2014年3月23日「造り上げるために」

2014323日花巻教会説教

 

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二10111

 

「造り上げるために」

 

 率直な手紙

 

お読みしましたコリントの信徒への手紙二は、いくつかの手紙がつなぎ合わされて構成されていると考えられています。一つの手紙だけではなく、何通かの手紙が合わさって、最終的にいま私たちが目にしているかたちとなったようです。

先週ごいっしょにお読みしました9章と、本日の聖書箇所である10章とでは、その内容も文章の雰囲気も随分と違いがある印象を受けます。その理由として考えられるのは、9章と10章は、本来はパウロが別々の時期に出した手紙である、ということです。もともとは異なった日付で出した手紙であるので、内容も言葉の雰囲気もまた異なったものになっているのでしょう。10章にはじまる今回の手紙は終わりの13章まで続いています。

 

 

10章からはじまる手紙の特徴の一つは、パウロがいっさいの遠慮をせずに、本音を述べているところです。コリント教会の人々に向けて、時に言い過ぎではないかと心配するくらい、パウロは自分の率直な想いを正直に述べています。この手紙が書かれた当時、コリント教会の人々とパウロとの間には、溝が生じてしまっていました。関係が修復されることを願って書かれたのが、この度の手紙です。

 

 

パウロに対するネガティブキャンペーン

 

きっかけは、パウロに批判的な人々が外部からコリント教会にやってきたことでした。その人々は意図的に、パウロに対する批判を繰り広げていったようです。その結果、コリント教会の人々の内に、パウロに不信感を抱いてしまう人が現れてしまったようです。

 

パウロにとって、反対者たちによる批判は、本意ではないものでした。それら批判においては、パウロの真意は意図的に歪められてしまっていました。今日の言葉でいうと、パウロに対する一種の「ネガティブキャンペーン」が繰り広げられてしまっていたのだ、ということができるでしょう。選挙などで候補者のライバルについてネガティブなイメージを植え付ける宣伝をすることを「ネガティブキャンペーン」といいますが、そのように、意図的にパウロの信頼を損なわす目的をもって批判が繰り広げられていたようです。

 

 

もしも当時インターネットがあったとしたら、ネットの掲示板やツイッターなどに、パウロに対する誹謗中傷が日夜書き込まれているような状態であった、といえるでしょう。ある人のブログが「炎上する」という言い方もありますが、パウロという人は、いつも反対者たちからの批判で火だるま状態(!)であった人のようです。さぞかし大変であったことでしょうね……!

 

意図的に、イメージダウンを狙ってなされている批判ですから、周囲の人々に対する影響力も大きなものがあったでしょう。教会の中にも実際に、それら言葉を鵜呑みにしてしまう人が生じてしまっていました。

 

 

これら悪意のある言葉に対抗するために書かれたのが、本日の10章からの手紙です。パウロの言葉もかなり激烈な調子となっています。パウロはこの度の事件によって、コリント教会とのつながりが途切れてしまうのではないか、とまで心配していました。その最悪の事態を防ぐため、パウロはこの手紙においていっさいの遠慮なしに、自分の率直な想いを手紙に書き記しています。ネガティブキャンペーンによる誤解をとき、パウロの真意を伝えるためです。

 

パウロ自身、まさかその手紙が後年聖書に組み入れられるとは思ってもみなかったことでしょう。もしもいまこの場にパウロがいたら、顔を真っ赤にしていらっしゃる(!?)かもしれません。

 

 

 

パウロの「弱々しさ」

 

 本日の聖書箇所の中には、反対者たちからの批判の言葉が、パウロ自身によって引用されています。どのような言葉が、少し見てみましょう。たとえば、10節の言葉です。10節《わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいるからです》。

 

 

 ここで取り上げられている批判は、神学的な内容ではなく、パウロの人格についての批判であるということが分かります。「パウロは手紙では重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」という批判がなされていたのです。明らかに、パウロのイメージダウンをねらって発されている言葉です。たわいのないといえばたわいのない批判でありますが、このようなたわいのない悪口が、意外と私たちの心にはチクリと刺さって残り続けてしまうものです。

 

 

 悪意をもった批判の言葉というのは、完全に的を外した批判はなさず、「確かに言われてみればそうだなあ」という一点を突いて批判してくるので、時に不思議な説得力をもつことがあります。周囲の人々も「そう言われてみればそうだ」と同調してしまうし、言われた本人も、「確かに自分にはそのような側面があるのかもしれない」と思い、傷つきます。

 パウロという人も一見、「弱々しい」印象を与える人物であったというのは、実際に、そうであったようです。ただしその「弱々しさ」は、見方を変えれば、「柔和さ」「おだやかさ」という、よい意味に受け止めることもできます。パウロの批判者たちはこの一点をネガティブな意味で取り上げ、そこに悪意ある言葉を加えていったようです。パウロも手紙で引用しているほどですから、この悪口がずっと心に残ってしまっていたのでしょう。ただし、パウロがわざわざ手紙で引用しているのは、ただ傷ついたからということではなく、また別の理由があるように思います。

 

 

キリストの「謙遜さ」

 

改めて、手紙の冒頭の部分を読んでみたいと思います。101節《さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います》。ここにも、パウロに対する批判の言葉が引用されています。「面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る」という批判です。先ほどの批判と似たような批判であるということができるでしょう。

ここでもやはりパウロの面と向かっての印象が「弱々しい」ということが取り上げられています。パウロは離れた場所から語る言葉は強気であるが、いざ面と向かっての言葉は弱々しい、という批判です。この批判は、パウロという人は意気地のない人である、また卑怯な人である、というネガティブなイメージを人々に植え付けます。

 

 

しかし、ここでパウロは、自分に対するそのネガティブな批判を引用しつつ、それをポジティブな内容にひっくり返して見せています。《弱腰》という言葉が出てきていますが、この語は元来は「低い」ということを表す言葉です。ここでは、「心が低くへりくだっている」ということですね。この語には「卑屈な」という意味がありますが、一方で、「謙遜な」という意味ももっています。「心が低い」ということは、否定的に表現すれば「卑屈さ」となり、肯定的に表現すれば「謙遜さ」となります。

 

 

この「へりくだっている」という語を、キリストご自身が用いておられるところがあります。《疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。/わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。/わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである》(マタイによる福音書112830節)。

 

ここで主イエスはご自身を《柔和で謙遜な者》と語られていますが、この「謙遜」という語が、先ほどの語と同じものです。パウロの「謙遜さ」とは、つまり、イエス・キリストにつながるものとしての「謙遜さ」であったということができます。

 

パウロの批判者たちは悪口としてこの言葉を使いましたが、パウロはここで、それをよい意味に逆転させています。パウロの「弱々しさ」とは、《キリストの優しさと心の広さ》につながるものであったのだと、私たちは受け止め直すことができます。ここに、パウロの伝えたかった真意があります。

 

 

私たちのまことの「土台」

 

私たち自身は、恐れから他者との対決を避けてしまうことがあります。問題に直面することを避け、逃げてしまうのです。私たちによく起こってしまうそのような「弱々しさ」は、キリストの「謙遜さ」とは似て非なるものです。

 

 

イエス・キリストの謙遜さは、私たちに真正面から向かい合い、私たちに働きかけてくださるものです。そうしてついには、私たちの頑なな心の壁を打ち崩してしまうものです。

 

けれどもだからといって、取っ組み合いで相手をねじ伏せるようにして、強い力で無理やり私たちを打ち崩してしまうというものではありません。そうではなく、私たちより下に立ち、私たちの存在を深いところから支えてくださることにより、私たちを少しずつ変えていってくださる力が、キリストの力です。

 

 

誰よりも低きにへりくだり、私たちの「土台」となって私たちの存在を支えてくださっているもの、それがキリストの謙遜さです。

 

建物の土台というものは、もっとも低い場所から建物全体を支えています。普段は私たちの目に触れることがありませんが、土台なくしては、建物が建ち続けることはできません。

 

この土台の存在を知らされた時、私たちの《理屈》や《高慢》は打ち崩されてゆきます(45節)。そうして、その土台にふさわしい建物の在り方を改めて「考え直す」ようになるでしょう。それは確かに今までの在り方の崩壊でありますが、まことの土台に根ざしたよりよいあり方への再出発であるということができます。

 

 

一人ひとりの存在の尊厳

 

《疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。/わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。/わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである》。

 

 もっとも低い場所から、このキリストの謙遜なる声は語られています。もっとも深い場所から、十字架におかかりなった姿で、キリストは私たちに語りかけておられます。この声こそ、私たちに語りかけられている神さまの愛なる言葉です。

 

 

 この謙遜さの中では、私たち一人ひとりが、あるがままに尊重されています。一つひとつの存在が、無条件に大切にされています。私たちがもっと強くなれば大事にしてもらえるというわけではなく、私たちがもっと賢くなれば尊重されるということでもありません。この神さまの愛の内において、わたしたちはそのものとして、愛され、尊重されています。私たちがどのような人間であろうとも、この土台の上においては、一人ひとりがかけがえのない者として、尊厳が与えられています。

 

 

パウロはコリント教会の人々に向けて、率直に、次のように語ります。7節《あなたがたは、うわべのことだけ見ています。自分がキリストのものだと信じきっている人がいれば、その人は、自分と同じくわたしたちもキリストのものであることを、もう一度考えてみるがよい》。

 

コリント教会の人々だけではなく、私たち自身もまた、うわべだけのこと、表面だけのことを見ていることが多いものです。私たちが見つめるべきは、それを見えないところで支えている「土台」の部分です。その場所においては、分け隔てなく、一人ひとりがキリストのものとされています。この神さまの愛が知らされた時、私たちの内になる誤解は少しずつ打ち崩されてゆきます。

 

 

イエス・キリストの謙遜さを通して現されたこの神さまの愛こそ、私たちの生活を形づくってゆくためのまことの土台です。

 

 

 

神さまの愛なる土台を据える

 

8節で、パウロは印象的な言葉を述べています。8節《あなたがたを打ち倒すためではなく、造り上げるために主がわたしたちに授けてくださった権威について、わたしがいささか誇りすぎたとしても、恥にはならないでしょう》。

 

キリストの謙遜さは、私たちを打倒すためではなく、私たちを「造り上げるために」働いてくださっているものです。パウロはここで、自分たちにもその《権威》が与えられていると語っています。

 

《権威》と聞くと、私たちは「上から支配する」権威主義を連想することもありますが、ここで言われている《権威》とはそのようなものではないことはもちろんのことです。そうではなく、むしろ「もっとも低い場所にて」私たちの足元を支える土台となり、そこから新しく造り上げてゆくために働いている力です。その《権威》は、私たちの主イエス・キリストご自身から生じています。

 

パウロはここで、自分たちにもその権限が授けられているのだと語ります。キリストの代理として、神の愛なる土台を据える権限が自分たちにも与えられているというのです。

 

 

私たち一人ひとりにもいま、そのための権限が与えられているのだと受け止めることができるでしょう。私たちもまた、それぞれがそれぞれの場所にあって、土台に神さまの愛を据えるのです。そうしてその上に、私たちの社会を、共同体を、具体的に形づくってゆく道を願い求めてゆくのです。

 

 

 恐れでもなく、悲しみでもなく、神さまの愛をこそ私たちの社会の土台に据えること――主から託されているこの使命を、共に果たしてゆきたいと思います。