2014年2月2日「生ける神の神殿」

201422日花巻教会説教

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二614節‐71

(出エジプト記294246節、コリントの信徒への手紙一61920

「生ける神の神殿」

 

不釣り合いな軛?

お読みしましたコリントの信徒への手紙二の冒頭に、次の言葉がありました。614節《あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません》。一見、どのようなことが言われているのか分かりづらい言葉です。

 

《軛》という言葉が出てきていました。軛とは、農具や荷車を引かせるために2頭の家畜を左右につなぐ道具のことをいいます。二匹の家畜を横につなぐことによって、それぞれが勝手な動きをしないようにする道具です。

 旧約聖書の申命記には、《牛とろばとを組にして耕してはならない》という言葉があります(申命記2210節)。牛とろばとを一緒の軛につけてはならない、というのです。確かに、牛とろばとでは体の大きさも違うし、歩く速さも違います。もしこの両者を同じ軛につけてしまったら、牛にとってもろばにとってもお互い迷惑なことになることでしょう。異なる種類の動物を一緒の軛につけてはならないというのは、もっともなことです。牛なら牛同士をペアにしなければなりません。

 

 14節の言葉はどうやら、この旧約聖書の言葉を踏まえているようです。「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に軛を負う者になってはいけません」。《あなたがた》とは、コリントの教会の人々です。では《信仰のない人々》とは、どのような人々のことでしょうか。シンプルに言えば、クリスチャンではない人々のことであるということができます。クリスチャンであるあなたがたは、いまだクリスチャンではない人々と《一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません》というのです。

 この言葉が訴えたいこととは、牛とロバが「異なる」ように、クリスチャンとクリスチャンではない人は「異なる」存在である、ということです。だから同じようにしていてはならない。クリスチャンではない人々とは「一線を画す」ようにしなさい、ということでしょう。

 

傲慢な言葉?

このような言葉を読むと、現代の日本に生きる私たちの多くは、違和感を覚えるのではないかと思います。クリスチャンである人々は、自分たちを特別に思っていると同時に、クリスチャンではない人々を見下しているのではないかと思ってしまいます。このような言葉の中に、傲慢さをも感じ取ってしまう人もいると思います。確かにこの言葉だけを取り上げると、そのように感じても仕方がない部分があります。私自身、このような聖書の言葉に、とまどいや違和感を感じ続けてきました。

 

しかし一方で、私たちは聖書を読む中で、自分が「違和感」を感じる言葉にむしろ、自分にとって大切なメッセージが秘められていたということを経験することもあります。本日の御言葉も、そのような言葉なのかもしれません。本日はこの「違和感」から出発して、これらの御言葉が私たちに語ろうとしているメッセージにごいっしょに耳を傾けてみたいと思います。

 

物事を白と黒に

 さて改めて、14節からの御言葉をお読みいたします。1415節《あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。/キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか》。

 

 ここでは事柄が二つのグループに分けられて対比されています。一つは、「正義、光、キリスト、信仰」のグループ。肯定的なものとしてくくられています。もう一つは、「不法、闇、べリアル、不信仰」のグループ。ベリアルとは、サタンの別名です。サタンという言葉からも分かるように、後者のグループは否定的なものとしてくくられています。これらの言葉が言わんとすることは、クリスチャンは前者のグループに属し、クリスチャンではない人は後者のグループに属している、ということでしょう。

 

 やはり、「違和感」を覚えてしまう言葉です。さっきの冒頭の言葉以上に、特権意識を強烈に感じとってしまう言葉であるようにも思います。

 

 このように、物事をはっきりと二つのグループに分けて表現する言葉は、聖書の中にたくさん出て来ます。「光と闇」、「善と悪」、「信仰と不信仰」など。新約聖書では前者のグループを司るのが「キリスト」であるとされ、後者のグループを司っているのが「サタン」であるとされています。

物事を白と黒にはっきりと分けて語るのは、当時の文学的な手法でもありました。白と黒をはっきりと分けて描くことによって、両者の違いを際立たせるという手法です。また実際にそのような世界観で生きていた人々もいたようです。

 

一方で、現代に生きる私たちは、もはやそのように物事を白と黒に分けて理解することが難しい状況にいます。私たちが日常の生活の中で出会う物事のほとんどは、はっきりと白と黒には分けられないものです。物事を白と黒に分けて考えると、確かに自分の中では理解できたように思って安心します。けれども実際にはまことには理解したことにはなっていないことが大半です。対象に対する理解を深めてゆけばゆくほど、私たちが出会う物事は、そう単純に割り切ることができないものであるということに気づかされます。

 

決断を迫られる場面

 さてそのように違和感を抱きながらも、改めてこれらの言葉を読んでみて、ふと気が付かされたことがあります。それは、これらの聖書の言葉は、イエス・キリストの出来事という「一回きり」の出来事に関することについて述べているということです。

 

 私たちが日々の生活の中で出会うものごとの多くは、確かにはっきりと区別することが難しいものが多いです。あらゆることを白と黒に分けて理解するというのは、ふさわしい姿勢ではないでしょう。けれどもまた同時に、あらゆることを白と黒に分けて理解「しない」という姿勢も、問い直してみる必要があるようにも思います。

 

 私たちは日々の生活の中で、時に白か黒か決断を迫られる場面に出会うことがあります。「あれか、これか」。「はいか、いいえか」。たとえば就職や結婚などは、そのようにはっきりとした決断が迫られる場面であるいえるでしょう。

 そのように決断を迫られる時、私たちは時間の流れが、普段とは違ったものに感じることがあります。普段のどちらかというとゆっくりとした時間の流れとはまた違った、緊迫した時間の流れです。何か時間の流れがギュッと濃密になり、自分に向ってドドドド……と流れ込んで来るような感覚です。皆さんも、何か重要なことを決断するとき、このような感覚になったことがおありではないでしょうか。

 本日の聖書の御言葉も、まさにそのような緊迫した状況下において発されている言葉です。であるので、普段の生活の感覚でこれらの言葉に接すると、何か「違和感」を感じてしまうのかもしれません。

 

これらの御言葉は、緊迫した状況の中で、読者たちにはっきりとした決意を迫っている言葉です。それは、それほどいま自分たちは大事な場面に立ち会っているという著者の想いの表れでもあります。

 

決定的な出来事

聖書が語るのは、私たち人類の歴史において、ある時ある瞬間、決定的なことが起こったということです。それが、イエス・キリストの到来の出来事です。

本日の御言葉においては、その出来事が次のように表現されています。16節《…わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。/「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。/そして、彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる》。

神の独り子イエス・キリストが人となって、私たちのもとへやって来てくださったこと。私たちの間に住んでくださったこと。その決定的なことが、2000年前のある時に起こりました。

 

神さまの決意

気が付かされるのは、この出来事において、私たち自身の決断は何ら役割を果たしていないということです。私たちの決意によって、イエス・キリストが私たちのもとへやって来てくださったわけではもちろん、ありません。

では誰の決意によって、この出来事が起こったのでしょうか。それは、神さまの決意です。

 

神さまご自身の決意によって、独り子が私たちのもとへ遣わされました。私たちに光がもたらされました。私たち人類の歴史において、「一回きり」の出来事がもたらされました。

この神さまの決意によって、私たちは一人ひとり、「正義、光、キリスト、信仰」に属する者とされたのだ、と聖書は語ります。聖書が語るのは、私たちはいま現実としてそのような者とされている、ということです。《正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。/キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。…》。これら白黒はっきりさせた表現が伝えたかったこととは、私たちがいますでに、前者のグループに属する者とされている、ということなのでしょう。

はじめは違和感のあったこれらの言葉ですが、改めてご一緒に読んでいるいま、また違った表情をもって私たちの前に立ち現われてくるように思います。

 

ただ無条件に

神さまご自身の決意によって、私たち一人ひとりはいま、新しく「正義、光、キリスト、信仰」に属する者とされています。聖書の言葉は、そのことをはっきり私たちに宣言しています。私たちが何かをしたからではなく、これから何をするかでもなく、ただ無条件に、そのような者とされています。それが、イエス・キリストによって実現された新しい現実です。私たちすべての者がいま、この新しい現実の中を生きています。この意味において、イエス・キリストの到来の以前と以後とでは、私たちは「異なる」存在である、ということができます。14節の冒頭の言葉の真意も、ここにあるのでしょう。《あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません》。この言葉は、キリストが来られる前の「過去の自分」と一緒の軛につながれたままでいてはいけません、という意味の言葉として受け止め直すことができます。私たち自身に対する、自己吟味の言葉として、です。

 

受け入れる決意

イエス・キリストの出来事においては、私たちの決意や私たちの働きは何ら必要とされていません。私たちに信仰があるかないかさえ、ここでは問われていません。すべては、神さまの決意によって、成し遂げられ(ヨハネによる福音書1930節)ました。

 では、私たちが求められていることとは何でしょうか。この大事な場面に立ち会う私たちにできることとは何でしょうか。

 

それは、すべては神さまの決意によって成し遂げられたということを「受け入れる」ということです。神さまの決意によって、この私はいますでに「正義、光、キリスト、信仰」に属する者とされていること。この恵みを「その通り(アーメン)」のこととして「受け入れる決意」をすることが、私たちになしうるただ一つのことです。これが、本日の御言葉が私たちに伝えようとしているメッセージであるでしょう。

 

生ける神の神殿

 私たちはいま、無条件の神さまの恵みによって、「生かされて」います。16節ではそのまことの現実を、《わたしたちは生ける神の神殿なのです》という言葉で表現しています。

 私たちは一人ひとり、イエス・キリストをその内に宿す神殿とされています。神の子キリストは私たちの内に宿ることによって私たちの命となってくださり、光となってくださっています。目には見えないもっとも深い場所にいて、私たちを生かして下さっています。

 私たちはそのことをすぐに忘れてしまいます。気が付くと、自分自身の力で生きているつもりになっています。だからこそ私たちは、日々新たに、神さまの決意に立ち還る必要があるのでしょう。

わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。/そして、彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる》。この神さまの決意は、今日も、私たちの内に響いています。いま新たに、この神さまの決意に基づくまことの現実を、「その通り」のこととして、私たちの心に受け入れたいと願います。私たちは、いま、《生ける神の神殿》とされています。