2014年5月11日「共に弱さの中で」

 

2014511日花巻教会説教

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二1314

 

「共に弱さの中で」

 

 

 

主は生きておられる

 

教会の暦で、私たちは現在「復活節」の中を歩んでいます。復活節は、「イエス・キリストが復活された」ことを共に覚え、喜ぶ時期です。

 

 新約聖書の福音書を見ると、主のご復活の最初の証人となったのは、女性たちであったことが記されています。主イエスが葬られてから三日目の朝、婦人たちが目にしたのは空になったお墓でした。途方に暮れる婦人たちの前に天使が現れ、告げます。《なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか。/あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ》(ルカによる福音書2456節)

 

これはルカによる福音書に記されている天使の言葉ですが、ここでは、復活の出来事が、《イエスは生きておられる》(同2423節)という印象的な言葉によって表現されています。

 

「イエス・キリストが復活された」という表現は、聴く人によっては、自分とは何か遠いところで、大昔に起こった出来事という印象を受けるかもしれません。特に、キリスト教にあまり関心のない方にとっては、それがどのように自分と関係のあることなのかよく分からないことと思います。

 

対して、「イエス・キリストはいま生きておられる」と聞くと、「え?何だろう」とわずかに興味が湧くことがあるかもしれません。「主は生きておられる」という表現は、遠い昔に起こった出来事としてではなく、「いま」起こっていることだという印象を、私たちに与えるからです。何か自分にも関わりがあることかもしれないという印象を私たちに与えます。

 

 

 

私たちの弱さの内に

 

「主イエスはいま生きておられる」。では、どこに、でしょうか……?新約聖書の中でも、その表現の仕方はさまざまです。共通しているのは、主が生きておられるところは「遠い」ところではない、ということです。主イエスは私たちの生きる現実と切り離された、遠いところに生きておられるのではない。そうではなく、もっと身近なところ、私たちのすぐ「そば」に、主は生きておられる、ということを聖書は語ります。

 

 ご一緒に読み進めてきましたコリントの信徒への手紙二の著者であるパウロなら、どのように表現するでしょうか。パウロは、「主イエスは私たちの弱さの内に生きておられる」と表現するのではないかと思います。

 

私たちにとって何より現実感のあるものとは、自分自身の「弱さ」です。弱さとは常に私たちのありのままの現実を示すものであり、その現実の中にこそ主イエスは生きて働いておられるということをパウロは伝えています。

 

 

 

弱さのリアリティー

 

 小説や映画の感想として、「この作品にはリアリティー(現実味)がない」または、「この作品にはリアリティー(現実味)がある」という言い方がなされます。「リアリティーがない」と言われるときは、その作品の描く世界がどこか夢のような、現実離れしたものであるという感想が込められています。「リアリティーがある」と言われるときには、私たちが生きる現実と通ずるものがあるという共感が込められています。これは作品のジャンルによって必ずしも左右されることではないでしょう。ジャンルとしてファンタジーと呼ばれる作品の中にもリアリティーがある作品がありますし、私たちの日常生活をモチーフとしている作品の中にもあまりリアリティーが感じられないものもあります。

 

 たとえば世界中で大ヒットしたファンタジー作品『ハリー・ポッターシリーズ』において、映画の中で主人公のハリーが自分の中の否定的な想いと葛藤する場面は、とてもリアリティーがありました。作品の中では、否定的な想いの象徴として「闇の勢力」が登場しますが、そのような自分でコントロールができないネガティブな想いというものは私たち自身の心の中にも存在しているものです。ネガティブの闇による圧倒的な力に呑み込まれそうになりながらも、それでも自分を「生きる」方へつなぎとめるかすかな光を見出そうとするハリーたちの姿に多くの方が共感を覚えたことでしょう。ハリーにとって自分をつなぎとめようとする光とは、ハリーの父と母の愛であり、大切な友たちの友情でした。作品において表現される光も闇も、どちらも私たちの心の中にある世界を映しだしているものなのでしょう。

 

『ハリー・ポッター』の原作者であるJK・ローリングさんはうつ病を経験されたことがあるそうですが、それを知って私はとても腑に落ちた気持ちになりました。光と闇のはざまで苦しむ主人公たちの姿は、まさにうつ病を経験した方だからこそ表現しえたリアリティーがあると感じたからです。

 

 人々の共感を呼ぶこのリアリティーというのは、「弱さのリアリティー」とも言えるものです。私自身も、ときに否定的な想いに呑み込まれそうになる弱さをもち、その弱さゆえの苦しい経験を多少なりともしているので、『ハリー・ポッター』が描き出す弱さのリアリティーに共鳴したのだと思います。

 

このように、私たちを互いに結びつける回路として、最も大きな役割を果たしているのが「弱さ」であるということができるのではないでしょうか。私たちが日々の生活の中で、もっともリアリティーをもってまざまざと感じているのが、自分自身の弱さであるからです。

 

 

 

「自分は独りではない」という気持ち

 

 普段私たちは、自分の弱さを感じとることを、なるべく避けようとしています。あるがままの自分の現実を見つめることはなるべくなら避けたいと思っています。現実の自分ではなく、理想の自分の姿をできるだけ想像するようにと努めていることでしょう。これが私たちの普段の状態です。

 

しかし一方で、たとえば先ほどの『ハリー・ポッター』の例のように、自分と通ずる弱さの表現に出会ったとき、私たちは心のどこかが慰められるという経験をします。それは隠しておきたい自分自身の弱さと間接的に触れる経験であるとも思いますが、不思議とそのようなとき私たちは慰めや励ましを受けるのです。

 

 その理由の一つとして、その瞬間「自分は独りではない」という気持ちになることができるからかもしれません。閉じこもっていた自分の心に風穴のようなものが開け、心が外に向かって拡がってゆくような感覚。開かれた心が、誰かの心と通じ合ってゆくような感覚。この「自分は独りではない」という感覚は、私たちに力を与えてくれるものです。

 

 そのとき、私たちはたとえ一瞬であっても、自分自身の弱さや無力さを責めたり否定したりすることを忘れています。むしろ、自分の弱さが通路のようになって、自分を誰かを結び合わせている状態に、何か満ち足りたものを感じています。そのような祝福された状態というのは、なかなか長く続くことはありませんが……。

 

 

 

弱さは「扉」

 

 このようなことを思いますとき、「弱さ」というものは不思議なものだなあ、と思います。それは私たちを恥じ入らせ、私たちを自分自身の殻に閉じ込めてしまうものでありますが、一方で、その「弱さ」が、私たちを誰かを結び合す働きをすることもあります。もしかしたら弱さとは、本来、誰かと誰かを結び合わせる「扉」のようなものとして私たちに与えられているのかもしれません。私たちが互いに孤独な状態に陥らないために――。

 

 もしも私たちにまったく弱さがなければ、きっと順風満帆な人生が開けることでしょう。さまざまなことがうまく行き、思い通りになり、そして悩みや不安や痛みさえも消え去ってゆくでしょう。まさに「夢物語」ですが、もしそれが実現したとしたらその瞬間、私たちは独りぼっちになってしまった自分を見出すことになるのかもしれません。

 

 

 

主は弱さのゆえに十字架につけられた

 

 本日の御言葉であるコリントの信徒への手紙二134節の冒頭に、次のような言葉があります。《キリストは、弱さのゆえに十字架につけられました》。イエス・キリストは十字架におかかりになりましたが、それは「弱さ」のゆえである、とパウロは語ります。ここでの「弱さ」とは人間の弱さであり、私たち自身の弱さです。イエス・キリストが人となって下さったことは、私たちの弱さを、御自分のものとしてくださった、ということを意味しています。

 

 十字架におかかりになる前、主イエスはひどく恐れて悶え始め、弟子たちに《わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい》とおっしゃったことを、福音書は証言しています(マルコによる福音書143334節)。神の御子である方が、恐れて悶え、はらわたが引き裂かれるような想いで「わたしは死ぬばかりに悲しい」とおっしゃった。そのような弱さと、弱さゆえの苦しみを、主イエスはご自分のものとしてくださいました。

 

十字架におかかりなったとき、主イエスは《わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか》と大声で叫ばれたことを、福音書は証言しています(マルコによる福音書1534節)。「見捨てられた」という《死ぬばかりの悲しさ》の中で、主は息を引き取られた。これほどまでの弱さとその苦しみを、主イエスはご自分のものとしてくださいました。

 

 

 

十字架の主がいま生きておられる

 

先ほど、弱さは「扉」のようなものかもしれないということを述べました。主イエスは弱さを御自分のものとし、その弱さを大きく開いてくださったことによって、私たちとつながる扉を開いてくださったのだ、と受け止めることが出来ます。イエス・キリストを通して開かれたこの扉は、「神の国」の扉です。

 

 パウロは語ります。《キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです》。ここに、「主イエスは生きておられる」という言葉が出て来ました。私たちとつながるために弱さを身に負い、十字架におかかりなってくださったキリストが、神さまの力によって「いま生きておられる」――。

 

主イエスはいまも、私たちとつながるその扉を開き続けてくださっています。弱さを抱きながら生きざるを得ない私たちの現実に光をもたらしてくださり、その私たちと共に生きてくださっています。

 

私たちが弱さを克服したら「神の国」に入れてくださるということではなく、私たちの弱さをそのままに受け止め、それを御自分の弱さとしてくださることを通して、私たちをいますでに、神の国へ招き入れてくださっています。この驚くべき現実が、いま・ここで起こっているということ、他でもない、この私の内に起こっているのだということ――これが、パウロが語る「主イエスは私たちの弱さの内にいま生きておられる」ということなのでしょう。

 

 

 

キリストに結ばれた者として弱い者

 

 この現実を知らされた時、パウロにとって自分の弱さや無力さはもはや恥ずべきものでも、必ずしも克服すべきものでもなくなったのではないでしょうか。弱さとは、主イエスが結びついてくださるかけがえのない扉なのだと気付かされた。パウロの中で、弱さの意味がまったく新しくされました。パウロは自分のことを、《キリストに結ばれた者として弱い者》と表現しています。私たちはもはやただ《弱い者》なのではなく、《キリストに結ばれた者として弱い者》です。私たちはもはや独りぼっちになることはありません。弱さをもった、あるがままのこの私の内に、主が共に生きて下さっています。

 

 

 

弱さの中で「共に生きる」

 

 弱さの中を歩むことは、それぞれが自分の十字架を担って歩むということでもあります。それは確かに重いことであり、痛みや苦労や悩みは絶えることはないでしょう。しかしこの自分の弱さが、誰かと誰かを結び合わすかけがえのない「扉」ともなり、固い「絆」ともなるのだということを、私たちは忘れないようにしたいと思います。

 

パウロは語ります。4節後半わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています》。

 

私たちがなすべきことは、自分自身の弱さをただそのままに、神さまに対して、そして大切な人々に対して開いてゆくことです。いま・ここにいる、あるがままの自分自身を開いてゆくこと。それは確かに勇気があることですし、長い時間がかかる作業でもあるでしょう。

 

そのようにして私たちが弱さの扉を一つ、また一つと開いてゆくとき、その扉からよみがえられたキリスト御自身が輝き出でてくださいます。よみがえられたキリストが生きて働いてくださり、そうして、私たちを互いに結び合わせてくださいます。たとえ私たちの弱さ自体は無くならなくても、そこに、「共に生きる」ことのまことの慰めと力とが、十分に満たされているのに気付くでしょう。

 

キリストに結ばれた弱さの中で「共に生きる」歩みを、これからも、ごいっしょに歩んでゆきたいと願います。