2014年4月13日「弱さにかかわることを誇る」

2014413日花巻教会説教

 

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二111633

「弱さにかかわることを誇る」

 

 

 

ヘブライ語「カーボード」

 

ヘブライ語に、「名誉」や「栄光」を意味する「カーボード」という言葉があります。人に対して使われるときは「名誉」となり、神さまに対して使われるときは「栄光」の意味となります。

 

興味深いのは、このカーボードという語は、元来は「重さ」を意味する言葉であるところです。相手を「重んじる」こと、それが相手に「名誉を与えること」とつながることとされたのですね。

 

 

旧約聖書を読んでいますと、このカーボードという言葉がたくさん出てきます。主なる神さまの「栄光」とイスラエル民族の「名誉」を表す言葉として、至る所に登場します。古代イスラエルの人々は、カーボードを何よりも重んじる人々であった、ということができるでしょう。このカーボードがあるからこそ、イスラエル民族は「誇り」をもって生きてゆくことができました。

 

それは同時に、このカーボードが損なわれることが、イスラエルの人々にとってもっとも耐え難いことであった、ということでもあります。神さまの「栄光」が損なわれること、イスラエル民族の「名誉」が汚されること。それが何よりも耐え難いことであったようです。

 

 

カーボードと対照的な言葉として、「軽さ」を意味する「カル」というヘブライ語があります。何だか日本語と似ていますね(!?)。相手を「軽んじる」ことは、相手を「侮辱すること」とつながっています。相手を軽んじるということは、相手の名誉を傷つけることです。ヘブライ語ではこの言葉に、相手を「呪う」という意味さえ伴うことがあります。イスラエルの人々にとって、「軽んじられる」ことは「呪い」でもあったのですね。

 

イスラエルの人々にとって周囲から「軽んじられる」ことは「恥」であり、「呪い」であり、そして「罰」でありました。名誉を重んじる古代イスラエルの人々にとって、人々の目の前で屈辱的な仕打ちをされることは、耐え難い苦痛であったからです。そのような経験は、体の苦しみはもちろん、精神的にも深い傷を与えます。体の傷はたとえ癒えても、傷つけられた誇りはなかなか癒えることはありません。

 

 

自尊心

 

これら古代イスラエルの人々の感覚というのは、いまの私たちにも通じるところがあるのではないでしょうか。人から「重んじられる」というのは私たちにとって嬉しいことです。一方で、人から「軽んじられる」ことは、私たちをひどく傷つけるものです。

 

 

イスラエルの人々が大切にした「カーボード」ということは、私たちが普段用いている言葉で言い直すと、「自尊心」ということができるのではないでしょうか。相手を「重んじる」ということは、相手の自尊心を大切にするということです。相手を「軽んじる」ということは、相手の自尊心を傷つけてしまうことです。私たちにとって生きてゆく上で、自尊心は欠かすことができません。

 

 

神さまに対して「自尊心」という言葉を使うのは適切ではありませんので、私たちは神さまに対しては「栄光」という言葉を用います。ただし、すでに申しましたように、ヘブライ語では自尊心と栄光とは、もとは同じ一つの言葉、「カーボード」でありました。

 

 

パウロが受けた屈辱的な経験

 

 コリントの信徒への手紙の著者であるパウロもまた、イスラエル民族が代々受け継いできた「カーボード」を大切にしている人であったようです。本日の聖書箇所は特に、そのパウロの一面がはっきりと出ている箇所ではないかと思います。パウロは本日の聖書箇所の中で、「誇り」という言葉を何度も用いています。パウロもやはりイスラエルの民として、誇りということを大切にして生きていた人でした。

 

 

 ただし、本日の聖書箇所の中では、当時のイスラエルの人々の目からすれば、「あれっ?」と思うような言葉がつづられています。たとえば、23節以下の言葉です。2325節《苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。/ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。…》。

 

 見方によっては英雄的な経験のようにも見えますが、先ほど述べましたイスラエルの人々の感覚からしますと、むしろこれらは屈辱的な経験であるということが言えます。公衆の面前で、衣服をはぎ取られ鞭打たれること(使徒言行録1622節)、大勢の人に囲まれ石を投げつけられること(使徒言行録1419節)。これらは通常、法を犯した人に処される「罰」の仕打ちです。そのような仕打ちが自らになされるという経験は、肉体的な痛みはもちろん、自尊心が引き裂かれるような屈辱的なことであったでしょう。

 

イスラエルの人々の普通の感覚なら、思い出すのも嫌、誰にも話したくないような屈辱的な経験であったことと思います。そのような経験を、なぜここでパウロはあえて手紙に記しているのでしょうか。

 

 

失われることのない誇り

 

 パウロにとって、そのような屈辱的な仕打ちは屈辱ではないから、というわけではないでしょう。パウロにとってもそれらの仕打ちはやはり屈辱なことであったと思います。パウロはここで決して屈辱的な仕打ちに無感覚になっているわけではない。パウロもまた、これらの仕打ちによって自尊心が深く傷つけられたことと思います。

 

 パウロがここで伝えたいことは、そのような屈辱的な経験をしてもなお、失われることのない誇りが私たちに与えられている、ということでしょう。当時のイスラエルの人々の目から見ると、生きる気力さえ失せるような屈辱的な経験の中にあっても、それでも、私たちには確かな誇りが与えられている。パウロはそのことを伝えるために、あえて自分を取り囲む屈辱的な状況を打ち明けているのだと思います。

 

 

 ではパウロは、何によって、この誇りが与えられたのでしょうか。それは、十字架におかかりなったイエス・キリストのお姿からです。

 

 

キリストのご受難

 

 本日から教会の暦では受難週に入ります。イエス・キリストのご受難を心にとめ、その十字架の道行きに想いを巡らす時です。福音書の中には、他ならぬ神の御子であるイエス・キリストが、いかに人々から屈辱的な仕打ちを受けられたかということが記されています。

 

マタイによる福音書には次のような記述があります。《それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。/そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、/茨の冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。/また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。/このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った》(マタイによる福音書272731節)

 

 兵士たち全員が見ている前で、着ているものをはぎ取られ、茨の冠を頭に載せられ「ユダヤ人の王、万歳」と言って侮辱される。唾を吐かれ、棒で頭を叩き続けられる。これはイスラエルの人々の基準からすると、怒りに我を忘れてしまうほどの、もしくは生きる気力を失ってしまうほどの、屈辱的な経験であったでしょう。聖書には、神の御子イエス・キリストご自身がそのような仕打ちを受けたことが記されています。

 

 

パウロもまた、公衆の面前で、衣服をはぎ取られ鞭打たれる、屈辱的な仕打ちを繰り返し経験しました。パウロは手紙の中で、ある時には実際辛さのあまり、「生きる望みさえ失ってしまった」と率直に述べています18節)。それほどに苦しい状況で、パウロの心に浮かんできたのは、十字架におかかりになったキリストの姿であったのだと思います。侮辱され、鞭打たれ、そして「犯罪者」として十字架にくぎ付けにされた主の姿です。神の御子がいま、まさに自分と同じような姿になって、そのような姿になってまで、自分と結びつこうとして下さっている。パウロは苦しみの中で、いままさにキリストが自分の「すぐそばにおられる」と感じる経験をしたのではないかと思います。

 

 

十字架に現された「栄光」

 

十字架におかかりになったイエス・キリストの姿というのは、私たちの目から見ると、まるですべての威厳が奪われたような、無力な姿です。しかし聖書が証するのは、そのようなキリストのお姿の内に、神の「栄光」が現れ出た、ということです(マタイによる福音書2754節)。十字架におかかりになったそのお姿の中に、神さまの栄光がはっきりと現れ出ました。

 

 

この神さまの栄光に、私たち一人ひとりには十字架のキリストを通して結び付けられています。神さまはキリストを通して、私たちにもまた、消え去ることのないカーボードを与えてくださいました。私たち人間すべてに与えられたそれを、本日は「尊厳」という言葉で呼びたいと思います。

 

 

私たち人間の「尊厳」

 

キリストを通して、私たちすべての者には、この神さまからの「尊厳」が与えられています。どんな強い力も、どんな権力も、神さまが与えてくださった尊厳を私たちから奪うことはできません。キリストは十字架におかかりになったお姿で、私たちに語り続けておられます。どれほどあなたが他者から軽んじられようと、虐げられる状況にいようと、あなたの尊厳は決して失われることはない――と。イエス・キリストは、私たちの存在そのものを、何にもまして「重んじて」くださっている方です。

 

 

この十字架の主に出会う時、私たちは今まで自分でも気づくことのなかった、自らの尊厳を知らされます。その時、わたしたちの心に、まことの自尊心と誇りが光を放ち始めます。

 

 

弱さにかかわることを誇る

 

パウロは本日の手紙の中で、《誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう》(30節)と記しました。どんなに自分が無力な状況になっても、虐げられた状況にあっても、イエス・キリストを通して、私たちには神さまからの「尊厳とその力」が与えられています。また驚くべきことに、私たちの無力さが極まる時、神さまから与えられた尊厳とその力は、むしろはっきりと意識されるようになります。だからこそ、私たちは自らの弱さにかかわる事柄を誇ることができます。弱さや無力さを誇るとは、十字架におかかりなった主の「栄光」を誇ることであり、主が確保してくださっている「人間の尊厳」を誇るということです。《誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう》。パウロは、キリストによってもたらされたまことのカーボードをこのように賛美したのです。

 

 

現状を変えてゆく力

 

十字架のキリストを通して、私たちには、あらゆる屈辱を耐える力が与えられます。ただしそれは、屈辱的な状態をもそのままにしておいてよい、ということではありません。ある人が軽んじられている状況、人々の尊厳が傷つけられている状況は、決して黙認しておいてよいものではありません。神さまから与えられた尊厳の力は、そのような不正に抵抗し、立ち向かってゆくようにと、私たちを促します。

 

 

パウロもまた、不正が行われている状況に対して立ち向かってゆきました。本日の手紙には、そのパウロの決然とした姿勢が現れています。パウロにそのような力と勇気が与えられたのも、パウロが十字架の主が与えてくださる人間の尊厳に固く立っていたからでしょう。神さまからの尊厳に根ざすことによって、私たちには状況を変えてゆく力が与えられてゆきます。

 

 

天に栄光、地には尊厳

 

 状況を新しく造り変えてゆくこの力を、パウロは手紙のあるところで、次のように表現していました。《わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、/神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ》る1045節)

 

私たちの戦いの武器は、武力ではなく、神さまに由来する「尊厳とその力」です。この神さまからの力こそが、巨大な要塞を破壊し、理屈を打ち破り、あらゆる高慢を打ち倒してゆきます。イエス・キリストを通して私たちに与えられているこの大いなる力を、パウロは「福音」と呼びました。

 

 

私たちはいま改めて福音の力に根ざし、私たちの目の前にある状況に向かい合ってゆくことが求められています。私たちの目の前には、人々の尊厳が軽んじられ、傷つけられている状況が、数多くあります。私たちは福音を知らされた者として、そのような状況を見過ごしているわけにはいきません。いまこそ私たちは神さまからの尊厳とその力を想い起こしたいと思います。天の神さまには栄光が、地上の私たち一人ひとりにはまことの尊厳が帰される(ルカによる福音書214節)ようになるために、これからも共に働いてゆきたいと願います。