2014年3月2日「互いに補い合って」

201432日花巻教会説教

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二81015

「互いに補い合って」

 

 

エルサレム教会への献金運動

 

昨年の秋から、コリントの信徒への手紙二をご一緒に礼拝の中で読み進めています。これらの言葉は、聖書の言葉であると同時に、パウロという人物がコリント教会へ向けて記した手紙の中の言葉でもあります。よって、パウロの一つひとつの言葉の背景には、パウロとコリント教会が直面していた具体的な状況があります。

 

1011節《この件についてわたしの意見を述べておきます。それがあなたがたの益になるからです。あなたがたは、このことを去年から他に先がけて実行したばかりでなく、実行したいと願ってもいました。/だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです》。

 

 

冒頭に、《この件》という言葉が出て来ました。《この件》とは具体的には、エルサレム教会への献金運動のことが言われています。当時、エルサレム教会の人々は経済的に困窮した状態にあったようです。コリント教会はそのエルサレム教会を支援するための献金運動に参加していました。それが何らかの要因によってストップしていたのですが、パウロはその献金運動を最後までやり遂げるようにと励ましています。

 

 

 このパウロのアドバイスの中に、意外とも思える言葉が記されています。10節《それがあなたがたの益になるからです》。献金運動は、ただエルサレム教会のためになるだけではなく、彼ら自身のためにもなる、というのです。ここでは必ずしも、ただ一方的に「与える」ということが言われているわけではないようです。

 

 

「情けは人のためならず」?

 

日本には「情けは人のためならず」ということわざがあります。人に情けをかけるのは、その人のためになるばかりでない。やがてはめぐりめぐって自分に返ってくるのだから人には親切にせよという意味の言葉ですが、パウロはこのことわざと同じことを言おうとしているのでしょうか。

 

 

たとえば14節のパウロの言葉は、そのよう意味にも受け取れます。14節《あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです》。いま献金をしてエルサレム教会を支えれば、いつか、自分たちが困難な状態になった時に他の教会が支えてくれるであろう。エルサレム教会への献金は自分たちコリント教会のためにもなるのだから、やり遂げなさい、という理解です。

 

 

「情けは人のためならず」ということわざとパウロの言葉は、他者への助けは自分のためにもなるという視点において、確かに共通しているということができます。互いに支え合ってゆく、「困ったときはお互いさま」の精神ですね。

 

 

社会との連帯意識

 

「情けは人のためならず」という言葉には続きの言葉が付されることもあります。幾つかのバリエーションがあるようですが、たとえば、「情けは人の為ならず 巡り巡って己が為」。

 

「巡り巡って」ということは、情けをかけた相手から直接すぐに「お返し」があるわけではないということを意味します。むしろその情けはリレーのたすきのように、どんどん他の人々にまわされてゆきます。そうしてそのたすきリレーが、社会をよりよく変えてゆくことにつながってゆきます。その親切が巡り巡って、やがてはまた自分のところへ帰ってくるかもしれない。もしくはたとえ自分に帰って来なくても、社会がよりよくなるそのことが、何よりの自分への「お返し」であるということもできます。

 

 

 そのように捉えますと、「情けは人のためならず」というのは、必ずしも自分の利益を求めての言葉ではないようにも思えます。直接的な見返りは、必ずしも求めていない。むしろ「社会がよりよくなってゆくこと」が自分への見返りであるという、ある意味、成熟した考えがその背景にあるように思います。

 

 

 このような考え方をすることができるために、欠かせないものがあります。それは、「連帯意識」です。社会との連帯意識が確立されているからこそ、「情けは人のためならず」という言葉は成立します。

 

 

 昔はいまと違って地域社会のつながりが濃密でしたので、このような言葉も自然と浸透することができたのでしょう。一方でいまの社会は、どんどんつながりが希薄になってきています。連帯意識が希薄になってきた状況にあっては、「情けは人のためならず」という言葉は、必ずしも自明のものではないでしょう。

 

「情けは人のためならず」ということわざとパウロの言葉のもう一つの共通点は、確固とした「連帯意識」が前提とされているという点です。

 

 

連帯意識の喪失

 

 私たちがいま生きている社会は、連帯意識がどんどん失われていっている状況です。家族や地域共同体のつながりが失われていっていると言われてからすでに久しいですが、それはさらに進行し続けています。現在、多くの人が、特に若い世代の人々が、心の内に社会からの孤立感を抱えているように思います。自分は社会から切り離されてしまっているという感覚です。本来自分を守ってくれるべき存在である家庭や社会から受け入れられていないという想い、拒絶されているという意識です。

 

 

この孤立感は、どんどん本人を苦しめ、追いつめてゆきます。それが極限状態にまでなると、自分自身に対する破壊的な衝動、または社会に対する無差別的な攻撃へと至ることがあります。実際、そのような出来事が後を絶ちません。先日、名古屋で自動車の暴走による無差別傷害事件が起こりました。どうしてそのようなことが起こったのか、第三者である私たちにはまことに理解することはできませんが、ニュースの中で、犯人の青年が「社会に受け入れられていない感覚があった」という趣旨の発言をしたと報道されていたのが印象的です。これは、現代人が抱える深刻な孤立感を象徴している言葉と言えるのではないかと思いました。

 

 

「生きる」ことへとつなぎとめるもの

 

このような事件が起きてしまうのがいまの私たちの社会の実態ですが、しかし私たちは、たった一つでも誰かと密接につながっているという感覚をもつことができれば、少なくとも破壊的な衝動へ至る可能性を大いに減少させることはできます。

 

 

現在インターネットが普及し、インターネットの中でも無数のコミュニティーが作られています。インターネット上のつながりというのは「顔が見えない関係」とか「自分の都合によって簡単につながりを切ることができる関係」などの批判があります。けれども、たとえインターネット上のやりとりであっても、共同体が存在しているというのは重要なことでしょう。もしかしたらそれがある人にとっては実際に「生きる」ことへつなぎとめてくれている最後の一線になっているかもしれません。インターネットのコミュニティーがその人の孤立感を多少であってもやわらげ、破壊的な衝動からその人を守っているのだとしたら、大変意味のあることです。もしかしたらいま、インターネットが多くの人の命を保護している側面があるかもしれません。

 

 

ただしそれはあくまで応急処置であって、コミュニティーであればどんなコミュニティーでもいいということではもちろんありません。応急処置の次には、回復に向かうための処置が必要です。がしかし、何より最優先されるべきことはその人の命が守られることですので、何らかの共同体とつながりをもつ機会が確保されているというのは歓迎すべきことです。

 

 

イエス・キリストの連帯

 

 では私たち自身がもはや何のつながりも見いだせないとき、私たちは失望するしかないのでしょうか。聖書が私たちに伝えるのは、それでもなお、私たちには光が与えられている、ということです。たとえすべてのつながりが絶たれたように思えても、それでも、私たちは独りではない。

 

私たちを「生きる」ことへとつなぎとめるまことの最後の一線である、イエス・キリストがおられるからです。私たちを「生きる」ことへつなぎとめる最後の一線であり、そして最大の一線とは、私たちの内に生きておられるイエス・キリストです。

 

 

イエス・キリストは私たちの存在の底から、「生きよ」と語りかけておられます。私たちが「生きる」ことへとつなぎとめようとしてくださっています。たとえ社会が自分を受け入れてくれないように感じても、イエス・キリストがこの私のすべてを受け入れてくださっています。キリストが、あなたのすべてを受け入れてくださっている。だから、どうか「生きていってほしい」――とキリストは願っておられます。キリストこそ、この私と決して切り離されることはなく、「連帯」してくださっている方です。

 

 

 旧約聖書のイザヤ書にはこのような言葉があります。《わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする(イザヤ書434節)

 

私たち一人ひとりの存在がどれほどかけがえなく尊いかということが言われている言葉です。言い換えれば、あなたの代わりとなる存在はどこにもいない、ということです。

 

 

神さまから見て、私たち一人ひとりの存在は、かけがえなく、尊いものです。決して誰ひとり不当に軽んじられてはならないし、誰一人失われてはなりません。

 

 

マナの出来事

 

パウロは本日の聖書箇所の最後に、次の言葉を記しています。15節《「多く集めた者も、余ることはなく、/わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった」と書いてあるとおりです》。互いに支え合うことが大切であるということを述べた後に、付け加えられた言葉です。

 

 

この言葉は、旧約聖書『出エジプト』の、マナの出来事から引用された言葉です(出エジプト記16818節)。イスラエルの人々が荒れ野の旅をしているとき、不思議なマナという食物が神さまから与えられ、必要な日々の糧が与えられたという出来事です。《多く集めた者も、余ることはなく、/わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった》。イスラエルの人々は、ある一部の者が過剰に富むこともなく、ある者たちが困窮することもなく、それぞれが必要な分のマナが与えられました。

 

 

 パウロは13節と14節に、《釣り合い》という言葉を用いています。14節《あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです》。《釣り合い》とは、別の言葉で言いますと、「平等」ということです。この「平等」の捉え方の根底にあるのは、神さまの目から見て、私たち一人ひとりが「等しく」尊いという視点です。マナの出来事において一人ひとりに「等しく」食料が与えられたということは、神さまが私たち一人ひとりに「等しく」、生きる権利を与えてくださっているということです。

 

 

 神さまから私たち一人ひとりに与えられている尊厳は、何ものも侵害することはゆるされません。一人ひとりが、神さまの目から見て、かけがえなく尊いということ。それはまるで「法」のように、この世界に厳然と存在しているものです。古代イスラエルの人々はマナの出来事を通して、この真理を、身をもって経験しました。

 

 

一人ひとりの尊厳がもっと目に見えるように

 

 私たちが共同体とつながりをもつ重要性を先ほど述べましたが、共同体をかたちづくってゆく上で何より大切にすべきなのは、一人ひとりの存在の尊厳ということでしょう。

 

あなたという存在は、神さまの目にかけがえなく尊い。そして同様に、周りにいる一人ひとりも尊い。私たち一人ひとりは、キリストご自身が連帯して下さっている、かけがえのない存在です。この個々人のまことの尊厳が土台に据えられた連帯意識の形成こそ、聖書が私たちに求めているものです。

 

 

神さまから与えられている人間の尊厳を、もっとはっきりと目に見えるようにすること。それが私たち一人ひとりに託されている務めです。私たちが互いを尊重し合い、互いに支え合ってゆくことによって、一人ひとりのかけがえのなさは、もっとはっきりと目に見えるようになってゆくでしょう。

 

 

わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする》。

 この神さまの愛に基づいて、今度は私たち自身が、マナの出来事を実現してゆくのです。私たちが互いを思いやり、互いに補い合う連帯の中に、どうぞ神さまの愛が輝き出でますようにと願います。