2014年3月9日「人々の前に、主の前に」

 

201439日花巻教会説教

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二81624

「人々の前に、主の前に」

 

受難節

先週の水曜日から、教会の暦で「受難節」に入りました。受難節はわたしたちが、改めてイエス・キリストのご受難を思い起こすときです。受難節は420日のイースターの前日まで続きます。

 

 この受難節において、私たちはイエス・キリストのご受難とその苦しみについて思い巡らします。もちろん主のご受難を想うことは受難節に限らずなされていることと思いますが、このように具体的に生活の中の暦として機会が与えられるというのも大切なことであると思います。

 私たちは主のご受難を忘れているわけではないですが、日々の生活の中でどうしても「切実さ」は失われてゆくからです。

 

たとえば皆さんも、イエス・キリストの十字架までの道行きとその苦しみに心を打たれた経験がおありだと思います。まるで心に剣が刺さったかのように(ルカによる福音書235節)、切実なる感覚をもって十字架へと向かうキリストのお姿を受け止めた瞬間がおありかと思います。その切実な感覚というのは、けれども、気がつけば、慌ただしい生活の中で心の奥の方に埋もれていってしまうものでもあります。そうして、何か当たり前のもののように、主のご受難と十字架を受けとめてしまっていることが多いものです。私自身、日々の生活を省みると、そのような現状にあるように思います。

 

 そのような私たちですが、たとえば受難節をひとつのきっかけとして、改めて福音書の受難の場面をゆっくりと読んでいると、だんだんと切実なる感覚がよみがえってくることがあります。当たり前のもののように受け止めていた主イエスのご受難が、当たり前のものではなくなり、切実なる想いをもって再び心に浮かび上がってきます。何らかのきっかけによってその切実さがよみがえってくるということは、私たちの心からそれが完全に失われていたわけではない、ということを意味しています。つまり、消えてしまったのではなく、心の奥の方に埋もれてしまっているのです。埋もれてしまっているこの切実な感覚といかにつながるか、つながっているか、ということが私たちにとって大切なことでありましょう。

 

埋もれている「切実さ」

 

 私たちは何事も、すぐに「忘れてしまう」性質をもっています。自分にとって大切であったはずの事柄も、気がつけば私たちの心からは消えてしまっているものです。自分にとって大切であったはずのさまざまなことを忘れてしまったまま、私たちは日々の生活をし続けています。しかしそれも、完全に私たちの心から消えてしまっているわけではありません。そうではなく、心の奥の方にしまいこまれているのです。

 

 私たちの記憶というものも、そのようなものであるようです。私たちが一度記憶したことというのは、そのほとんどが私たちの脳に保存されています。それを思い出せないのは、記憶そのものが無くなったのではなくて、その記憶の引き出しをうまく開けることができないのが要因であるようです。 

 

私たちがよくする「物忘れ」というものを考えてみても、そのとおりです。あることが思い出せないのは、記憶そのものが無くなったわけではなく、記憶の引き出しをうまく開けることができていないというのが原因です。何か適切なきっかけが与えられれば、私たちは再びその記憶を思い出すことができます。一週間前はどうしても思い出せなかった人の名前を、今日はパッと思い出すことができたということも、私たちの記憶が保存され続けていることの証拠です。

 

私たちのイエス・キリストのご受難への切実なる想いというものも、私たちの心に存在し続けているものです。普段私たちがその切実さを失っているのは、それを引き出しの奥の方にしまいこんでしまっているからでしょう。

たとえば、受難節を一つのきっかけとして、私たちの心の奥の方に埋もれていた切実さが引き出されてゆくということもまた、起こります。

 

カトリック教会には、主のご受難を14の場面に分けて、その一つひとつたどってゆく「十字架の道行き」というものがあります。主イエスが死刑の宣告を受けてから、十字架につけられ墓に葬られるまでの出来事を描いた14のレリーフを前に、主のご受難に思いめぐらしてゆくのです。この「十字架の道行き」は、カトリック教会において、人々の心に主のご受難に対する切実さを取り戻すための大きな役割を果たしていると思います。私たちの生活には、このような意識的なきっかけづくりというものも大切なことでありましょう。私たちが「忘れやすい」ということ自体が必ずしも責められることではなく、「忘れない」ための意識的な努力をするということが求められています。

 

傷つきやすい裸の心

 

コリントの信徒への手紙二の著者パウロは、イエス・キリストのご受難に対する切実さをいつも保っていた人であるように思います。別の手紙のある箇所では、その感覚を《わたしは、キリストと共に十字架につけられています》と表現しています(ガラテヤの信徒への手紙219節)。パウロはそれほどまでの連帯感を、いつもキリストに対して感じていた人でした。キリストとまるで一心同体となったかのような近さをもって、キリストのご受難を生々しく感じていたようです。

 

 主イエスのご受難を間近で感じること、それは私たちにとって、辛いことでもあります。鞭打たれ、体中傷だらけになりながら十字架を負って歩みキリスト。十字架にはりつけにされたキリスト。冷たい遺体となって十字架から降ろされたキリスト。そのキリストのお姿を間近に、切実さをもって感じ取ることは、私たちのとって辛いことですし、心痛むことです。辛いことであるからこそ、私たちはそのことを心のどこかで恐れているのかもしれません。

 

恐れということで言えば、私たちは何より、自分の傷つきやすい心と向かい合うことを恐れています。私たちが普段主イエスのご受難に無感覚になってしまうのは、この裸の心と向かい合うことを無意識に「避けている」からかもしれません。私自身、自らを振り返るとき、そのような部分があるように感じます。

 

弱さに立ち還る

 

 主イエスのご受難にまことに向かい合おうとするとき、私たちは自分の心を裸にせざるを得ません。ほんの小さなことにでも傷ついてしまう心――普段は私たちはこの傷つきやすい心を、ぶ厚いコートで覆っています。しかし、主イエスのご受難に立ち還るということには、私たちがこの傷つきやすい本来の自分に立ち還るということを伴います。ですので、普段はできるならそのことを避けようとしているのでしょう。

 

 私たちが本来もっている傷つきやすさ、それは「弱さ」ともいえるものです。対して、どんなことにも傷つかないのだとしたら、それは「強さ」といえるでしょう。では私たちが強くならねばならないかというと、決してそうではありません。私たちは自分の弱さに立ち還ってこそ、主イエスのご受難に立ち還ることができます。

 

 パウロもまた、この意味において、「弱い」人でした。より正確に言えば、誰もが内に抱えている弱さに、いつも正直でいようとした人でした。だからこそ、パウロはいつも主イエスのご受難を間近に、切実に、感じ取ることができていたのでしょう。

 

他者への切実さへ

 

 このように十字架の主に立ち還るとき、私たちは苦しむ人の声をも、もっともよく聴き取り得ます。感じやすく、傷つきやすい裸の心に、そのとき私たちが立ち還っているからです。裸の心にこそ、他者の切なる声は聴こえてきます。人々の切実なる声が、自分の心の内に入ってきます。

十字架のキリストに立ち還ることは、他者の苦しみを聴き取り、その人に切実なる想いをもって向かってゆくことにつながっています。

 

 本日のパウロの言葉には、《熱心》という言葉が繰り返し出て来ました。1617節《あなたがたに対してわたしたちが抱いているのと同じ熱心を、テトスの心にも抱かせてくださった神に感謝します。/彼はわたしたちの勧告を受け入れ、ますます熱心に、自ら進んでそちらに赴こうとしているからです》。

パウロは、コリントの教会に対して、《熱心》な想いを抱いていました。その《熱心》は、テトスの心にも宿されました。パウロはそのことを神さまに感謝しています。

この《熱心》と訳されている言葉は、「急ぎ」という意味をもっている言葉です。「大急ぎで」ある人のもとへ向かう表現にもこの語が使われることがあります。先ほどの表現で言い換えれば、この《熱心》さとは、私たちの心の奥深くから生じている「切実さ」ということができるでしょう。パウロはコリント教会をはじめとする諸教会の兄弟姉妹に対して、切実なる想いをもって接していました。その切実さは、ここでは具体的に献金運動として実現されてゆきました。テトスは献金運動のための使者の役割を担った人物ですが、そのテトスの心に、パウロの切実さは伝播してゆきました。

 

 献金運動の使者として、テトスの他にもう二人の人物も派遣されるとパウロは記していますが、この二人も、やはり《熱心》な人である(1922節)ことが強調されています。この二人も、他の教会の兄弟姉妹に対して、切実なる想いをもっていた人でした。だからこそ、献金運動の使者として信頼に足る人物であるとパウロは推薦しています。

 

パウロやテトスたちは、隣人に対して、切実なる想いをもって向かっていった人々でした。それは、パウロたちの心が、十字架におかかりなった主といつもつながっていたからこそでありましょう。私たちが十字架におかかりなったキリストに立ち還るとき、埋もれていた切実なる想いは再び浮き上がってきます。

 

パウロは手紙の受け取り手であるコリント教会の人々の内にもまた、切実なる想いが宿されていると確信していました。24節《だから、あなたがたの愛の証しと、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りの証しとを、諸教会の前で彼らに見せてください》とパウロは語ります。24節では、パウロはその宿されている想いを、《あなたがたの愛》と呼んでいます。

 

I remember you in my prayers

 

先週より私たちは受難節を迎えています。受難節において十字架の主の前に心を開くことは、同時に、人々の前に心を開くことでもあります。十字架の主の苦しみに立ち還ることは、いま苦しんでいる人々の声に耳を傾けることと密接につながっています。

 

 苦しんでいる人々の声に共通しているのは、自分のことを「忘れないでほしい」という声にならない叫びです。私たちは何より、この声にならない声を聴きとり、そしてこの声に答えてゆくようにと招かれています。

 

教会では、「祈りに覚える」という言い方があります。教会でなされる独特の表現であると思いますが、英語では、「Please remember me in your prayers(どうぞわたしのことをお祈りしてください)」という言葉があります。もしくは「 I remember you in my prayers(あなたのことをお祈りしています)」という言葉です。もしかしたらこの英文が直訳的に定着して「祈りに覚える」という言い方がなされるようになったのかもしれませんが、いずれにせよ、この言い方では「祈る」ではなく、「覚える」が動詞となっているところが心に残ります。

 

祈りにおいては、まず何よりその人のことを「覚えている」(remember)ことが前提としてあります。その人のことを「覚えている」こと、「忘れない」こと。

 

私たちにとって、もっとも辛いことの一つは、自分のことが「忘れられる」ことではないでしょうか。自分のことが「忘れられている」という感覚は、自分という存在が「見捨てられている」という感覚とつながっています。自分のことを忘れないでほしいというのは、私たちが抱えるもっとも深い願いのひとつであると思います。

 

だからこそ、「 I remember you in my prayers」、「あなたのことを祈りに覚えています」と言われた時、私たちは心の深い所が、励まされます。パウロたちの献金運動も、「わたしたちは、あなたがたのことを忘れません」ということを互いに、より目に見えるかたちで伝え合う運動であったのだと受け止めることができます。 

 

「わたしはあなたのことを忘れない」

 

「わたしはあなたのことを忘れない」――このメッセージは、そして他ならぬ、神さまご自身が私たちに語りかけてくださっている言葉です。そのために神さまは私たちのもとに独り子を遣わして下さり、独り子は十字架におかかりになってくださいました。私たちの存在が決して忘れ去られることのないように、失われることのないようにするためです。

 

「わたしはあなたのことを決して忘れない」。神さまは御子のご受難を通してそのことを私たちに伝えてくださっています。十字架のおかかりなったキリストは、その存在そのものを切実なる「言葉」として、私たちにいま、このことを伝えようとしてくださっています。

 

「わたしはあなたのことを決して忘れることはない」。受難節のこのとき、私たちはこの神さまのメッセージをこそ聴くようにと招かれています。

 

この神さまの切実なる想いが、私たちの心にもまた切実さをともします。そうして互いにこのメッセージを伝え合うようにと私たちを駆り立ててゆきます。

 

東日本大震災から3年が経とうとしています。本日の午後からは、岩手地区では宮古教会と千厩教会にて、東日本大震災3年を覚えての礼拝がもたれます。震災によって、いま現在も多くの方々が苦しんでいます。3年たって、今まで押し込めていた心の痛みを感じ始めている方々もいます。また、原発事故による苦しみも続いています。

 

「わたしはあなたのことを決して忘れない」――この神さまの切実なるメッセージを大切な人々のもとに届けるために、私たちもまた急ぎたいと願います。