2014年3月16日「惜しみなく分け与え」

2014316日花巻教会説教

 

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二9115

「惜しみなく分け与え」

 

 

ミレーの「種をまく人」

 

ミレーのよく知られた絵に、「種をまく人」の絵があります。さまざまな機会に目にすることのあるとても有名な絵ですが、この絵はほぼ同じ構図のものが二枚存在しているそうです。一枚はボストン美術館、もう一枚は山梨県立美術館に所蔵されています。私はまだ実物は観たことはありませんが、皆さんの中には、実物を御覧になったことがあるという方もおられるかもしれません。

 

 

 このミレーの絵で描かれている種まきの仕方というのは、私たち日本に住む者の種まきのイメージとはまた異なっています。種まきというと、土の中にていねいに一粒ずつ、もしくは数粒ずつ植えてゆくというイメージをもっている方が多いかと思いますが、この絵で描かれているのは、よくたがやした畑に種を振りまいてゆくやり方です。

 

 

 聖書の中には種まきのたとえが出てきます。聖書が記されたイスラエルでも、一般的に、種まきはミレーの絵のような方法で行われていたようです。たとえばイエス・キリストが種をまく人のたとえをしたとき、人々が頭の中に自然にイメージしていたのは、ミレーの絵のような光景であったでしょう。

 

 

 神学校を卒業するとき、同級生全員が、ある方からミレーの「種をまく人」のレプリカをいただいたことがありました。山梨県立美術館に所蔵されている方の絵の、小さなレプリカです。それはいま牧師室に飾っておりますが、その絵をこの度改めてじっくりと見てみました。

 

 絵の中の男性は、肩から種が入った種袋をぶらさげています。種の重みで種袋はたれさがっているので、中には種がいっぱい入っていることが分かります。男性はその種袋から右手で種を取り出し、それを畑に振りまいています。遠くの方には、畑を耕している姿も描かれています。

 

印象的なのは、種をまく男性はまっすぐ前を向いているというところです。手元の種袋や、種が落ちてゆく地面の方は見ていません。まっすぐ前を見つめながら、右足を力強く前へ踏み出しています。

 

 

 この種まく人の姿から何を感じるか、というのは人それぞれでありましょう。私が印象深く感じ取るのは、種を蒔く男性が醸し出している真剣で、また厳かな雰囲気です。この絵の中の男性はいやいや仕事をしているようにはまったく見えません。むしろ、何か使命感のようなものすら抱きながら種をまいているようにも見えます。ミレーは実際にこのように、厳かな様子で種をまく人々の姿を見て心打たれ、絵画に取り上げようと思ったのかもしれません。

 

 

惜しみなく分け与え

 

本日の聖書箇所に、次のような言葉がありました。コリントの信徒への手紙二96節《つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです》。

 

 

ここでパウロは、種まきのイメージを用いています。畑に種を振りまいてゆく人の姿というのは、当時の人々にとって、身近なものであったようです。パウロはこの身近なイメージを用いて、「わずかしか種を蒔かない人は刈り入れもわずかであり、豊かに蒔く人は刈り入れも豊かである」と言っています。当たり前といえば当たり前のことですね。もちろんこれはたとえであって、パウロがあることについて励ましたいがために、ここで身近なこの種まきのイメージを用いています。そのあることというのは、エルサレム教会への献金運動です。

 

 

当時、エルサレムの教会は経済的に困窮した状態にあったようです。パウロはエルサレム教会を支えるための献金運動に、全身全霊で取り組んでいました。手紙の宛先であるコリント教会の人々もこの運動に加わっていましたが、何らかの理由でそれは中止になっていたようです。パウロはコリント教会の人々に対して、着手していたその支援をぜひ最後まで成し遂げるようにと励ましています。

 

ただしそれは強制になってはいけない、とパウロは考えていました。「パウロ先生がそうしろと言ったから」といってコリント教会の人々が支援するのでは、意味がない。そうではなく、自発的な想いでそうしてほしい、というのがパウロの希望でした。

 

 

そこで用いたのが、先ほどの種まきのたとえです。6節《つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです》。7節《各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです》。喜んで与えるところに、神さまの祝福があるということをパウロは語ります。

 

 

ここでパウロは献金の「金額の大小」を問題にしているのではないということはもちろんのことです。そうではなく、献金をささげるときの「姿勢」を問うています。惜しんでいるということは、いやいやそうしているということです。惜しみなく分け与えているということは、自らの主体的な決断をもってそうしているということです。献金運動において大切なのは、この自発的な意思であることをパウロは伝えようとしています。

 

先ほどのミレーの「種をまく人」の絵を思い返してみますと、種をまく男性にいやいや作業している風には見えません。男性はあくまで主体的に、《自分がこうしようと心に決めたとおりに》作業をしているように見えます。

 

 

大いなる恵みに身をゆだねる

 

と同時に、ミレーの絵の種をまく人は、あくまで主体的でありながら、また同時に、その大きなサイクルの中に身をゆだねているようにも見えます。

 

種まきという作業は、一年の大きなサイクルの中の一部分でもあります。種まきの後には耕すという作業、水をやり肥料を与えるという作業、そうして時が来たら刈り入れという作業が待っています。大きなサイクルの中のはじまりに位置しているのが種まきという作業です。

 

 

ミレーの種をまく人は、目には目えない自然の働きに自身をゆだねながら、その働きの一部分となりながら、作業に没頭しているようにも見えます。大いなる自然の働きの一部分となるという使命と、その喜びを感じながら、男性は種まきに没頭しているのかもしれません。

 

パウロは10節で次のように語っています。《種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます》。

 

パウロは、私たちの日々の生活の背後に神さまの働きを見ていました。種を蒔く人に種を与えてくださるのは、他ならぬ神さまであり、私たちにパンを糧として与えてくださる方も神さまである、と。その神さまを信頼するからこそ、私たちは豊かに与えることができるのだとパウロは語ります。種をまくということは、神さまから豊かに与えられた賜物を、神さまに「お返しする」ということだということもできるでしょう。

 

 

「与える」ことと「無くなる」こと

 

 豊かに与えた先には、豊かな刈り入れが待っている。それを成し遂げてくださる神さまを信頼するようにとパウロは呼びかけています。

 

 

 一方で、「与える」ということは、やはり、「無くなる」ことを伴うことでもあります。種袋の中にまた来年種がいっぱい満たされるのだとしても、今日という日に限って言えば、種はどんどん減り続けています。遂には、袋の中はからっぽになります。

 

 

「与える」ということは、「無くなる」ということと切り離すことはできません。種袋の中の種は、無尽蔵ではないからです。限りあるものであり、それはどんどん無くなってゆくものです。

 

 もし魔法のように、種袋の中から種が尽きることなく湧き出て来るのであれば、私たちはいくらでも惜しまずに蒔くことができるでしょう。けれども種袋の種はいつしか無くなるだからこそ、私たちの内にはそれを惜しむ気持ちが出て来ます。まただからこそ、惜しむことなく与える姿は尊いということができます。

 

 

 私が思い起こすのは、多くの人々に愛され続けているアンパンマンの姿です。アンパンマンは自分の顔をちぎってお腹がすいている人に与えますが、その分、アンパンマンの顔は無くなり、元気は失われてゆきます。しかしそれでもなお、困っている人を目の前にすると、アンパンマンは自分の顔を与えずにはおられません。絵本の第一作『あんぱんまん』のあとがきで、著者のやなせたかしさんは《ほんとうの正義というものは、けっしてかっこうのいいものではないし、そしてそのためにかならず自分も深く傷つくものです》と述べています。

 

 私たちにとって、「与える」ということには「失う」ことを伴います。だからこそ与えるということは時に非常に難しいものです。けれどもだからこそ、自らの意思をもってそれがなされることはまことに尊い。そして私たちの心に底には、それでもなお、与えずにはおられないという真心が、神さまから与えられているように思います。

 

 

主は貧しくなられ

 

聖書が提示する「与える」という行為も、やはり「失う」ということとは切っても切り離せないものです。何より、神さまご自身が、そのようなかたちで「与える」ということを実現してくださったと聖書は伝えています。

 

 

 8章の9節にはこのような言葉がありました。《あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです

 

 イエス・キリストの恵みを語るのに、私たちが「豊か」になったということだけを語るのではなく、その分、主ご自身は「貧しく」なられたということが、ここでは語られています。

 

 

 考えてみると、不思議な表現でもあります。私たちは、神さまの恵みというのは限りないものであり、無尽蔵なものであるというイメージを心のどこかで持っています。そのイメージは間違いではないでしょう。ただ、ここで語られる恵みはそうではありません。与えた分、無くなってしまうものとして、与えた分、自らは貧しくなられるものとして語られています。

 

 この不思議な表現がなされているのは、「イエス・キリストが人となられた」ということと関わっています。イエス・キリストが人間となられたということは、全能である神さまの立場を自ら捨てられた、ということです。そうして、私たちとまったく同じ現実を生きることを自らの意思をもって選ばれた。私たちと同じ肉体をもち、その生涯を送られた。その肉体とは、弱く傷つきやすい肉体であり、やがては生き物としての死を迎える肉体です。

 

 聖書が記すのは、主は十字架におかかりになることによって、その「限りある」命を、私たちに与えられた、ということです。ここに、大切な者のために自身のもっとも大切なものを与えるという、まことの愛が私たちに示されました。神の御子ご自身が、命をもって、アガペーなる愛を私たちの間に実現してくださいました。

 

 

パンを裂いて分かち合う

 

主イエスがその全生涯を通して私たちに伝える姿勢とは、「限りあるものを、互いに分け与える」という姿勢です。限りあるものであるからこそ、私たちはそれを互いに分かち合うことができます。

 

聖書において、パンは「裂いて」分け与えられるものです。一つのパンが裂かれ、いま目の前にいる人々に与えられてゆきます。

 

 

私たちが手にしているものには、限りがあります。お金や食料が無尽蔵に出て来るような魔法の袋を、私たちは持ち合わせていません。与えるということは、ひとつのパンを裂いて分け合うように、自分の取り分は少なくなってゆくということを意味します。しかし自分の取り分を失ってまで、相手に与えることができるとしたら、それはまことに尊い姿だということができるでしょう。

 

 

お腹を空かせている人が目の前にいるとしたら、「神さま、どうぞその人に天からパンを降らせて与えてください」と祈るのではなく、いま現に自らの手にあるパンを裂いてその人に分け与えることこそが、大事であるように思います。

 

 

まことの豊かさ

 

私たちがそのように一つのものを分かち合ってゆくことによって、キリストによって示された神の愛が、私たちの間に新しく実現されてゆきます。目に見えるものは分ければ分けるほど小さくなってゆきますが、その分だけ、神さまの愛がよりはっきりと、私たちの目に見えるようになってゆきます。イエス・キリストのお姿が、その愛が、私たちの目によりはっきりと目えるようになってゆきます。

 

 

その意味で、「与える」とは「失う」ことであると同時に、やはり神さまから、まことの豊かさを「与えられる」ことだと言えます。私たちにとって「与える」ということはもはや、単なる自己犠牲を意味しているのではありません。私たちは互いに分かち合うほどに、私たち自身が、より神さまの愛を間近に感じ取ることができるようになってゆくからです。この愛は私たちの心を互いに暖め、私たちの心はまことの豊かさで満たされてゆきます。この出来事こそが、私たちにとって、何よりの豊かな刈りいれであるということができるでしょう。

 

 

このまことの豊かさは、私たちの心に神さまに対する感謝の念を引き起こすとパウロは述べています。1112節《あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。/なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです》。そうして、《言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します》(15節)という言葉で本日の御言葉を締めくくっています。

 

 

どうぞ私たちが、自分の賜物を、いま目の前にいる人に分け与えてゆくことができますように、その勇気と愛が、私たちに与えられますようにお祈りしたいと思います。