神さまは悲しんでおられます。かけがえのない存在が失われることは、神さまの願いではありません。

 

 

御心に適った悲しみ

 

改めて、聖書の御言葉をお読みしたいと思います。10節《神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします》。

 

《神の御心に適った悲しみ》という言葉が出てきました。神さまの御心に適った悲しみは、救いに通じる悔い改めを生じさせる、と聖書は語ります。言い換えれば、神さまの御心に適った悲しみは、私たちの心に「方向転換」を生じさせる。

 

 

 神さまの御心とは、何でしょうか。それは、「大切なあなたという存在が守られること」です。この神さまの願いに基づいた悲しみは、私たちの心に方向転換を生じさせます。

 

 自分が神さまにとって大切な存在であることを知らされた時、私たちは自分で自分を傷つけていたことを悔い、そうして神さまを悲しませていたことを、悲しく思うでしょう。その悲しみの中で、私たちは自分自身をもっと大切にしたいと願うようになります。私たちの心に、少しずつ、方向転換が起こり始めます。

 

 

《取り消されることのない救いに通じる悔い改め》とは、原文にそって訳しなおしますと、「後悔することのない救いに通じる悔い改め」となります。神さまの御心に適った悲しみは、私たちの心から後悔を取り除きます。私たちの心を過去にとらわれた状態から、未来へ向かって向けかえてくださいます。そうして私たちの心に、自分自身をまことに大切にするという願いを与えてくださいます。

 

 

世の悲しみ

 

神さまの御心に適った悲しみと対照的なものとして、同じ10節では《世の悲しみ》ということが言われています。ここでの《世の悲しみ》とは、私たちが辛い過去の中に閉じこもり、心の内が後悔などの否定的な想いで満たされている状態を言います。私たちの心身に深刻な影響をもたらすこの悲しい状況を、10節では、《世の悲しみ》という言葉で表現しています。

 

 

聖書は、この《世の悲しみ》は私たちに「死をもたらす」と語ります。極端な言い方かもしれませんが、確かにこの状態が長く続くと、私たちの心身は蝕まれ、健やかさは失われてゆくでしょう。時にはまさに命に関わるほど、深刻な影響をもたらしてしまうこともあることと思います。

 

 

現在、私たちの内に外に、《世の悲しみ》があふれています。それはいま多くの人が、自分自身のかけがえのなさを感じることができないということの現れでもあります。一人ひとりのかけがえのない命が守られるためにも、私たちの心に方向転換がもたらされることは緊急の課題です。

 

 

神さまが呼びかけてくださるからこそ

 

私たちは、自分自身の力だけでは、心の向きを変えることは大変難しいものです。自分以外の誰かから、「私という存在が大切であること」を示されなければ、私たちは悲しみの中から立ち上がることができません。

 

たとえもし、自分の周りにそのような言葉をかけてくれる人が見つからなかったとしても、他ならぬ、神さまご自身が、私たちにいま、語りかけてくださっています。「あなた」という存在が、いかにかけがえなく尊いものか。

 

わたしの目にあなたは価高く、貴く…》――神さまがこう呼びかけてくださっているからこそ、私たちの心は過去に囚われた状態から、新しい未来へと向き直り始めます。

 

 

新しく「生きる」方へ

 

心に方向転換が起こり始めたとき、私たちは自分がしてしまった失敗や過ちにも、客観的に向かい合うことができるようになってゆくでしょう。過去の悲しみにただ心がとらわれ、後悔を繰り返しているとき、私たちは物事を客観的に見つめることはなかなかできません。しかし神さまの愛によって私たちの心に方向転換が起こり始めたとき、物事を冷静に受けとめることが少しずつできるようになってゆきます。

 

そのとき、八方ふさがりに思えた状態の中に、小さな抜け道が見えはじめます。真っ暗なように思えた状態の、その向こうにかすかな光が見えてきます。私たちの心は、新しく、「生きる」方へと向き直りはじめます。

 

 

すべてが受け止められ

 

この光の中におられる方こそ、イエス・キリストです。キリストは、十字架におかかりになった姿で、そこにおられます。キリストはいま、十字架にはりつけになられたその体をもって、この私の全存在を受け止めてくださっています。私が犯した過ち、失敗も含めた私の全てを、キリストは受け止めてくださり、ゆるしてくださっています。自分が“あるがまま”に受け止められているというこの実感があって初めて、私たちは率直に自分の過ちをも自覚することができるようになってゆくでしょう。

 

 

 この光の中で、私たちは再び立ち上がる力が与えられます。キリストがこのわたしのすべてを受け止め、ゆるし、生かして下さっているからです。そうしてその光の中で、私たちに「生きよ」と呼びかけてくださっているからです。

 

 

どんな過ちを犯してもなお、私たちは明日へ向かって、新しい一歩を踏み出すことができます。私たちがどんなときも、「生きる」方へ向かって歩んでゆくことが、神さまの私たちに対するまことの願いです。

 

 いま共に、この神さまの願いに、私たちの心を開きたいと思います。