2014年5月25日「主が共におられる」

2014525日花巻教会説教

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二131113

 

「主が共におられる」

 

 

結びの挨拶

 

本日の御言葉は、コリントの信徒への手紙二の結びの挨拶にあたる部分です。手紙の最後に、コリント教会の人々に向けて、パウロは心のこもった挨拶を記しています。

 

手紙を締めくくる挨拶として、たとえば日本では「くれぐれも体調を崩されませぬようご自愛ください」というものがあります。相手の健康を願っての挨拶です。または「敬具」と締めくくる場合もあります。パウロもそのような手紙の締めくくりの挨拶を記しているわけですが、ゆっくりと読み直してみますと、その一語一語に、パウロの願いが込められているということが伝わってきます。定型の挨拶をそのまま記しているのではなく、パウロのオリジナルの挨拶のようです。

 

 1113節《終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。/聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。/主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように》。

 

 最後の13節《主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように》という挨拶は、私たちによくなじみのあるものです。礼拝の最後の祝祷において用いているのが、このパウロの言葉です。《主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように》。日本のプロテスタントの多くの教会で、このパウロの挨拶が祝祷の言葉として用いられています。

 

 短い一文ではありますが、この挨拶の中にパウロの伝えたかったメッセージがギュッと濃縮されて表されています。さらに言うと、聖書全体のメッセージがギュッと込められているということもできます。だからこそ、礼拝の最後の祝祷で、この一文が用いられることが多いのでしょう。本日はごいっしょにこの一文を味わってみたいと思います。

 

 

 

主イエス・キリストの恵み

 

 まず冒頭で記されているのは、《主イエス・キリストの恵み》です。パウロにとって、主イエス・キリストの恵みはどのようなものとして経験されたのでしょうか。

 

 パウロが経験した恵みとは、自分がいま“あるがまま”に「受け入れられている」という恵みでした。神さまから自分はいまそのままに受け入れられ、「よし」とされているということ。パウロはイエス・キリストとの出会いを通して、この恵みを知らされました。

 

 パウロは、イエス・キリストに出会う前は、このような恵みが存在していることを知りませんでした。自分がもっと強い信仰をもてば、もっと立派な人間になれば、そのとき初めて、神さまは自分を受け入れてくださるだろうと信じていました。人間は“あるがまま”の状態では不完全な状態であるから、神さまに「よし」とされることはないと思っていました。

 

けれども、それは誤解でありました。自分は神さまから見て、いまの“あるがまま”の状態ですでに「よし」とされているということをパウロは知らされました。その「よし」という声をパウロに伝えてくださったのが、他ならぬ、イエス・キリストその方でした。

 

 パウロは手紙の中で、実際に自分が経験した一つの出来事も記しています。パウロがもっとも落ち込んでいたとき、パウロは自分に向って語りかける主イエスの声を聴き取りました。《わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ》129節)

 

 どれほど私たち自身が弱さを抱えていても、自分を不完全だと思っていても、神さまはその私たちをそのままに受け止めて下さり、恵みを十分に注いでくださっています。私たちがもっと完全な人間になれば恵みを注いでくださるのではなく、いまこの瞬間、神さまは恵みをすでに十分に注いでくださっているのだということをパウロは知らされました。

 

 パウロは自分の抱えていた弱さや問題自体は、その後も取り除かれることはなかったようです。必ずしもパウロの身に癒しが起こったわけではなかった。しかし、そのようなさまざまな弱さや問題を抱えた自分であっても、生きていて「よい」のだということをパウロは知らされました。その「よい」という祝福の声が自分と共にある限り、パウロは、自分は生きてゆけると思ったことでしょう。その力が与えられていると思ったことでしょう。「わたしの恵みはあなたに十分である」というその言葉は、パウロの魂に救いをもたらしました。

 

 

 

神の愛

 

 これら恵みの経験を通して、パウロは神さまの愛に出会ったのだということができます。13節では、恵みの次に記されているのが、この《神の愛》です。弱さを抱えた自分がいますでに十分な恵みを与えられているということ、それは、弱さを抱えた自分がいますでに「愛されている」ということに他なりません。パウロはイエス・キリストとの出会いを通して、この神さまの愛に出会いました。

 

 旧約聖書のイザヤ書には、神さまのこのような言葉が記されています。わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書434節)。パウロはイエス・キリストを通して、神さまのこの言葉に出会ったのだということができます。「わたしの目にあなたは価高く、貴い。いま、“あるがまま”のあなたをこそ、わたしは愛している」。

 

 神さまのこの愛はパウロの世界の見方を、ひっくり返しました。常に誰かと誰かを比較し、自分と誰かを比較する眼鏡をかけていたパウロでしたが、その眼鏡は取り除かれました。目からウロコのようなものが落ち(使徒言行録918節)、まっさらな目で新しく世界を見つめはじめたパウロに、この世界の物事の一つひとつが、本来の輝きをもって見えるようになったことと思います。その輝きは、神さまから私たち一人ひとりに等しく与えられている、尊厳の光です。

 

 私たちは自分が神さまからかけがえのない存在として「重んじられている」ことを知った時、自分以外の人々のことも、「重んじる」ことができるようになってゆきます。目からウロコが落ちた私たちの目に、自分自身の存在の尊さと、また一人ひとりの存在の尊さは、輝いて映りはじめます。朝の光の中、目に映る風景が一つひとつ輝いて見えた経験を皆さんもお持ちのことでしょう。朝露が輝く草花、澄み渡った青空、緑の山々、さわやかな風、子どもたちの歓声と笑顔……。朝の光の中で存在の一つひとつが光り輝いているように、私たち一人ひとりには事実、神さまから尊厳の光が与えられています。

 

 神さまの愛はこの世界の土台となって、私たち一人ひとりの存在を尊いものとして受け止め、支えてくださっています。必要でないものなど、本来、この神さまの愛のもとでは存在しません。この世界の一つひとつの存在は、固有の役割が与えられています。

 

 

 

聖霊の交わり

 

パウロは教会を、イエス・キリストを頭とする《一つの体》と表現することがありました(コリントの信徒への手紙一121231節)。体には手足があり、内臓があり、というように多くの部分があります。そうして多くの部分が、それぞれに固有の役割を果たしています。体の各部分に固有の役割があるように、私たち一人ひとりには、聖霊からかけがえのない役割が与えている、というのがパウロの受け止め方でした。体の各部分は、それぞれが固有の役割を果たしつつ、互いに働きを補い合っています。私たち人間もまたそのように、互いに補完し合う関係性にあるというのが、まことの姿である、と。

 

13節において、パウロは三つ目に《聖霊の交わり》と記します。《主イエス・キリストの恵み》、《神の愛》を土台とした《聖霊の交わり》を、私たちが大切にできるようにと、パウロは最後に願います。

 

《聖霊の交わり》という言葉は、私たちが聖霊によって《一つの体》として結ばれながら、それぞれがかけがえのない役割を果たし、互いに支え合っている姿を指し示しています。目からウロコの落ちた目で私たちの世界を見つめ直した時、私たちは事実、この世界は《一つの体》であることに気づいてゆきます。一つひとつの部分に尊厳が与えられ、それぞれが固有の働きを果たしつつ互いに支え合っている《一つの体》であることに気づかされてゆきます。

 

手紙の宛先であるコリント教会には、当時、対立や争いがありました。教会が分裂しているという現状の中で、パウロは最後の願いとして、この《聖霊の交わり》という言葉を記したのでした。コリント教会に、どうか「和解」がもたされますように、という願いです。

 

 

 

和解への願いと、あきらめの気持ち

 

 パウロの手紙が書かれてから、2000年近い時が経とうとしています。現在の私たちが生きる世界においても、やはり無数の対立や争いは起こり続けています。毎日、新聞やテレビを見ると、内外におけるさまざまな対立や争いが報じられています。どうすればそれら分裂を修復できるのか見当もつかないような現状、頭を抱えざるを得ないような現状が私たちの目の前にはあります。

 

争いは争いを呼び、憎しみは憎しみを呼び続けています。暴力は別の暴力を呼び覚まし、その連鎖は断ち切られることはありません。私たちの身近なところにも、さまざまな対立があることでしょう。私たちキリスト教会の間にも、いまださまざまな対立や分裂があります。

 

 パウロの手紙をはじめ、聖書は私たちの「和解」を呼びかけています。互いに憎み争うことを止め、ゆるしあい、和解を実現すること。しかし依然としてそれは私たちにとって最も困難なことの一つであり続けています。

 

 和解は私たち一人ひとりの願いです。けれども、また同時に、私たちは心のどこかで「和解など不可能だ」と失望してしまっている部分があるかもしれません。憎しみが憎しみを呼ぶ混乱状態の中で、和解の呼びかけなど絵空事でしかない、と。私たちの内には、どこか、和解に向けて対話をしてゆくことをもはやあきらめてしまっている部分があるかもしれません。

 

 

 

神さまの願いによって

 

 では、私たちは完全に失望しきっているかということ、必ずしもそうではないでしょう。多くの時間は沈んだ気持ちでいても、私たちの心は時にかすかな光を感じ取ることがあります。たとえ心が99パーセント失望していたとしても、残り1パーセントは、心のどこかがまだほの明るいことに気づく瞬間があります。真っ暗な部屋の片隅に、一本のろうそくが灯されているのを見出すように、それでもなお、私たちの心は希望を見出すことがあります。

 

 私たちの心は不思議なもので、どんなに自分は絶望したと思っても、それでもなお、完全には絶望しきれていないところがあるようです。それほど私たちはあきらめが悪いのでしょうか、はたまた執念深いのでしょうか……。私たちが完全には絶望しきれないのは、他ならぬ、私たちの内に主ご自身がおられ、祈り続けていてくださるからだと私は信じています。だからこそ私たちは、どれほど失望しようと、完全に失望してしまうことはありません。

 

 私たちの心のもっとも深い所に宿されている和解への願い。それは、私たちの願いであると同時に、神さまご自身の願いでもあります。私たちが疲れ果ててもはや祈ることができなくなっても、私たちの心の中で、神さまは私の為に祈って下さっています。私たちが怒りに我を忘れ隣人を憎んでも、私たちの内で神さまは愛そうとし続けてくださっています。私たち一人ひとりの内には、この神さまの愛が宿されており、この愛を通して、私たちは互いに結び合わされています。

 

 

 

終わりに

 

たとえ私たちが失望の中にあっても、主ご自身は決してあきらめることはなく、私たちの内に消えることのない光を灯し続けてくださるでしょう。私たち一人ひとりの内に主が共にいてくださるからこそ、私たちは和解と平和の実現を向けて、また再び立ち上がることが出来ます。

 

主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりは、いま確かに、私たち一人ひとりの内に宿されています。だからこそ私たちは和解の実現に向かって一歩を踏み出すことができます。

 

どうぞ私たちが主よりこのまことの力を得て、愛と平和の道を歩み続けてゆくことができますように。私たちはいまも、この道の途上にいます。どうぞ私たちがいま再び、和解の実現に向かって、共に新しい一歩を踏み出すことができますように。

 

終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます》(11節)。