2014年4月6日「子を想う心」

201446日花巻教会説教

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二11115

 

「子を想う心」

 

 

聖書における「蛇」

 

皆さんは、生き物の「蛇」は、苦手でしょうか、お好きでしょうか。多くの方は、蛇は苦手、怖いもの、と感じてらっしゃるのではないでしょうか。山道を歩いていたら蛇を見つけて、思わず悲鳴を上げて飛びのいたという経験をされた方もいらっしゃると思います。クネクネした見た目が苦手とお感じになる方もいらっしゃるでしょうし、また、噛まれると毒が体にまわるから怖いという人もいらっしゃるでしょう。もちろん、蛇が好きで家でペットにしているという方もいますから、すべての人にそれを当てはめることはできませんが、どちらかというと蛇が「苦手である」と感じる人の方が多いように思います。

 

 

蛇は昔から、世界の各地で信仰の対象となっている存在でもあります。蛇は脱皮を繰り返しますが、古い皮を脱ぎ捨てて新しくなるその姿が、「死と再生」の象徴として受け止められたのではないかという解釈もあります。日本でも、古くから蛇は信仰の対象でした。たとえば奈良県の大神神社では、御神体の三輪山は「とぐろを巻いた蛇」の姿に見立てられています。美しい円錐形の三輪山が、とぐろを巻いた蛇の姿と重ね合わされているのですね。日本では蛇は「祖先神」の象徴でもあり、古来から畏怖され、尊ばれる対象であったのです。

 

 

一方で、では聖書においては、蛇はどのように描かれているでしょうか。残念ながら(?)肯定的な記述はほとんど見つけることはできません。聖書において蛇は、たとえば「危険な生き物」「人間に害を与える生き物」の代表として登場します(マルコによる福音書1618節)。また蛇は、悪魔やサタンの象徴として登場します(ヨハネの黙示録129節)。広く浸透している「蛇はサタンの使いである」というネガティブなイメージは、おそらくこれら聖書の記述がもとになっています。蛇好きの方には申し訳ありません(!?)が……。

 

 

善悪を知るようになること

 

蛇についてのネガティブなイメージを造り出した代表例は、創世記の「蛇の誘惑」の場面でありましょう(創世記3章)。神さまが「食べていけない」と命じた《善悪の知識の木》の実を、エバに食べるようにと蛇が誘惑する場面です。ここで蛇は特にサタンの使いとして描かれているわけではなく、野の生き物の中でもっとも「賢い」存在として登場しています(創世記31節)。ただ、「人間を誘惑する」その姿が、だんだんとサタンのイメージと結び合わされていったのでしょう。創世記ではその後、蛇がすすめたとおりエバとアダムは木の実を食べてしまい、神さまと人間との信頼関係が崩れてしまうことになります。

 

 

 創世記のこの場面において、蛇はエバに向かって、木の実を食べると目が開け《神のように善悪を知るものとなる》ということを伝えます(創世記35節)。そうして人間は「賢くなる」ことができる、と。「善悪を知るようになる」ということがここでは「賢くなる」ことと言われています。

 

 

 木の実を食べることで生じてしまった「善悪を知るようになる視点」とは、どのようなものでしょうか。いくつもの解釈の仕方があることと思いますが、本日はそれを、「ものごとを比較する視点」であると捉えてみたいと思います。

 

 

ものごとを比較する視点

 

 木の実を食べたことでまずアダムとエバは気づいたことは、自分たちが「裸である」ということでした(創世記37節)。二人はいちじくの葉をつづり合わせ、自分の腰を覆います。アダムとエバは、「互いを比較し合う」ことを通して、初めて自分たちが裸であることに気が付くことができたのではないでしょうか。そうして、裸であることが何だか「恥ずかしく」、また「不安」に感じるようになった。

 

では、木の実を食べる前のアダムとエバは、どのような状態であったのでしょうか。「ものごとを比較する」ことのない世界に生きていた二人は、恥ずかしさも不安も感じることもなかった。アダムはただアダムであり、エバはただエバでありました。そのような世界を生きていた二人でしたが、ある時木の実を食べることによって、ものごとを比較する視点が入り込むようになってしまったのです。

 

 

 ものごとを比較するということは、もちろん、私たちが生きてゆく上で欠かせないものです。「善い」「悪い」、「美しい」「醜い」、「優れている」「劣っている」、「大きい」「小さい」、「高い」「低い」……。そのように私たちはものごとを比較し分類してゆくことによって、目の前の現実を自分なりに受け止めてゆきます。比較という視点は、まさに私たちに生きてゆくために欠かせない知恵です。この視点がないと私たちは目の前の情報をうまく処理してゆくことができません。

 

 

 ただしその視点を、他ならぬ人間関係にも当てはめてしまったとき、さまざまな問題が発生してゆくこととなります。「人と自分を比較する」という視点、「人と人を比較する」という視点は、私たちに益よりも破壊的な結果をもたらすことが多いものです。

 

 

人と自分の比較

 

 私たちは気が付くと、自分と人を比較してしまっています。自分はあの人と比べたらまだましな状況だから、安心しよう、とか。自分と比べてあの人はうまくいっているように見えるから、悔しい、とか。

 

自分が人よりも優位に立っているように思えるとき、私たちは安心します。けれども、その安心もたいてい長くは続きません。たとえば自分よりもさらにうまくいっている人を見つけたら、私たちはまた落ち着かなくなります。

 

 

このように、誰かと比較することによって人間関係を受け止めようとする作業には、限界があるようです。人と比較しようとし続ける限り、私たちの心の中には解決できない何かが、残り続けてゆきます。聖書もまた、ものごとを比較の視点で「のみ」見つめるようになった人間の内に、不平や不満、嫉妬、争いなどが生じていったことを描いています(たとえば創世記4章。カインとアベルの物語)

 

 

教会における蛇の誘惑

 

 本日のパウロの手紙にも、人々が互いに比較し合うことによって、教会に問題が発生してしまっていたことが記されています。当時、パウロの周囲には、互いに比較し合うことに熱心であった人々がいたようです。

 

前回の聖書箇所では、このような言葉がありました。コリントの信徒への手紙二1012節《わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです》。

 

 

ここでパウロが批判しているのは、教会の指導的な立場にいる人々に対してです。本来指導的な立場にいるはずの人々が、互いに評価し合い、比較し合うことに熱心であったという状況があったようです。パウロはその状況を「愚か」なことだと厳しく批判しています。

 

 

パウロはその状況を、かつてエバになされたように、教会に「蛇」の誘惑が入り込んできてしまっている状況だと捉えました。コリントの信徒への手紙二1123節《あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。/ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています》。

 

かつてエバが蛇によって誘惑されたように、手紙の宛先であるコリント教会の人々が蛇の誘いにのって、本来の道から逸れてしまうのではないかとパウロは心配しています。

 

 

ここでパウロは花嫁の父親のような気持で、これらの言葉を記しています。教会が花嫁であり、花婿はイエス・キリストです。教会とキリストはいま婚約中であり、その大切な時に花嫁が揺れ動いてしまってはいけない、というパウロの切実なる想いが表現されています。パウロにとって、コリント教会の人々は「わが子」のような大切な存在であったということが分かります。

 

 

 花嫁である教会が歩むべき道とは、「福音」の道です。親であるパウロは、娘がこの道の上を逸れることなく歩んでゆくことができるようにと心を配っています。婚約中の娘を動揺させようとする存在が現れたとしたら、懸命に娘を守ろうとするのは当然のことでありましょう。パウロはその人々のことを《蛇》と呼び、さらには《サタンに仕える者たち》とまで呼んでいます。同じキリストを信じる人々のことをそこまで悪く言うのは問題だという気がしますが、パウロの親心の表れとして受け止めることもできます。パウロは何としてでも娘を守るという決意をもって手紙を記しているのです。

 

 

あえて「愚か」になって

 

その人々が伝える福音とは、パウロが伝えた福音とは《違った福音》(4節)でした。パウロはその違いを伝えるため、あえてこの手紙において自分とそれらの人々のことを「比較」しています。人と人とを比較するのは「愚か」なことであると述べたパウロが、ここで自分と人を比較しているのですから、パウロもまた同様に「愚か」になってしまったことになります。しかしパウロはたとえ自分が「愚か」になってしまったとしても、コリント教会の人々にまことの福音を伝えたいと思ったのでしょう。冒頭の1節で、パウロは自分もまた愚かになってしまっていることを詫びています。111節《わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが。いや、あなたがたは我慢してくれています》。

 

 

福音

 

パウロが批判した人々が主張する福音とは、「比較する視点」を土台とした福音であったということができます。「より優れた人間になれば、神さまは私たちを尊重してくださるであろう」という考え方です。対して、パウロが伝えた福音とは、「いま“あるがまま”の私たちを神さまは尊重して下さっている」というものでした。

 

 

パウロはよみがえられたイエス・キリストを通して、この福音と出会いました。そうして、世界の見方が変えられました。パウロは、私たち人間の「善い」「悪い」という判断を超えて、私たちを極めて「よい」ものとして受け止め、生かして下さっている力があることを知らされたのです。パウロにとって、その神さまからの力が、福音でした。

 

 

この福音は、天地創造のはじまりから、変わらず私たちを支えてくださっている神さまの力です。創世記のはじまりは記します、《神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった》(創世記131節)

 

アダムとエバは木の実を食べたことによりこの「よい」という祝福の声を見失いましたが、彼らがその祝福を忘れても、神さまはやはり「よい」ものとして、二人を支え続けました。私たちの目からみてどれほど自分たちが「悪い」存在に思えても、神さまの目から見て、私たち人間はそのものとして、「よい」存在であり続けています。

 

 

かけがえのない「あなた」に立ち還れ

 

パウロが伝えたいと願っていたのは、神さまが抱いておられるその《熱い思い》です(2節)。神さまのこの想いを知らされたとき、私たちのまなざしは、互いに比較し合うことから、たった一人のかけがえのない「わたし」という視点へと向き変ります。誰かと比べることによって自分を認識するのではなく、神さまに尊ばれているただ一人の「わたし」として、自分をまったく新しく認識し始めるのです。そのとき私たちの不安は少しずつ取り去られ、私たちの渇きは、癒されてゆきます。

 

 

旧約聖書のイザヤ書には、神さまからイスラエルに向けられた次のような言葉があります。《わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする》(イザヤ書434節)。これは言い換えれば、イスラエルの民の代わりとなるものは存在しない、ということです。神さまはイスラエルを、代替不可能な、かけがえのない存在として愛しています。私たちの目から見て、いまの自分自身に価値がないように思えても、神さまの目からみて、いま・ここにいる「わたし」は、どんなものにも代えられない貴いものです。

 

 

わが子を想う心

 

 神さまのこの想いは、わが子を想う心のようです。親は、誰かと比較した上でわが子を愛するのではないでしょう。誰とも比べることのできない、かけがえのない存在として、わが子を愛します。神さまにとって、「あなた」とは、そのただ一人の存在です。他の誰も、「あなた」の代わりとなることはできません。「あなた」という存在は本来、他のものと比較すること自体ができない存在なのです。

 

 

 私たちを動揺させようとする「蛇」の声とは、実際には存在しない“幻の声”です。本来比較することができない存在である「あなた」を惑わせ、あなたの尊厳を貶めようとする、幻の声です。この幻の声は、私たち自身の心の内から生じ、私たちの心を棲み家としています。この幻の声を振りほどき、私たちは、いま私たちに語りかけられている“まことの声”に、耳を傾けましょう。このまことの声とは、私たちをかけがえのないわが子としてくださっている、父なる神さまの声です。

 

 

「わたしの目にあなたは価高く、貴い。いま・ここにいるあなたこそを、わたしは愛している」――神さまのこの言葉こそ、私たちにとって真実であり、まことの福音です。この神さまの福音にいま、共に立ち還りたいと願います。