2014年4月27日「弱さの中の尊厳と力」

 

2014427日花巻教会説教

 

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二12110

 

「弱さの中の尊厳と力」

 

 年間主題聖句

 

お読みしましたコリントの信徒への手紙二129節は、2013年度の花巻教会の主題聖句でした。9節《すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ、十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう》。

 

「弱さの中にキリストの力が現される」というこのメッセージは、今まで、多くの人々を励まし、力づけてきたことと思います。2000年近くも前に語られた言葉であるにも関わらず、このメッセージはいまも私たちにとって新鮮な、新しい言葉であり続けているように思います。

 

 手紙を記したパウロ自身はこのメッセージを、具体的にどのような状況で与えられたのでしょうか。ごいっしょに確認してみたいと思います。

 

 

 

パウロに与えられた《とげ》

 

改めて7節の後半からお読みいたします。79節《…それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。/この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。/すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ、十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう》。

 

 いまお読みしました箇所から、パウロが具体的にどのような状況の中でメッセージが与えられたのかが浮かび上がってきます。パウロ自身が語るところによりますと、当時パウロには、《とげ》という言葉で表現される、何らかの困難が与えられていたようです。

 

 この《とげ》とは何であったのかは、はっきりとは分かりません。身体的な病気であったという説、精神的な病いであったという説、あるいは、パウロを誹謗中傷する特定の人物を指すとする説など、さまざまな捉え方があります。《とげ》が何であったのかは私たちには正確には分かりませんが、ある人は《とげ》という表現から、「痛み」を伴う事柄が示されていると指摘しています。確かに《とげ》という表現から私たちに明らかなものとして伝わってくるのは、パウロの「痛み」です。《とげ》と表現される事柄は、パウロに継続的な痛み、苦痛を与えるものであったというのは間違いのないことでしょう。

 

 パウロはその《とげ》を《サタンから送られた使い》とも表現しています。福音を宣べ伝えることを妨げる力をパウロは「サタン」という言葉で呼ぶことがありますので、パウロに刺さっていた《とげ》は、パウロにとっては伝道活動の「妨げ」に思えるものでもあったのでしょう。

 

 私たちもそれぞれ、自分自身の《とげ》を思い浮かべることができるかもしれません。「これがなければ、あるいは、この人がいなければ、もっとうまくいくのに」と思えてしまうような事柄です。「この体の不調さえなければ……」「この人間関係さえなければ……」など、私たちにとって《とげ》として、痛みをもって感じられる対象がそれぞれにあることと思います。

 

 パウロも実際、この《とげ》が取り除かれるようにと、主に願いました。《三度》願ったと記されていますが、《三度》という言葉に含まれるニュアンスは、「何度も継続して願った」ということです。何度も、継続して願い続けたパウロに主から与えられたのが、9節のメッセージでした。《わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ、十分に発揮されるのだ》。現実には、パウロが願った通りのことは起こらなかった、ということが分かります。パウロの懸命の願いに関わらず、その《とげ》が取り除かれる、ということは起こりませんでした。

 

 

 

輝かしい経験と、惨めな経験

 

 さて、《とげ》のエピソードと併せて、パウロは12章の前半部分で、もう一つの経験を語っています。先ほどの《とげ》のエピソードがパウロにとって「惨めな」経験であったとすれば、前半部のエピソードはパウロにとって「輝かしい」経験でした。

 

 2節からの言葉をお読みいたします。24節《わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。/わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。/彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです》。

 

 ここでパウロはまるで第三者を語るかのように述べていますが、ここで語られているのは実際はパウロ自身のことです。自慢話になってしまうことを危惧して、このような客観的な語りを採用しているようです。

 

 このエピソードから明らかであるのは、パウロがこの地上の世界を超えた世界のことを垣間見た、ということです。《第三の天》という言葉がありますが、これは天地の中でもっとも「高い」ところを指している言葉です。パウロはこの地上を離れ、もっとも高い天にまで引き上げられる、という何か特別な経験をしたようです。《14年前》とそれがいつの出来事であったか具体的に記されていることから、それがパウロの生涯においても、稀で、記憶に刻まれる経験であった、ということが分かります。

 

 もしも、何かそのような特別な経験を私たち自身がしたとしたら、どう感じるでしょう。自分自身もまた特別な人間だと思うようになるかもしれません。人よりも「高い」ところにいる人間だ、と思うようになってしまうかもしれません。このような素晴らしい経験は輝かしい経験であると同時に、人を高慢にさせてしまう危険性をももっているものということができます。

 

 しかし、パウロに限っていうと、そうはなりませんでした。パウロは高慢な状態になることはなかった。なぜでしょうか。それは、他ならぬ、パウロに一つの《とげ》が与えられたからです。《とげ》が突き刺さることによって、パウロの意識は、一気に地上まで引き戻されました。ハッと現実の自分に帰る、とでもいいましょうか。天上の高みにまで引き上げられていたパウロの意識は、《とげ》の痛みによって、現実の中で悪戦苦闘している“あるがまま”の自分に引き戻されたのです。

 

当初はパウロも、そのことを受け入れることができなかったかもしれません。せっかくあのような高い世界へ引き上げられていたのに、なぜ地上に引き戻されなければならないのか……?しかし時間をかけて自分自身を見つめてゆく中で、パウロは《とげ》が与えられたことの意味を受け止め直していきました。パウロが次第しだいに気付かされていったことは、「自分が思い上がることのないように、この《とげ》が与えられている」ということでした。パウロは7節でその想いを述懐しています。7節《また、あの啓示されたことがあまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。…》。

 

《とげ》自体は、やはりパウロにとって、苦痛であり続けたことと思います。けれども、《とげ》によってもたらされる痛みが、パウロをいま・ここの現実に引き戻し、知らずしらず「地に足がついた」歩みをもたらしてくれてもいた。パウロは次第しだいにそのことに気が付いていったようです。

 

 

 

「低さ」の中で示された事柄

 

 パウロ自身の経験をごいっしょに見てまいりました。本日の聖書箇所である12章には、まことに対照的なパウロの経験が記されています。方や、天上の「高み」まで引き上げられた素晴らしい経験。方や、「低み」にまで引き下げられたみじめな経験。パウロがいずれの経験を自分に不可欠のものとしているかは、明らかです。それは後者の、低さの中でパウロに示された事柄です。

 

前者の、パウロは高みまで引き上げられそこで見聞きしたことについては、人に話すことはありませんでした。その天上の世界はもしかしたら、もはや痛みも苦しみもない世界なのかも知れません。地上の困難さから切り離されたそのような世界のことを私たちは知りたい、と強く思います。しかしパウロ自身は、そのような天上の世界のことを人に語ることは、主からゆるされていないと受け止めていたようです。

 

対して、パウロ自身が低みにおいて経験したこと後者の事柄については、言葉を尽くして語っています。それは、いま私たちが生きて、生活しているこの世界に関わる事柄です。私たちが生きるこの地上には多くの痛みがあり苦しみがありますが、しかしパウロはこの地上の世界のことをこそ語るように主から委託されていると受け止めていたように思います。

 

 パウロがなぜ「低さ」を不可欠のものとするのか。その低さをこそ大切なものとして語ろうとするのか。それはそこが私たちの生きる場所であると同時に、その低さの中にこそ、いまイエス・キリストがおられ、福音の力が働いているからです。

 

 

 

もっとも低きところで主に出会う

 

 パウロがイエス・キリストと出会ったのは、「いと高きところ」においてではありませんでした。パウロが復活の主と出会ったのは「もっとも低きところ」においてでした。

 

《とげ》による痛みの中で、パウロ自身がもっとも深く落ち込んでいたとき、パウロはキリストと出会いました。そのとき、パウロに語りかけられ続けていたキリストの声を聴いたのです。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。

 

神さまからの恵みは、パウロがもっと高いところにステップアップすれば与えられる、というものではありませんでした。神さまの恵みは、すでにパウロに十分に満たされているものでした。たとえ私たちがいま自分自身のみじめさの中で苦しんでいるとしても、神さまから見て、私たちはいますでに《十分な》存在であるということを、この主の言葉は伝えています。

 

私たちがより「高い」ところに行こうと懸命になっているときは、私たちにはこの神さまの恵みが見えづらくなってゆきます。反対に、私たちが弱さや低さの中を意識しているとき、私たちはこの神さまの恵みを間近で感じ取ることができます。他でもない、イエス・キリストご自身が、この低さの中におられるからです。十字架におかかりなった主が、ここに、共におられる。

 聖書が証しているのは、現実の私たちが生きざるを得ないこの「低さ」の中に、神さまの栄光が宿されているということです。

 

 

 

“あるがまま”の尊厳と力

 

パウロはこの“まことの現実”を知らされたからこそ、《だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう》(9節)と宣言するようになりました。弱さも含んだいま・ここのわたしそのものに、キリストからの尊厳と力は宿されています。私たちがもっと立派になれば尊ばれる存在になるということではなく、私たちは“あるがまま”に、いますでに、キリストからの尊厳とその力が与えられています。いまこの瞬間、この地の上に生きている私たち一人ひとりが、神さまから見れば等しく、尊い存在です。神さまはお語りになっています。「わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書434節)。これが神さまからの“まことの声”です。

 

だからこそ私たちは、「喜んで自分の弱さを誇る」ことができます。言い換えれば、「喜んで“あるがまま”の自分を誇る」ことができるようになってゆきます。パウロはそのことを10節で次のように言い直しています。10節《それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです》。

 

 

 

神さまからの愛

 

 パウロ自身は生涯、その身から《とげ》が取り除かれることはありませんでした。《とげ》が肉体的、もしくは精神的な病いであったとすると、その病いは結局は、癒されることはなかったということになります。《とげ》が人間関係であったとすると、その人間関係はずっとパウロを悩ませ続けたことになります。パウロはその後の人生も、その《とげ》を抱きつつ生きていきました。

 

主はそのような、弱さも何もすべて含めたパウロそのものを、まるごと、「価高く、貴い」ものとして見てくださっていました。「わたしの恵みはあなたに十分である」という、主から知らされたその真実こそが、パウロの魂を救ったのだと思います。パウロは癒されることはありませんでしたが、神さまからのその愛は、パウロの魂に救いをもたらしました。

 

わたしたちもまた、自分自身に与えられた《とげ》と、これからも向かい合い続けることになるかもしれません。《とげ》が取り除かれるという意味での癒しは、もしかしたら起こらないかもしれません。もちろん、もしかしたら、起こるかもしれません。それは私たちには分かりませんが、確かなこととしてあるのは、わたしたちはいますでに、“あるがまま”に神さまから愛され、尊重されているということです。この真実があるかぎり、私たちはこの大地の上で、「自分が自分である」ことの誇りと、喜びをもって、生きてゆくことができるのだと信じています。キリストを通して与えられている尊厳とその力を奪い取ることは、何者にも決してできません。

 

「わたしの目にあなたは価高く、貴い。いま、“あるがまま”のあなたを、わたしは愛している」――。この大地の上に響き渡っている主の声に、ごいっしょに心を開きたいと願います。