2014年4月17日「わたしの目にあなたは価高く、貴い」

2014417日洗足木曜日礼拝説教

聖書箇所:ヨハネによる福音書13115

 

「わたしの目にあなたは価高く、貴い」

 

洗足木曜日

 

本日は、洗足木曜日礼拝です。洗足木曜日は、主イエス・キリストが最後の晩餐において、弟子たちの足を洗った出来事に由来しています。

十字架におかかりになる前、主イエスは自ら、弟子たちの足を洗われました。本日はその出来事を想い起こす日です。教会によっては実際に、礼拝の中で足を洗う「洗足式」を行うところもあります。

 

25節を改めてお読みいたします。25節《夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。/イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、/食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。/それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた》。

 

 

洗足という驚くべき行為

 

 当時イスラエルの人々は、人の家に招かれる際、それぞれ水で自分の足を洗ってきれいにしていたようです。迎える側が客人に、足を洗う水を差しだすことはもてなしの一つでした。人々は素足にサンダルを履いていましたので、足は道路の土埃をたくさんかぶっていたでしょう。その足を「人に洗わせる」ということは考えられないことでした。当時、奴隷とされた人々が主人の足を洗うことがありました。しかしイスラエルでは奴隷である人々にも、そのような仕事はさすべきではないと言われていたそうです。イスラエルではそれほど、他人の素足を洗うことは虐げられた仕事とされていました。

そのような中、主であり師であるイエス・キリストが自ら弟子たちの足を洗い始めたのですから、弟子たちの驚きはいかばかりのものであったでしょうか。

 

 弟子の代表であるシモン・ペトロは主イエスの行為に驚き、「自分の足など決して洗わないでください」と拒もうとしました。それは当時としては自然な反応であったでしょう。

68節《シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。/イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。/ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた》。

 足を洗われることを拒もうとするペトロに対し、主イエスは「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられました。そうしてペトロをはじめ、その場にいる弟子たち全員の足を洗われました。主イエスを裏切ったユダの足をも洗われたことが、福音書の文脈の中から読み取ることができます。

 

 

洗足と十字架

 

 この主イエスの行為は、ただ足をきれいにするための行為ではなく、深い意味が込められていることが伺われます。そのときペトロたちはその意味を理解することができませんでした。主イエスは《わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる》(7節)とおっしゃいました。

 

 弟子たちがその後、はっきりと理解したこと、それは、この足を洗う行為は、主の十字架の意味を示す出来事であった、ということでした。弟子たちはその後に、主が足を洗われた行為の内に、主の十字架の意味が現されていたことを知りました。

 

 

主イエスによって示された「低さ」

 

 足というのは当然、体の中でもっとも低い位置にある部分です。その足を洗うためには、相手の目線よりもさらに低く身をかがめなければなりません。相手の足が、自分の目線のすぐ前に来ることになります。神の御子である主イエスはそのように、自らご自分の身を低くされました。

 

 主イエスが示されたこの「低さ」の中に、十字架の意味が現されています。主の十字架とは「高い所から」私たちを見下ろしているものであるというよりも、むしろ、「もっとも低い場所から」私たちを支えているものであるということが、ここで示されています。

 

 足は私たちの体全体を支えていますが、主の十字架はその足をさらに深い所から支えてくださっています。私たちの存在そのものを、もっとも深い場所から支えてくださっているもの、それが主の十字架です。

 

 

存在を底辺から支え上げている力 

 

20節には、《わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである》という言葉があります。主イエスのこの「低さ」を受け入れる人は、父なる神さまを受け入れるのだ、ということが言われています。イエス・キリストの十字架の「低さ」は、父なる神さまの「低さ」へとつながっています。

 

 私たちは、主イエスによってこの神さまの「低さ」が示されるまでは、この現実をはっきりとは知りませんでした。従来私たちは、神さまは何か高い所から私たちを見下ろしている方だと、そのように捉えていたのではないでしょうか。しかしここで示されている神さまの「権威」の在り方というのは、私たちの存在よりさらに低い所で、私たちを支えてくださっている、というものでした。弟子のペトロたちもそれまではそのような権威があることを、はっきりとは知りませんでした。主イエスが十字架におかかりになったことによって初めて、このまことの現実を知らされました。

 

 私たちを底辺から支え上げている現実、その力――それを聖書は「福音」と呼んでいます。主の十字架は、この福音を、目に見えるかたちで、私たちにはっきりと現してくださいました。

 

 

「わたしの足など、決して洗わないでください」

 

 もし神さまが私たちを「上から」見下ろしているだけの方であったら、私たちの足は、神さまからもっとも遠い場所にある部分となります。しかし神さまが「下から」支え上げてくださっている方だと知らされたとき、私たちの足は、神さまともっとも近い部分となります。私たちの素足こそ、神さまが触れてくださっている部分です。私たちの内の、誰からも目に留められず見過ごされているような場所こそ、イエス・キリストが直接触れてくださっている場所です。

 

ペトロは、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言いました。思わずペトロが発したこの言葉に、私は、私たち自身が心の奥底に抱き続けている悲しみを重ねあわせます。

(わたしの足など、わたしなど……)。私たちの心のもっとも低い場所にいるもう一人の「私」は、いつもそうつぶやき続けているのではないでしょうか。(わたしの存在など何の価値もない。わたしのことなど、どうでもいい……)。自分は土と埃にまみれている存在。土埃のような、取るに足らない存在。神さまと触れ合うなど考えることさえゆるされない、価値のない存在……。それが、私たちの内の、もっとも低い場所にいるもう一人の「私」の本音です。

 

ではいったい誰が、わたしたちにそう言ったのでしょうか? それは突き詰めてゆくと、私たち自身が、自分でそう言っているということになります。私たちは自分で自分を虐げ、見えない「牢獄」を造り続け、自らを「暗い場所」に閉じ込め続けてきました。

 

 

「わたしの目にあなたは価高く、貴い」

 

そのような私たちに、父なる神さまはお語りになっています。「わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書434節)――。これが神さまからの“まことの声”です。

主イエスは私たちにこの父なる神さまのまことの声を伝えるため、そうして私たちを「牢獄」から解き放つため、自ら十字架におかかりになってくださいました。そして私たちにまことの現実を示してくださいました。

 

 私たちがもっとも惨めでけがらわしいと思っている場所をこそ、十字架におかかりになった主イエスはいま、触れてくださっています。私たちの存在に触れ、それを洗い、ぬぐい、そして口づけをしてくださっています。主イエスは、私たちの存在そのものを、その根本から、尊び、慈しんでくださっています。「わたしの目にあなたは価高く、貴い。いま・ここにいるあなたをこそ、わたしは愛している」。主が私たちの足に触れ、私たちの足を洗って下さっているいま、この父なる神さまの声は響いています。

 

 13章の1節には、次のような言葉がありました。《さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた》。

 

《世にいる弟子たち》とは、世にいる「すべての人」を指している、と受け止めることができます。そのすべての人の中には、ユダもいました。私たち一人ひとりが、いま、その中にいます。主イエスは十字架の死に至るまで、私たちすべての者を愛して、この上なく愛し抜かれました。いま、私たちはその愛の内にいます。その愛の内に入れられない人は、誰一人いません。

 

 

神さまからの尊厳の光

 

 私たちにはイエス・キリストを通して、等しく、神さまからの尊厳が与えられています。十字架を通してもっとも低い所に現された神さまの栄光――。その「栄光」の光は、私たち一人ひとりを底から照らし出し、私たちに存在の「尊厳」の光を宿してくださっています。

 

 主が与えてくださったこの尊厳に根ざして、私たちもまた、互いに大切にし合うようにと招かれています。主は弟子たちの足をお洗いになった後、おっしゃいました。1415節《主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。/わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである》。

 

 主が示してくださった尊厳に固く立ち、私たちもまた、互いに相手の存在そのものを受け入れ、尊重してゆくことができますように。主の洗足の恵みを記念する今日、共にその願いを新たにしたいと思います。