2014年4月20日「喜び、急いで」

2014420日 イースター主日礼拝・教会学校と合同

 

聖書箇所:マタイによる福音書28110

 

「喜び、急いで」 

 

 

イースター

 

本日はイースター、イエスさまがご復活されたことを皆で喜ぶ日です。キリスト教が誕生して2000年近く経ちます。ということは、もう2000回近く、イースターが世界中でお祝いされてきた、ということになりますね。これからお話しするのは、イースターのはじまりの日の出来事です。第1回目のイースター、つまりイエスさまがご復活された日のことです。

 

 

イエスさまのご復活を最初に目撃したのは、マリアという名前の二人の女性でした。一人はマグダラのマリア。もう一人の女性は、ただマリアとしか聖書に書かれていません。この二人はイエスさまのお母さんであるマリアとはまた別の人です。この二人のマリアが、イエスさまのご復活に最初に立ち会いました。

 

 

 

マリアたち

 

聖書には、イエスさまの旅に大勢の女性が従っていた、と記されています。いっしょに旅をしていたのは十二人のお弟子さんたちだけではなかったのですね。女性たちはイエスさまと共に何年も旅を続け、イエスさまやお弟子たちのお世話をしていました。イエスさまが捕えられ、十字架につけられるとき、男性のお弟子さんたちはみな逃げてしまいましたが、女性たちは最後まで、イエスさまの後を追っていきました。この二人のマリアたちもまた、イエスさまが十字架から降ろされるその最後までを見守っていました。

 

この二人のマリアは、心から、イエスさまのことを大切に思っていました。十字架から降ろされたイエスさまのご遺体をお墓に納めるときも、このマリアたちはすぐ近くにいました。そのように、イエスさまを大切に想い続けた二人であったからこそ、イエスさまのご復活の最初の目撃者になったのだ、ということができるでしょう。

 

 

 

お墓の前で、茫然として

 

イエスさまが葬られたお墓は、岩に穴を掘ったかたちのものでした。イスラエルでは火葬は行われず、遺体をそのままお墓に納められるのが習慣でしたので、イエスさまのご遺体もそのまま、岩穴の中に納められました。そして、その穴は、大きな石でその入り口がふさがれました。それは大きな石で、おそらく大人の男性が何人も力を合わせてやっと動かせるようなものだったでしょう。

 

 

イエスさまがお墓に納められた後も、二人のマリアはそこに残り、お墓の方を向いて座っていたと聖書に記されています。マリアたちのこのときの心の中のことは記されていませんが、お墓を向いて座っていたという文章の中に、二人の言葉には出来ない深い悲しみが現れているように思います。茫然として、立ち上がることもできずに、二人はお墓の前に座り込んでいたのかもしれません。(もう、すべてが終わってしまった……)。自分たちの人生において、もはや何の希望もなくなってしまったと感じていたことでしょう。

 

 

 

十字架につけられた主のお姿

 

お墓の前に座り込むマリアたちの目に浮かんできたのは、十字架につけられたイエスさまのお姿でした。先ほども言いましたが、マリアたちはイエスさまの最期を見届けていました。十字架の上でイエスさまが苦しそうにしておられる姿、息を引き取られ傷だらけになった姿で十字架から降ろされるのも見ていました。その痛ましい最期の姿が、マリアたちの脳裏にこびりついて、取れなかったことでしょう。目を閉じれば、十字架の上で苦しんでいるイエスさまのお姿が浮かんできたことと思います。イエスさまが亡くなってしまった、ということに加え、苦しんで最期を遂げられたということ。その事実がマリアたちの心に耐え難い苦しみ、痛みを与えていたのではないかと思います。

 

 

 

天使の知らせ

 

イエスさまがお墓に納められてから三日目、日曜日の明け方にマリアたちは再びお墓を見に行きました。少しでも早く、せめてイエスさまの亡がらのそばにいてさしあげたかったのでしょう。

 

 二人がお墓の前に着くと、大きな地震が起こりました。その地震の揺れによって、大きな石がゴロンとわきに転がった。地震が起きて石が動いたのは、天使が現れたからだ、と聖書は説明しています。墓の番をしていた兵隊たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、倒れてしまいました。マリアたちも、いったい何が起こったのか分からず、恐ろしかったと思います。

 

 震えるマリアたちの耳に、天使の声が響きました。56節《恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方はここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ》。天使は、「イエスさまがよみがえられた」という驚くべき事実を伝えました。

 

 

 

「苦しんで死なれた主はもうここにはおられない」

 

 この天使の言葉を私なりに言い直してみたいと思います。「十字架につけられた主のお姿があなたたちの心から離れないでいることを、わたしはよく知っています。しかし、そのように苦しんで死なれたイエスさまは、もうここにはおられません。イエスさまはよみがえられたのです」。そのように、天使はマリアたちの心に語りかけました。

 天使は、マリアたちのその苦しみ、痛みをすべて、理解していました。その上で、十字架の上で苦しんで亡くなられたイエスさまのお姿ばかりを探し求めるのはもうやめなさい、というのです。

 

 続けて、天使は言います。6節《さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい》。その言葉に従って石が取り去られた墓の中を見ると、確かに、その中は空でした。十字架の上で苦しんで死なれたイエスさまのお姿は、もうそこにはありませんでした。

 

 

 

喜び、急いで

 

 マリアたちの心を襲ったのは、何が起こっているのか分からないという恐れであったでしょう。しかし、いま目の前に確かな事実としてあるのは、イエスさまの亡がらがもうそこにはもうない、ということ。

(もしかしたら、本当に、イエスさまはよみがえられたのかもしれない)。

 マリアたちは、心の中に、一筋の希望の光が差し込んだようにも思いました。

 

天使は最後にこう伝えます。7節《急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました》。恐れとそして大きな喜びを胸に、マリアたちは急いで墓を立ち去りました。

 

 

 

「おはよう」

 

走り出したマリアたちの先に、誰かが待っていました。その人はマリアたちに「おはよう」と挨拶をされました。それは、あの愛しいイエスさまの声でした。

 

9節《すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

 

よみがえられたイエスさまの第一声は、「おはよう」でした。少し意外とも思える言葉かもしれません。何か特別なことを言ったのではなく、イエスさまは普段通りの挨拶をなされました。いつものあのやさしい声で。いっしょに旅を続けている間、毎朝自分たちに微笑みながら「おはよう」と言ってくださっていたように――。

 

 いま目の前に、イエスさまが生きておられる。しかも、十字架の上で苦しそうにしておられたイエスさまではなく、いつものようにやさしく微笑んでいるイエスさまがいま、ここにおられる。その事実が、何よりもマリアたちの心に喜びをもたらしたことと思います。

 

 

 

よみがえられた主と「共に生きる」

 

マリアたちはイエスさまに近寄り、イエスさまの足を抱きしめました。なぜ足なのでしょうか。安堵のあまり力が抜け倒れそうになり、思わずイエスさまの足にすがりついたのでしょうか。もしくは、足を触ることによって、イエスさまが「生きておられる」ことを確かめたかったのかもしれません。日本では幽霊には足がないというイメージがあります。足があるということはその人が「生きている」ことの証拠です。マリアたちはイエスさまの足を抱きしめ、イエスさまが「生きておられる」という事実を全身で確かめました。

 

こうして、イエスさまが「生きておられる」ことを確信したマリアたちは、新しい生き方を歩み出し始めました。それは、よみがえられた主と「共に生きる」という新しい生き方でした。夜は去り、朝の光がマリアたちの体を照らしてゆきます。この光は、永遠の命の光です。喜び、急いで、マリアたちはこの光の中を走り出してゆきました。いま悲しみの内にある人々に、イエスさまが「生きておられる」ことを知らせるためです。

 

これが、イースターの始まりの出来事です。マリアたちからの喜びの知らせは弟子たちに伝えられ、人から人へ伝えられ、世界中に広がってゆき、そしていま、私たちに伝えられています。

 

 

 

「喜びなさい」

 

よみがえられたイエスさまは、「おはよう」とマリアたちに呼びかけました。この当たり前の挨拶が、この日以来、マリアたちの心に特別に響き続けるものとなったことでしょう。「おはよう」というイエスさまの声によって、悲しみのあまり思い出せなくなっていた、イエスさまとの大切な記憶の数々もよみがえったことでしょう。イエスさまと過ごした、かけがえのない一瞬一瞬が、胸いっぱいによみがえった。イエスさまの「おはよう」という挨拶によって、凍り付いて固まっていたマリアたちの心に、再び生命が取り戻されました。

 

「おはよう」というこのイスラエルの挨拶は、「喜びなさい」という意味ももっている言葉です。まさにイエスさまのこの言葉の通り、マリアたちの心には喜びがもたらされました。その喜びはもはや、マリアたちの心から消えることはありません。

 

 

 

私たちは独りではない

 

イエスさまのご復活の出来事を通して、私たちには、「死は終わりではない」ということが知らされています。私たちはいま、よみがえられたイエスさまの命の中を生きています。私たちの目には見えなくなった大切な人々も、その命の光の中を、共に生きています。私たちは決して、独りきりではありません。たとえ目には見えなくても、イエスさまはいま生きており、私たちの愛する人々も、その永遠の命の中を共に生きています。いつも、どんなときも、私たちは独りきりで生きているのではありません。

 

イースターを記念する今日、ここに集った皆さん一人ひとりの心に、よみがえられたイエスさまご自身が語りかけてくださっていることを信じています。皆さんの心に、イエスさまからの喜びがもたらされますことを願っています。