2014年2月9日「慰めの源」

201429日花巻教会説教

 聖書箇所:コリントの信徒への手紙二727

 (イザヤ書511214節、ローマの信徒への手紙1516節)

 「慰めの源」

 

パウロは「特別」な人?

コリントの信徒への手紙二の著者は、使徒パウロです。パウロは、キリスト教の成立において、大きな役割を果たした人物です。新約聖書に収められている手紙の多くも、パウロの著作とされています。

パウロのような人々に対して、私たちは時に自分とは違う「特別」な人物と思ってしまうことがあります。何か私たち人間を超越したような偉大な人物として尊敬するとともに、私たちから少し「遠い」ところにいる人物として感じてしまうことがあります。教派によってはパウロは聖人とされ、人々から特別の敬愛を受けています。多くの人はパウロについて、どんな困難においても信仰を失わず、神さまのために自分のすべてをささげた人というようなイメージを抱いているのではないでしょうか。

 

私たちと「同じ」弱さを 

しかしパウロ自身が記した手紙を読んでいますと、時々、私たちは意外とも思える言葉を目にします。たとえば、パウロがコリント教会を初めて訪問した時のことを振り返った言葉。《そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした(コリントの信徒への手紙一23節)。この言葉から浮かび上がってくるのは、どんな困難にも信仰を失わないパウロの姿ではなく、困難の中で心身ともに疲弊し、恐れに取りつかれているパウロの姿です。本日の聖書箇所であるコリントの信徒への手紙二75節においても、そのような率直な言葉が出て来ます。5節《マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです》。

 

パウロはマケドニア州に着いたある日のことを振り返り、そのとき自分には心身ともに、まったく安らぎがなかったと語っています。心身ともに休まらず、憔悴しきった状態であったというのです。《外には戦い、内には恐れがあったのです》。自分の外には戦いがあるし、自分の内には恐れや不安がある。パウロはそのとき、さまざまな事柄において精神的に追い詰められ、どこにも安らぎを見出すことができない状態であったようです。

 

このような言葉に出会う時、私たちは、意外に思います。パウロには、どんなときも心の内に平安を失わない、「強い」信仰をもった人物というイメージがあるからです。しかしパウロ自身の言葉によると、必ずしもそうではなかったようです。パウロは決して、「特別」な存在ではありませんでした。この私と「同じ」弱さをもち、「同じ」脆さをもった人間であったのです。

 

深い淵の底

改めて、5節以下のパウロの言葉をお読みいたします。56節《マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。/しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました》。

ここでパウロは、自分自身としては、《全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました》と語っています。パウロ自身は、苦難の中で喜びを失い、慰めを感じることができなくなっています。これが一人の人間としてのパウロの、率直な姿でありましょう。

 

6節に、《気落ちした者》という言葉があります。原文の言葉は、「落ち込んでいる」ということ以上の、深刻なニュアンスを含んでいる言葉であるようです。ある人はこの言葉に、《深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます》という詩編の言葉(詩編1301節)を重ね合せています。パウロはこの時、ただ気落ちしているだけではなく、深い淵に落ち込んでいるということができるほど辛い心境にあったことが伺われます。 

 

慰めの源

そのパウロに、しかし、慰めがもたらされました。6節《気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました》。パウロはそのように深い淵に落ち込んでいましたが、神さまがパウロを慰めてくださった、というのです。この言葉から、パウロが深い淵から引き上げられたのは、パウロ自身の力ではなく、神さまの力によるものであったということが分かります。パウロ一人の力だけでは、その窮地から這い上がることはできませんでした。

これらパウロの言葉からまず思わされることは、私たちに慰めを与える源とは、「神さまご自身である」ということです。

 

人を通して

ただし、その慰めの出来事というのは、深い淵に落ち込んでいたパウロに向かって、天からの救いの手が伸びてきたというような、奇跡的な出来事ではありませんでした。そうではなく、テトスという一人の人物が来てくれたことによって、パウロに慰めがもたらされました。6節《気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました》。

 客観的な事実としてあるのは、同労者であるテトスがパウロのもとに来てくれたということ、そして喜ばしい報告をしてくれたということです。それが、パウロにとっては神さまご自身から慰めを受けたという出来事として感じられたのです。

 

 これらのことから思わされることは、神さまは人を通して、慰めを与えられるということです。慰めの源は神さまご自身でありますが、しかし神さまはその慰めを、私たち人間の具体的な働きを通してもたらそうとしておられます。

 

もちろん、一人きりで祈っているときに慰めが与えられる、ということがあります。いまこの瞬間神さまが共にいてくださることを知ったとき、私たちの心には深い慰めが与えられます。一方で、人を通してこそ実現される慰めも、またあるように思います。

 

私たちは常に、人との関係性において生きています。私たちがもっとも多く思い悩み、また苦しむのは、人との関係においてです。では人との関係から離れて一人で生きてゆくと、傷がいやされるかというとそうではないでしょう。私たちは互いに傷つけあってしまう存在ですが、その傷を癒す働きをするのもまた私たち自身です。

 

パウロとコリント教会

 本日の聖書箇所においても、パウロを取り巻く人間関係の中に、痛みと慰めが起こったということが語られています。詳しいことははっきり書かれていないので推測することしかできませんが、このときパウロはコリント教会との間に、深刻な亀裂が生じてしまっていたようです。パウロはそのことを深く傷つき、悲しんでいました。

 

パウロはこの問題が解決へと導かれることを懸命に神さまに祈ったことでしょう。自分はこれからどうしてゆくべきか、神さまに祈り求めたことでしょう。その結果、パウロが実行したこととはコリント教会に人々に向けて手紙を書くということでした。ただ問題が解決に導かれることを待ち望むだけではなく、ささやかながら、ひとつの具体的な行動を起こしたのです。

手紙において、パウロは自分の言葉を一切オブラートで包むことなく、真意をはっきりと伝えようとしました。自分の内にある想いを、ありのままさらけ出すような手紙を書き送りました8節以下を参照)

 

 手紙を書き送った後で、パウロは強烈な不安に襲われたようです。自分の言葉はちゃんとコリントの人々に伝わるだろうか。誤解されて受け取られはしないだろうか。この手紙が原因で、さらに距離が遠くなり、遂には関係が途切れてしまうことにならないだろうか。パウロは考えれば考えるほどどんどん不安になり、心は恐れに取りつかれていったようです。

 

このようなパウロの姿からも、パウロは私たちとまったく「同じ」一人の人間であったことが分かります。パウロが抱いていた恐れとは、かけがえのない存在が失われてしまうのではないか、という恐れです。それほどまでに、パウロはコリント教会の人々のことを、かけがえなく大切に想っていたということが伝わってきます。

 

パウロとテトス

そのような中、コリント教会に派遣される役割を引き受けたのが、パウロの同労者であり、友であるテトスでした。テトスはコリントに行き、コリント教会の人々の様子をパウロに伝える役目をも託されることとなりました。

 

テトスを見送ったパウロは、彼が再び戻ってくるのを、切実な想いと共に待ち続けました。ついにはコリントの街に比較的近いマケドニア州まで自ら赴き、テトスの到着を待つことまでしたようです。マケドニア州にまで行った方が、より早くテトスに合うことができるからです。このときの心境を記しているのが、本日の5節の言葉です。5節《マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです

 

 そのような中、テトスが戻ってくる日が来ました。マケドニア州で、無事パウロはテトスと再会できました。深い淵の底にいるような心境であったパウロは、友が自分のそばに来てくれたことに大きな励ましを受けたことでしょう。

テトスの報告がどのようなものであったかは、パウロ自身が記しているとおりです。67節《しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました。/テトスが来てくれたことによってだけではなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、そうしてくださったのです。つまり、あなたがたがわたしを慕い、わたしのために嘆き悲しみ、わたしに対して熱心であることを彼が伝えてくれたので、わたしはいっそう喜んだのです》。

 

喜ばしいことに、パウロの真意はしっかりとコリント教会の人々に伝わっていました。コリント教会の人々が変わらずパウロを慕い、パウロのために嘆き悲しみ、パウロに対して熱心であることを、テトスは伝えてくれました。

この事実はテトスとパウロの心に、深い慰めをもたらしました。

 

人を想う気持ちが

 パウロの手紙がコリント教会の人々に受け入れられたのは、もちろんその内容が適切であったということもあると思いますが、それ以上に、パウロのコリント教会を大切に想う気持ちが届いたからだ、ということができるでしょう24節)。パウロのコリント教会の人々を想う気持ちが、コリント教会の人々の心を動かし、コリント教会の人々の心を立ち還らせたのです。

 

これら和解の出来事において、神さまの働きは、表立っては私たちの目には見えてきません。具体的に行動したのはパウロであり、テトスであり、コリント教会の人々です。しかし神さまは目には見えないところで、確かにパウロたちを支え、和解へと導いてくださっていたのだと受け止めることができます。

 

愛の源 

イエス・キリストは、私たち一人ひとりの心の深い所におられ、私たちに互いを思い遣る気持ちを与えてくださっています。イエス・キリストこそ、私たちの内から湧きあがる愛の、その源です。パウロがコリント教会を想う気持ちも、イエス・キリストから与えられたものだということができるでしょう。具体的に行動を起こすのは私たち一人ひとりですが、しかし私たちに互いを思いやる心そのものを与えてくださっているのはイエス・キリストです。キリストは私たち一人ひとりに、その心の深みから、「和解せよ」と呼びかけておられます。

 

私たち自身は、弱い者です。自分自身の恐れや不安ですぐにも心がいっぱいになってしまう者です。すでにご一緒に見てきましたように、パウロもまた、そのような弱さをもった人間でした。しかしイエス・キリストはその私たちの弱さをありのままに受け止めてくださり、その弱さの内に、キリストの愛が宿るようにしてくださっています。だからこそ、私たちは力を得て、和解の道への第一歩を歩み出すことができます。

 

和解の道を 

パウロはこの度の出来事を踏まえて、次の言葉を残しています。4節《…わたしは慰めに満たされており、どんな苦難のうちにあっても喜びに満ちあふれています》。この言葉は、《外には戦い、内には恐れがあった》という5節の言葉とは対照的です。コリント教会との間に和解が実現されたことにより、パウロの心には消えることのない慰めと喜びがもたらされました。それはパウロとコリント教会の人々のかけがえのない関係においてこそ、実現された慰めと喜びであったということができます。このかけがえのない関係性をおいて他には、実現され得なかった慰めと喜びです。

 

 私たち一人ひとりもまた、かけがえのない関係性が与えられています。それぞれに与えられている関係性において、私たちが少しずつ和解を実現してゆくことを、キリストはいつも願ってくださっているのではないでしょうか。私たち自身には、それが時に大いに困難なことに思えるかもしれません。考えれば考えるほど、かつてパウロが陥ったように、不安と恐れの淵の中に落ち込んでしまうかもしれません。けれども、キリストの愛が、いつも私たちを根底から支え、和解を成し遂げてゆく力を与えてくださっています。

 

 パウロはこのように述べています。愛は、《すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。/愛は決して滅びない》(コリントの信徒への手紙一1378節)

 私たちもいま、このキリストの愛を信じ、この愛に根ざしながら、かけがえのない人々との和解の道へと、また新しい一歩を歩み出したいと願います。