2014年2月23日「与える豊かさ」

2014223日花巻教会説教

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二819

「与える豊かさ」

 

「お返し」の精神

 

贈り物をもらったら「お返し」をするという風習は世界中で見られます。私たちは何かを贈られると、それに見合うものを、もしくはそれ以上のものをお返しせねばならないという意識をもちます。先日214日はバレンタインデーでした。バレンタインデーのチョコのお返しとして、日本ではホワイトデーが設けられていますが、この日本独特の(?)風習にも、「お返し」の精神が表れています。

 

私たちは、物をプレゼントされたときだけではなく、さまざまな心遣いやお世話を受けたときも、それを贈り物として受け取ります。「あの人には大変お世話になった」という人が私たちにはそれぞれいること思いますが、恩義に対してお返しをしたいという気持ちも私たちは自然ともっています。その「お返し」の精神は、たとえばお歳暮やお中元などの風習として、私たちの生活に根付いています。

「お返し」の精神は、いまも私たちの日常生活のさまざまな場面で働き、この社会の風習や人間関係をかたちづくる要素のひとつとなっています。

 

神さまからの贈り物

 

 さて、聖書は、私たち人間が神さまから贈り物をもらったことを記している書です。私たちは神さまから、大きなプレゼントをいただいたのだ、と聖書は記します。その贈り物とは他でもない、神さまの独り子イエス・キリストご自身です。《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された》(ヨハネによる福音書316節)。神さまはその独り子を贈り物として与えるほど、私たちを愛されたと聖書は記します。

 

 これは、考えてみますと、あまりに大きな贈り物です。神さまはもっとも大切な独り子をお与えになり、その独り子はご自身の命をお与えになりました。この神さまからの贈り物に私たちが「お返し」するとしたら、とてもできることではないでしょう。

受け止めようによっては、聖書が伝える贈り物は、あまりに「重い」贈り物です。その贈り物に対して、私たちからは「お返し」しようがないからです。

 もし私たちが神さまにまことに「お返し」しようとするのなら、私たちは自分の命をささげるほかないのでしょうか。私たちもまた自分の大切な命をささげなければならないと強要されているのだとしたら、私たちはとんでもない贈り物を神さまから送られた(!?)ということになるでしょう。

 

見返りを求めず

 

 けれども聖書を読んでいてだんだんと気づかされることは、神さまは私たちからの「お返し」はいっさい要求してはおられない、ということです。神さまは、ご自身に対する私たち人間からの「見返り」をいっさい求めておられません。神さまはただ無償で、私たちにもっとも大切な独り子を与えてくださったのだ、と聖書は記しています。イエス・キリストも何の見返りも求めず、私たちにもっとも大切なご自身の命をおささげになりました。そのことによって、私たちが《生きるようになるため》です(ヨハネの手紙一49節)

 

アガペーなる愛

 

 聖書が伝えるこれら贈り物のかたちというのは、私たちの普段の意識からすると、まったく異質なものに見えるでしょう。ここには、私たちが普段もっている「お返し」の精神が入る余地はありません。

 私たちの普段の意識からするとまったく異質なこの贈り物のかたちを、聖書は「アガペー」という言葉で呼んでいます。日本語では「愛」と訳されている言葉です。つまり、アガペーなる愛とは、無条件の愛です。

 

 このアガペーなる愛の領域というものは、私たちの日常の意識より、さらに深いところにあるものです。私たちの倫理や道徳をさらに根底から支えている領域であるということができます。聖書が指し示そうとしているのは、倫理や道徳よりさらに深みにあって、それらすべてを支えているこの神さまのアガペーの領域です。

 

“あるがまま”に尊重された世界

 

 この場所においては、私たちの功績はいっさい問われていません。私たちがこれまで何をしてきたか、これから何をするかもいっさい問われていません。この無条件の愛の領域においては、すべてのものが、“あるがまま”に存在しています。私たち一人ひとりが、無条件にゆるされ、生かされています。ここでは、「お返し」の有無もいっさい問われることはありません。私たちはこの場所においてまるで赤ん坊のように、ただ神さまの愛を一心に受け止める存在となります。

 

神さまのアガペーの世界とはつまり、“あるがまま”の世界です。神さまは私たち一人ひとりの存在そのものを、尊重してくださっています。目の前にいる相手を“あるがまま”に尊重すること、ここにアガペーなる愛の本質の一端があるということができるでしょう。

 

豊かさ

 

本日の御言葉には、次の言葉があります。コリントの信徒への手紙二89節《あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです》。

 

ここでは、アガペーなる愛が、「豊かさ」「貧しさ」という言葉を用いて表現されています。《貧しくなられた》とは言い換えますと、すべてを与えて「無一文になられた」ということです。イエス・キリストはすべてをわたしたちに与えてくださいました。そのことによって、私たちが《豊かになるため》です。それは無条件の愛であり、私たちからの「見返り」をいっさい求めないものでした。

 

イエス・キリストによって与えられた「豊かさ」とは、この無条件のアガペーなる愛の世界に結ばれる「豊かさ」であるということができるでしょう。両親の胸にいだかれた赤ん坊は何も所有していません。しかし見方を変えれば、両親からの無条件の愛によって、すべてを所有しているといえるかもしれません。

 

神さまのアガペーなる愛の中で、私たちは“あるがまま”に尊重され、生かされています。イエス・キリストの恵みのなかで、何ももっていないようでいて、すべてを所有しているのだということができるでしょう(コリントの信徒への手紙二610節)

 

《愛の波動》

 

改めて、「お返し」ということを考えてみますと、お返しには、相手に直接お返しをする場合と、相手に直接お返しをする代わりに第三者にお返しをする場合とがあります。

 

たとえば先輩と後輩の関係性というのは後者に当てはまると思います。大学や会社の食事会などでは、後輩は先輩たちのおごりとなります。おごられた後輩は先輩に直接お返しをするのではなく、今度は自分に後輩ができたときに、その後輩たちをおごることで恩を返してゆきます。このように、一対一の関係性で完結するのではなく、第三者に受け継がれ、周囲に広がってゆくかたちの「お返し」もあります。

 

 神さまのアガペーなる愛のもう一つの側面は、この後者に通じるものがあるように思います。神さまはご自分に対するお返しをいっさい求めておられません。その意味で、あくまで無償の愛です。と同時に、その愛を受けた者が、さらに第三者にその愛を伝えてゆくことをも、願っておられます。神さまはご自分にお返しがある代わりに、私たちが「互いに愛しあう」(ヨハネによる福音書1334節、ヨハネの手紙一411節)ようになることを願っておられるのです。

 

友人が教えてくれた内村鑑三の言葉に、次のようなものがあります。「愛の波動」というタイトルの言葉です。《ある人、神の愛に感じ、これに励まされて、われを愛せり。/われ、その人の愛に感じ、これに励まされて、ある他の人を愛せり。/彼またわが愛に感じ、これに励まされて、さらにある他の人を愛せり。/愛は波及す。延びて地の果てに達し、世の終わりに至る。/われも直ちに神に接し、その愛をわが心に受けて、地に愛の波動を起こさんかな》。

 内村鑑三がここで表現するように、神さまの愛とは人から人へ波及してゆく波動のようなものともいえるかもしれません。神さまの愛は私たちの心を励まし、そして他の誰かにその愛を伝えるように駆り立てます。  

 

三田照子さんの書かれたエッセイに、『ぐるぐる回し』というものがありました。ご存じのように、ご本のタイトルにもなっているものですが、このエッセイでも愛は人から人へ「回す」ものだ、ということが語られています。神さまの愛は、人から人へぐるぐると回されながら、どんどん広がってゆきます。

 

内村鑑三や三田さんの言葉にあるように、神さまはご自分の愛が人から人へ伝えられてゆくことをこそ、願っておられるのでしょう。そうして最後には、この世界のすべてが愛で満たされる――その壮大なご計画の一端を、神さまは私たちの手にゆだねてくださっているのだと受け止めることができます。

 

「この最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと」

 

たとえば、福音書の次の言葉には、この神さまの願いがはっきりと表れています。《はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである》(マタイによる福音書2540節)。支えを必要としているある人のためにした行為は、キリストにしてさしあげたことと等しいということが示されている言葉です。

マタイによる福音書253440節《そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。/お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、/裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』/すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いているのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。/いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。/いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』/そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』》。

 

聖書における「愛する」とは、神さまが私たちを“あるがまま”に尊重してくださっているように、私たちもまた互いに尊重し合い、大切にしあってゆくことです。私たちがいま目の前にいる人を、かけがえのない存在として尊重すること、もしその人が支えを必要としているのなら具体的な行動をもって支えてゆくことが、私たちが神さまに対してできる精一杯の「お返し」であるということもできます。

 

相手を思い遣る心をこそ

 

私たちにできることは、神さまが私たちに与えてくださった大いなる恵みを想えば、小さくささやかなものです。自分の小さな行為が果たして「お返し」になるのだろうか、とも思います。

 

けれども神さまは、行為の大小よりも、私たちが互いに相手を尊重し思い遣る心をこそ、尊び喜んでくださる方です。その小さな一滴の心を、まるで大海の水と等しく大きなものとして、喜んでくださる方です。マタイによる福音書にはこのような主の言葉があります。《はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける》(マタイによる福音書1042節)

 

聖書が書かれた当時はもちろん冷蔵庫はありませんから、冷たい水は貴重なものであったようでした。冷たい水を確保するということは、骨が折れる作業であったようです。水を差しだすという行為自体はささやかなものですが、生ぬるくなってしまった水ではなく、このよく冷やした水を差しだすというところに、相手を思い遣る気持ちが表れています。行為の大小というよりは、よく冷えた水を飲んでもらいたいという、相手を思い遣る心をこそ主はお喜びになってくださいます。

 

具体的な行動を起こす

 

本日の聖書箇所は具体的にはエルサレム教会への献金という文脈の中で語られている言葉です。当時、エルサレムにある教会は経済的に困窮した状況にあったようです。それら《貧しい人々》(ローマの信徒への手紙1526節)を支えるための献金運動を勧めるという文脈の中で、これら言葉は語られています。パウロたちはいま困難の中にいる兄弟姉妹を思い遣り、実際に行動を起こそうとしています。

 

私たちにもまた、それぞれの生活の場に、具体的な隣人がいることでしょう。主がわたしを“あるがまま”に尊重してくださっているように、私たちも目の前にいる人を大切にしたいと願います。そうしてもしその人が支えを必要としているのなら、たとえ小さな行為であっても、具体的な行動を起こすことを忘れないでいたいと思います。 

 

たとえ一杯の水しか差しだせなくても、私たちは心をこめて、よく冷えた水をその人に「差し出す」ことができるでしょう。たとえその場に物はなくても、私たちは思い遣りをもった言葉を「かける」ことができるでしょう。またたとえ言葉はなくても、相手に思いやりをもった眼差しを向け、微笑みを「贈る」ことができます。それら相手を思い遣る具体的な行為が相手に伝わり、そうして人から人へ伝播してゆくことで、少しずつ、けれども確かに神の国はこの地上に実現されてゆくのでしょう。

 

最後に箴言の御言葉をお読みいたします。《施すべき相手に善行を拒むな/あなたの手にその力があるなら》327節)――。神さまの愛に励まされた私たちには、善き行いをする力が与えられています。どうぞ私たちが互いをまことに尊重し、大切に支えあってゆくことができますように。