2014年5月18日「キリストがあなたがたの内に」

2014518日花巻教会説教

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二13510

 

「キリストがあなたがたの内に」

 

 

 

福音の新しさ

 

昨年の秋から、コリントの信徒への手紙二をごいっしょに読み進めてきました。内容としましては、本日の言葉が手紙の最後の部分に当たります。

 

パウロの手紙を読み続けながら私自身が思いましたことは、パウロの言葉の「新しさ」です。2000年前近く前に記されたものですが、読むたびにこれらパウロの言葉は新鮮な言葉として迫ってきました。たとえば、「弱さ」ということについて語るパウロの言葉の、いかに新鮮なことでしょう。

 

当時もいまも、「弱さ」という言葉には否定的なニュアンスが込められています。パウロはその私たちの常識や価値観を、手紙の中でひっくり返してみせています。弱さをこそ私たちは誇ろう、とパウロは語りました。

 

これらパウロの言葉というのは、パウロ自身が考え出した思想や哲学である、というわけではありません。むしろ、いま自分に現実に起こっている事柄をそのままに指し示してそうとしている言葉である、ということができます。真実を正確に報道しようとする記者のように、パウロはいま自分に起こっている現実を正確に伝えようとしたのだ、ということもできるでしょう。

 

ではパウロが手紙を通して懸命に伝えようとした事柄とは何か。それは、「福音」という事柄です。パウロはこの福音に出会い、実際に生き方が変えられた一人です。パウロは何とかしてこの驚くべき福音を伝えようと苦心し、その結果生まれ出たのがこれら斬新な言葉の数々となったのでしょう。

 

「新しさ」ということで言えば、何より、パウロが伝えようとした福音が、私たちにとって新しいのだ、ということになります。私たちにとって常に新しく、驚きであり続けているのが福音です。

 

 

 

「よし」とされた経験

 

福音は「良い知らせ」という意味をもつ言葉です。ただしそれは単なる「知らせ」の意味にとどまるものではありません。別の手紙のある個所ではパウロは、福音は《神の力》であると述べています(ローマの信徒への手紙116節)。私たちがいまそれに立ち会い、その影響をありありと受けている現実の力を、パウロは「福音」と呼んでいます。

 

パウロが経験した福音とは、弱さをもった自分を、神さまがいま“あるがまま”に受け入れ、「よし」としてくださっているというものでした。この力によって、自分はいま支えられ、生かされているということをパウロは知らされました。

 

福音が私たちにとって「新しい」のは、私たちにとって自分を“あるがまま”に受け入れるということが常に難しいことであり続けているからでしょう。私たちは常に人と人とを比べる比較の世界を生きており、より良い自分になろうとしています。その努力自体はまことに尊いものですが、自分自身を一度無条件に、“あるがまま”に受け入れるということがなされないと、私たちの心の奥底には「渇き」のようなものが残り続けることとなります。

 

パウロもまた、キリストに出会う前は、そのような比較の世界を生きていました。自分がもっと完璧な人間になれば、もっと立派な信仰の人間になれば、神さまは自分を受け入れてくださると信じていました。かつてのパウロにとって弱さとは、否定すべきことであり、克服すべき対象でした。

 

しかし、パウロが経験したのは、弱さをもった自分自身がすでに、いまこの瞬間、“あるがまま”に「受け入れられている」という経験でした。神さまご自身から、自分はいま受け入れられ、「よし」とされているということを知らされる経験です。自分で自分を受け入れたというよりは、自分が「受け入れられている」という真実を知り、それを受け入れることができた、ということでしょう。パウロ自身、この経験を通して、自らの内に抱え続けていた渇きが初めて癒されたのだと思います。

 

 

 

天地創造の祝福の声

 

創世記には、神さまが万物を創造されたとき、一つひとつのものを御覧になって、「よし」とされた、ということが記されています。神さまはご自分が造られた被造物を見て、その“あるがまま”の姿を「よし」とされ、祝福されました。

 

《初めに、神は天地を創造された。/地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。/神は言われた。

「光あれ。」

 こうして光があった。/神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、/光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である》(創世記115節)

 

天地創造のはじまりからこの世界に響き渡るこの「よい」という祝福の声を、そのときパウロもまた聴いたのです。

 

 

 

キリストがあなたがたの内に

 

手紙の締めくくりである本日の言葉において、パウロは次のように語ります。5節《信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……》。

 

 ここでパウロが「自分自身を吟味しなさい」というのは、自分が立派な信仰をもっているか吟味しなさい、ということではありません。むしろ幼子のような心で、神さまの「よい」という祝福を受け入れているか確かめなさい、ということでしょう。

 

 私たちが神さまから「よし」とされ、祝福されているその何よりの証し、それは、「キリストがあなたがたの内におられること」であるとパウロは述べます。神さまから「よし」とされていることと、キリストが私たちの内に生きていることとは、パウロの中では切り離せない一つのこととしてありました。ここでパウロが伝えようとしているのは、どのような事柄なのでしょうか。

 

 

 

キリストこそ、「よい」という神さまの言

 

 先ほど、創世記において、神さまが世界のはじまりに万物を造られたとき、一つひとつの存在を「よし」とされ、祝福された、ということを述べました。私たち人間を造られた第六の日には、神さまはすべてのものを御覧になった後、《極めて良かった》とおっしゃったことが記されています。《神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である》(創世記131節)

 

 かつて、世界の始まりの時、世界に鳴り響いたこの「よい」という声。神さまはいまイエス・キリストを通して、私たちに再びこの声を届けてくださっています。

 

 パウロは手紙の中で、《キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです》と語りました(コリントの信徒への手紙二517節)。イエス・キリストを通して、新しい天地創造が起こったのだ、という捉え方で、非常にダイナミックな捉え方ですが、キリストは私たちを新しく創造して下さったのだ、ということをパウロは語っています。

 

私たちがいま新しい天地創造に立ち会っているとすると、再び、あの祝福の声が聴こえてくるでしょうか。かつて神さまが被造物を御覧になり、「よし」としてくださった、あの祝福の声です。

 

その「よい」という声は、事実、いま鳴り響いています。それは天上の高みからではなく、他ならぬ私たちの内から――私たちの存在のもっとも低きところから、そこに生きておられるキリストを通して、鳴り響いています。「あなたが、あなたそのもので、在って、よい」――と。

 

私たちの内におられるイエス・キリストこそ、「よい」という神さまの「言(ことば)」です。

 

 

 

「あなたが、あなたそのもので、在って、よい」

 

「あなたが、あなたそのもので、在って、よい」。

 

 私たちの存在の底から、よみがえられたキリストは私たちに語りかけてくださっています。自分を“あるがまま”に受け入れることができないこの私たちの渇きの中から、キリストは語りかけてくださっています。

 

「あなたが、あなたそのもので、在って、よい」。

 

私たちの存在そのものを全肯定するこの声を知らされた時、涸れた谷(詩編422節)のように干上がった私たちの心に、命の泉が湧き出でます。「よい」というこのキリストの言葉を受け入れる、ただその一つのことだけによって、私たちの心の底から、命の泉は湧き出でます。いや、すでに湧き出でています。キリストに結ばれた私たちはいますでに、命の泉のほとりに立ち会っています。

 

《イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。/しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」》(ヨハネによる福音書414節)。

 

 

 

福音をすべての土台として

 

「あなたが、あなたそのもので、在って、よい」――。

 

いま私たちは福音の力を、あらゆるものの土台としてゆくことが求められています。私たちの生活の、私たちの社会の、根本的な「土台」として据えてゆくことが求められているように思います。

 

 一人ひとりの存在は、かけがえのなく大切なものであるということ。私たち一人ひとりの内には、よみがえられたキリスト御自身が生きていてくださっているのだということ。この神さまからの尊厳の光は、何者によっても奪われてはならないのだということ。その真理を、私たちはいま新たに心に刻んでゆかねばなりません。

 

 パウロは8節で次のような言葉を残しています。8節《わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます》。

 

 福音の真理に逆らっては、私たちは何事もなすことはできません。福音こそ、私たちの生きる土台であり、真理であり、私たちの法です。福音は、私たちの生活を、社会を、その根本から規定します。

 

 また同時に、私たちは福音の真理のためならば、何事かをなしてゆくことができます。福音は私たちに力を与える、《神の力》であるからです。福音の力は私たちを突き動かし、神さまからの尊厳がこの地上にまことに実現されてゆくよう、私たちが歩み出すようにと励まします。

 

 福音の証言者として、いまこそ私たち教会が働きかけてゆくことが求められています。福音が「新しい」ということは、いまこそ伝えるべきメッセージがあるということでもあります。神さまの「よい」という祝福の声がいま新しく聴かれ、新しく人々に伝えられてゆくために、ともに祈りを合わせてゆきたいと願います。