2014年3月30日「わたしたちの誇り」

2014330日花巻教会説教

 

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二101218

 

「わたしたちの誇り」

 

 「いること」の素晴らしさ

 

先月、天に召された詩人のまど・みちおさんの詩に、『ぼくが ここに』という詩があります。まど・みちおさんの詩の中でも、私が特に好きな詩の一つです。

 

 

 ぼくが ここに いるとき

 ほかの どんなものも

 ぼくに かさなって

 ここに いることは できない

 

 

もしも ゾウが ここに いるならば

そのゾウだけ

マメが いるならば

その一つぶの マメだけ

しか ここに いることは できない

 

 

ああ このちきゅうの うえでは

こんなに だいじに

まもられているのだ

どんなものが どんなところに

いるときにも

 

 

その「いること」こそが

なににも まして

すばらしいこと として

 

 

この詩で指し示されているのは、一つひとつの存在が、大事に守られている世界です。《ぼくが ここに いるとき/ほかの どんなものも/ぼくに かさなって/ここに いることは できない》――。この詩が指し示す世界に、私は非常に共感を覚えます。皆さんもきっとそうなのではないでしょうか。この詩は、一つひとつの存在は、何ものにも代えられないものとして、ここに「いる」のだということを伝えてくれています。まど・みちおさんが指し示そうとしているのは、「いること」こそが何よりも素晴らしいとされている世界です。

 

 

まど・みちおさんはこの詩について、次のように語っています。《この世のありとあらゆるものは、すべてが自分としての形や性質をもっていて、それぞれに尊い。そこにあるだけ、いるだけで祝福されるべきものであり、みんながみんな心ゆくまでに存在していいはずなんですよ。/なのに私たちは、人と自分を比べ、人のマネをして、かけがえのない自分を自分で損なっている》(『いわずにおれない』より)

 

まど・みちおさんが指し示そうとした世界というのは、「こうであったらいいなあ」という単なる理想ではないように思います。そうではなく、まどさんが指し示した世界の在り方こそ、この世界のまことの姿であると私は確信しています。

 

 

福音

 

この世界には、私たちが「いること」を何より尊いものとして、私たちを支えている力があります。その力は私たちの目には見えませんし、普段は意識されることの少ないものです。しかしもっとも低いところからこの力は私たちの存在を支え、私たちを生かしてくれています。この大いなる力を、聖書は「福音」と呼んでいます。

 

 

 福音は、天地創造のはじめから存在し続けている「神の力」です。この大いなる力は、すべての造られたものを「よい」ものとして祝福しています。それは天地創造のはじめから存在しているものですが、私たち人間の歴史において、この力がまことに理解されることはあまりありませんでした(ヨハネによる福音書115節)

 

 

この福音を、はっきりと目に見えるようにしてくださった方がいます。それが、イエス・キリストです。福音を「言(ことば)」として私たちの前に示してくださったのが、イエス・キリストです。

 

もちろん、旧約聖書の時代においてもこの神の力は存在していました。古代イスラエルの民に命を与え、守り育んできたのもこの力であったといえるでしょう。ただし、この力ははっきりと言葉にされることはありませんでした。

 

 

よって、ときに、人々の間には誤解が生じました。私たち人間は、ただ「いる」だけでは、何の価値もない、という誤解です。何か人の役に立つ仕事をしたり、知恵を身につけたり、人格を磨いてゆかないと、ここに「いる」価値はないのではないか、という誤解です。そうして、互いに評価し合ったり、比較し合うことにエネルギーを注いでしまうようになりました。その誤解はいまも私たちの間に、内に、生じつづけているものでしょう。

 

 

「いること」の不安

 

 福音が見失われてしまっているとき、私たちはただここに「いる」だけでは不安になります。何かをしなければ、「よし」とされないような、落ち着かない気持ちになります。自分はここに「いる」だけでは駄目なんだ、という、罪悪感のようなものを抱くようになってゆきます。そのようなとき、私たちは心の奥底で、或る「渇き」のようなものを感じています。心の深いところが干上がってしまっているような、渇きを感じます。

 

 

渇きを押し隠しつつ生きてきた私たちに、命の水を与えてくださったのが、イエス・キリストです。イエス・キリストは、「いること」こそが最大の価値であるということを、私たちにはっきりと示してくださいました。そうして、私たち一人ひとりが、無条件に、ゆるされ、生かされている存在であることをはっきりと「言」にしてくださいました。この福音を知らされて初めて、私たちの渇きは癒されます。

 

 

イエス・キリストが言にしてくださったこの福音は、天地創造のはじめから響き続けている、この世界の基調低音です(創世記131節)。私たちはいま、この力に支えられ、生かされています。

 

 

世界の見え方の転換

 

 コリントの信徒への手紙の著者であるパウロは、ある時、イエス・キリストを通して、この福音に出会いました。それによって、パウロの今までの世界の見え方はひっくり返り、それに伴い、生き方も180度変えられてゆきました(使徒言行録934節)

 

 福音を知らされる前のパウロは、いかに立派な人間になるかに懸命であった人でした。モーセの律法を忠実に守り、非の打ちどころのない人間になろうと懸命でした。非の打ちどころのない人間になれば、神さまは自分を認めて、愛してくださるだろうという意識が根底にあったのではないかと思います。

 

 

そのような自己鍛錬の生き方に没頭していたパウロは、よみがえられたキリストと出会い、世界の見え方がまったく変えられました。それは、「いる」だけでは駄目なんだという世界から、「いる」ことこそが最大の価値である世界への転換でした。パウロの目からはウロコのようなものが落ち(使徒言行録918節)、福音が地の底から鳴りひびいているこの世界のまことの在り方がはっきりと見えるようになりました。

 

いまだ不完全なままの自分がいま、そのものとして「よし」とされ、生かされている――。パウロはキリストとの出会いを通してそのことを知らされました。自らが造りだしていた誤解がほどけ、目からウロコが落ちたパウロに、世界はまったく新しく広がって見えるようになったことと思います。この世界に存在する一つひとつのものが、神さまから与えられた尊厳をもって、キラキラと輝いて見えるようになったのではないかと推測します。

 

 

愚かな考え?

 

 パウロと同時代に人々は、必ずしもイエス・キリストの福音を理解したわけではなかったようです。今までの伝統的な世界の見方の延長線上に、キリストへの信仰を結び付けて理解していた人も多くいたようです。その人々はいまだ、私たち人間は「いる」だけでは駄目だ、「悪い」ものだ、という意識で生きていました。

 

 

 そのような人々にとって、パウロの語る福音は、ゆるしがたいものに思えたかもしれません。パウロが語る事柄は、突き詰めてゆくと、「信仰」すら関係がなくなるものであるということができます。私たちの努力を失わせるような危険な考えであり、人を堕落させる愚かな考えだとみなしていた人もいたかもしれません。

 

 

 パウロに批判的な人々は、遂には、パウロに伝道は任せておけないということで、パウロが伝道を任せられている地域にまでやってくるようになりました。そうして意図的に、パウロが伝えた福音とは真逆のことを教え始めたようです。「キリストを信じ、立派な行いをしなさい、そうすれば、神さまはあなたがたを受け入れてくださるであろう」というような教えです。それらパウロの批判者たちの教えは、暗に、私たち人間は「いる」だけでは駄目なんだ、というメッセージを送っています。これらの人々が語っているのは、いわば、条件付きの福音です。パウロにとって、それはまことの福音ではなく、古い時代の律法でした。わたしたちにとって福音がまことの福音であるのは、それが徹底的に無条件のものであり、圧倒的な「喜びの知らせ」であるからです。

 

パウロは古い考えに逆行してしまっている人々を批判して、12節《わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです》と述べています。

 

 

「いること」から生じる使命

 

ぼくが ここに いるとき/ほかの どんなものも/ぼくに かさなって/ここに いることは できない》と、まど・みちおさんは書き記しました。「いること」こそが最大の価値であると宣言する言葉こそ、私たちにとって福音――古くて新しい、よい知らせ――であるということができるでしょう。

 

 

 このよい知らせに包まれてこそ、私たちは何かを「する」気持ちにも、自ら促されてゆきます。不安からではなく、湧きあがってくる喜びによって、何かを「すること」を始めたく思うでしょう。

 

事実、私たち一人ひとりにはかけがえのない、固有の役割が神さまから与えられています。その人でないと出来ない役割です。

 

この「いること」の深みから生じてくる固有の役割を、「使命」という言葉で呼ぶことができるでしょう。私たちに与えられている使命は、「いること」と切っても切り離せないものです。私たちがいま・ここに「いること」からにじみ出てくる役割が、私たちの使命です。

 

 

パウロにとっての使命とは、コリントをはじめとする異邦人社会の人々に福音を知らせることでした。この使命は、パウロという存在の深みから湧き出でていた使命であるということができます(ガラテヤの信徒への手紙11517節)。結果的にパウロは、歴史に残る非常に大きな働きを成し遂げました。しかしその役割分担は本来、大小があるわけではありません。それぞれが、その人にしかできない固有の役割を神さまから与えられています。そこに働きの優劣は、本来存在しません。

 

 

神さまが割り当ててくださった範囲

 

そのことを思いますとき、私たちは互いの働きを尊重し合わなければならない、ということに気づかされます。相手の働きを尊重し、相手の領域に不当に介入するということは私たちは差し控えねばなりません。それは、神さまからその人に与えられている尊厳を傷つける行為となります。

 

パウロ自身は、自分は相手の領域に不当に介入するようなことは、決してしたことはないと述べています。1314節《わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇るのです。/わたしたちは、あなたがたのところまでは行かなかったかのように、限度を超えようとしているのではありません。実際、わたしたちはキリストの福音を携えてだれよりも先にあなたがたのもとを訪れたのです》。

 

 

パウロはコリントの地への伝道は、「神さまが割り当ててくださった範囲」であると厳粛に受け止めていました。それが、神さまから自分に与えられた固有の働きだと理解していました。またそれは、パウロ個人が確信していただけではなく、諸教会の全体会議で公に同意されたことでもありました(ガラテヤの信徒への手紙2710節)。パウロは与えられたその範囲を超えて、他の人の領域を侵害したことはない、とここで述べています。パウロに批判的であった人々は、神さまが割り当ててくださったその範囲を、自分たちの独断によって侵害してしまいました。パウロはその出来事によって、深く傷ついたことと思います。

 

 

 パウロに批判的な人々は、それぞれに神さまから固有の役割が与えられているということを理解できていませんでした。ですので、コリント教会に直接やってきて、パウロの働きを無にするような行為をしてしまったのです。それはパウロが神さまから与えられている尊厳を傷つける行為となりました。そのような残念な出来事が生じた要因は、たどってゆけば、パウロに批判的であった人々が、福音を本当には理解できていなかった、ということに行きつくのではないでしょうか。「いること」こそが何より尊いということを理解できていなかったので、一人ひとりにかけがえのない役割が与えられているということも理解できなかったのです。

 

 

「いること」の誇りと喜び

 

 本日のパウロの手紙の中には、《誇る》という言葉が何度も出て来ます。パウロは誇りを大切にして生きていた人でした。ある人は、「パウロは誇り高き人であった。少なくとも、誇りということについて敏感な人であった」と述べています(竹森満佐一)

 

誇りは「高慢」にもつながる言葉でもあり、また「自尊心」につながる言葉でもあります。高慢は他者を軽んじますが、まことの自尊心は他者を重んじるように働きます。パウロが抱いていた誇りとは、まことの自尊心につながるものであった、ということができます。パウロの誇りは、「いること」の尊さからにじみ出ている誇りです。一人ひとりに神さまから与えられている尊厳に根ざしている誇りです。

 

 

 17節でパウロは《誇る者は主を誇れ》と言っています。このような誇りをもたらしてくださった神さまを私たちは誇ろう、と呼びかけています。神さまから与えられた、「いること」の尊さに根ざすからこそ、私たちはまっすぐ前を向き、誇り高く生きてゆくことができます。私たちのこの誇りは、何ものも、どんなものも奪い去ることはできません。

 

 

 この「誇る」という語は、原語では「喜ぶ」という意味ももっている言葉です。私たちが互いの存在を、喜びをもって受けとめあってゆくことが、神さまの願いなのではないでしょうか。福音の光の中で、私たちが互いの存在を誇りとし、喜びあって生きてゆくことが、神さまが願っておられることだと信じています。