2014年5月4日「神の御前で、キリストに結ばれて」

201454日花巻教会説教

聖書箇所:コリントの信徒への手紙二121121

「神の御前で、キリストに結ばれて」

 

 愛の賛歌

 

新約聖書のパウロの言葉の中に、とてもよく知られた、愛についての言葉があります(コリントの信徒への手紙一第13章)。「愛の賛歌」とも呼ばれ、結婚式でも読まれることがある言葉です。《愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。/礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。/不義を喜ばず、真実を喜ぶ。/すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える(コリントの信徒への手紙一1347節)

 

 心に残る表現が使われており、まるで一つの詩のようです。これらの言葉はもともとは、手紙の中に書かれた言葉です。現在のギリシャの南部にあるコリントの教会に向けた手紙の中に、この愛についての言葉は記されています。

 

当時、手紙の宛先であるコリント教会の内にはさまざまな問題が生じていました。教会の内には対立があり、分裂がありました。コリント教会の指導者であるパウロと教会の人々との関係もうまくいっていない部分があったようです。そのような状況の中で、あえて、パウロは愛についての言葉を手紙の中に記した、ということになります。

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。/礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。/不義を喜ばず、真実を喜ぶ。…》、これらパウロの愛についての言葉は、コリント教会の人々に感動を与えるより先に、人々の心に突き刺さる言葉となったのではないかと想像します。手紙の中の愛についての言葉とは正反対の、「一致」が失われている現状が自分たちの教会にはあったからです。パウロはコリント教会が愛から離れた状況にあるからこそ、愛に立ち還り、一致を取り戻してほしいという願いを込めてこの言葉を記したのだということが分かります。

 

 

 

信仰と対立

 

 どうしてコリント教会の内には、対立や争いが生じてしまっていたのでしょうか。同じキリストを信じる信仰をもっているのに、なぜ対立してしまうのでしょうか。理由はいくつも考えられると思いますが、その理由の一つとして、他でもない「信仰」が関わっている事柄だからこそ、衝突してしまうというところがあったのだと思います。信仰が関わっている事柄については私たちはどうしても真剣になり、その分、互いにゆずれない部分が出て来ます。信仰の事柄に関して互いに真剣であるからこそ、対立が深まっていってしまうという側面があるのではないでしょうか。

 

 ではなぜ互いにゆずれない部分が出て来るのかというと、同じイエス・キリストを信じる信仰の中にも、人によってその強調点に「違い」があるからです。「イエス・キリストを主とする」という点では共通していますが、どのような側面を強調するかでは多様性があります。同じイエス・キリストのことを指し示していても、人によって、視点や強調点はさまざまに異なってきます。

 

そのように多様性がある中で、それぞれが自分の指し示すキリストこそを「絶対」だとして主張してゆずらないとき、対立が生じてゆくことになります。現在に至るまでのキリスト教の歴史は、その対立の歴史であったとも言えるでしょう。たとえば、カトリックと、そこから分裂したプロテスタントの対立。またプロテスタントの教会同士の対立。私たちキリスト教会は、無数の対立を繰り返してきました。

 

そのような教会内の衝突は、パウロが生きていた当時から、すでに始まっていたということが分かります。キリスト教の歴史の始まりにおいて、すでに教会の指導者たちの信仰の理解に「違い」があったのです。たとえば12弟子のリーダーであったペトロとパウロとの間には、信仰について視点の違いがありました。ペトロの信仰理解というものは、パウロと比べてよりユダヤ教の伝統的な考え方を強く残しているものでした。指導者たちの見解がそのように一致していないものですから、その教えを受ける諸教会の間にも必然的に考えの不一致が生じてゆくこととなります。ある人々は「パウロにつく」と言い、ある人々は「ペトロにつく」といい、またある人々は別の指導者であった「アポロにつく」と言いました(コリントの信徒への手紙一112節)。コリント教会の内にもそのような対立があったことがパウロの手紙から読み取れます。

 

 

 

「違い」は神さまからの賜物

 

 パウロ自身は、同じ信仰を持っている者同士においてそのような「違い」があることをどのように受け止めていたのでしょうか。パウロは、それら信仰における「違い」は、神さまからの「賜物」であると受け止めていたようです。それぞれが果たすべき固有の役割を神さまから与えられているからこそ、教会には多様性があるのだというのがパウロの基本的な考えでありました。

 

パウロは好んで、教会をイエス・キリストを頭とする《一つの体》と表現することがありました(コリントの信徒への手紙一121231節)パウロがなぜ《一つの体》という表現を好んで用いたのかと言いますと、「多様性がありつつ、一つである」という状態を表現したかったからです。体にはもちろん、頭があり胴体があり、手足があり、内臓があり、という風に多くの部分があります。そうして多くの部分が、それぞれに固有の役割を果たしています。体の各部分に固有の役割があるように、私たち一人ひとりには、神さま(聖霊)からかけがえのない役割が与えているというのがパウロの受け止め方でした。

 

体の各部分は、それぞれが固有の役割を果たしつつ、互いに働きを補い合っています。私たち人間もまた、互いに補完し合う関係性にある。「違いがありつつ、同時に一つである」という状態こそ、教会のまことの姿であるとパウロは受け止めていたようです。その同じ《一つの体》が互いに対立し合っていることの愚かさをパウロは嘆いています。

 

 

 

土台となるもの

 

 私たちが《一つの体》であるために、もっとも大切なものとしてパウロが受け止めていたのが、「愛」でした。先ほどのパウロの愛の賛歌の冒頭部には、次のような言葉があります。《たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。/たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。/全財産を貧しい人人のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない》(コリントの信徒への手紙一1314節)

 

 ここでパウロは、たとえ私たちがどれほどすばらしい賜物をもっていようと、立派な信仰があろうと、愛がなければ無に等しいのだと述べています。言い換えますと、愛とは、私たちの賜物や信仰よりももう一段「深い」ところにあるもの、ということができます。私たちの信仰を支え、その多様性を成り立たせる「土台」の位置にあるものが愛である、ということができるでしょう。

 

 

 

アガペーなる愛

 

パウロが語るこの「愛」とは、ギリシャ語で「アガペー」と言うものです。このアガペーなる愛は、普段私たちが用いている「愛」という言葉とはまた異なった意味をもっています。「好きか嫌いか」「愛しているか否か」という私たちの感情の次元よりさらに「深い」領域を指し示す言葉として、聖書はこの愛という言葉を用いています。

 

このアガペーなる愛は、相手のことが「好きか嫌いか」を超えて、相手の存在そのものを尊重し、大切にするように働くものです。アガペーなる愛とは、「相手の存在をかけがえのないものとして受け止め、大切にしようとする働き」、ということができるでしょう。この働きが土台としてあるとき、私たちは互いの「違い」もまたかけがえのないものとして尊重し合うことができるようになります。

 

 信仰の「違い」で対立してしまうということは、互いに真剣に信仰を突き詰めようとしているからこそでありますが、しかし一方で大切な「土台」を見失っている状態であるということになります。私たちがアガペーなる愛を見失う時、信仰が目の前にあるすべてになり、互いの「違い」を受け止めることができなくなってゆきます。

 

 

 

神の愛

 

アガペーなる愛とは、「相手の存在をかけがえのないものとして受け止め、大切にしようとする働き」であると述べました。聖書が私たちに伝えることは、この世界には、“まことの現実”としてそのような働きがある、ということです。聖書は、それを「神の愛」と呼んでいます。私たちの生きる世界には、私たちの存在をかけがえのないものとして受け止め、大切にしてくださっている神の愛があります。もっとも深い所から、私たちの土台となって私たちを支え、生かして下さっているのがこの神さまの愛です。

 

パウロは、イエス・キリストの十字架を通して、この愛を知らされました。イエス・キリストを通して私たちに示されたもの、それは、いま私たち一人ひとりを無条件に受け入れて下さり、尊重して下さっている神さまの愛です。

 

この愛を否定するような考え方に対してだけは、パウロは厳しい態度で臨みました。私たちを“あるがまま”に受け入れてくださっている神の愛を否定するような考え方に対してだけは、パウロは徹底して対決する姿勢を見せました。

 

 

 

パウロの心配

 

 本日の聖書箇所であるコリントの信徒への手紙二121121節は、先ほどの「愛の賛歌」が記されてから、さらに一年ほど後に書かれた手紙の一節です。パウロはコリント教会の人々に向けて再び手紙を記しました。そのとき教会の状況は良くなっているどころか、さらに悪化していたようです。悲しむべきことに、教会内の対立がさらに激化していたということが、パウロの手紙の前後の言葉から分かります。

 

パウロはコリント教会を実際に訪ねる計画もしていましたが、内心には強い不安、恐れを感じていたようです。132021節《わたしは心配しています。そちらに行ってみると、あなたがたがわたしの期待していたような人たちではなく、わたしの方もあなたがたの期待どおりの者ではない、ということにならないだろうか。争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などがあるのではないだろうか。/再びそちらに行くとき、わたしの神があなたがたの前でわたしに面目を失わせるようなことはなさらないだろうか。以前に罪を犯した多くの人々が、自分たちの行った不潔な行い、みだらな行い、ふしだらな行いを悔い改めずにいるのを、わたしは嘆き悲しむことになるのではないだろうか》……。

 

 パウロはここで、《争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動》などの心配のリストを挙げています。パウロは一年前の手紙で、「愛はねたまない」と書きました。いまコリント教会には、その愛とは正反対の現状があるのではないか、とパウロは心配していました。パウロはしかし、勇気を出して、そして祈りを込めて、手紙を書き記しました。コリント教会の人々に、神さまの愛を想い起こしてもらうためです。

 

 

 

愛に根ざして

 

その後、コリント教会はどうなったのでしょうか。事実として私たちに知らされているのは、このパウロの手紙をきっかけとして、コリント教会は再び「一致」の方向へ向かって行った、ということです。コリント教会は深刻な分裂を乗り越え、パウロとコリント教会の関係も回復されていきました。このような幸福な事例というのは、教会の歴史においてはむしろ稀なことかもしれません。

 

パウロは19節に、このような言葉を記しています。1219節《あなたがたは、わたしたちがあなたがたに対し自己弁護をしているのだと、これまでずっと思ってきたのです。わたしたちは神の御前で、キリストに結ばれて語っています。愛する人たち、すべてはあなたがたを造り上げるためなのです》。

 

パウロは自分の言葉は、《神の御前で、キリストに結ばれて》語っているものだ、と記しています。これは言い換えれば、自分は「神の愛に根ざして語っている」ということです。だからこそそのパウロの言葉はコリント教会の人々の心を動かし、人々のまなざしを神さまの愛へと向け変え、教会を再び「一致」の方向へ導いて行ったのでしょう。

 

 

 

まことの「一致」とは

 

まことの「一致」とは、すべてがまったく同一にされてしまうことではありません。そうではなく、私たちの間には「違い」がありつつ、同時に、「一つ」に結び合わされているというのが、私たちのまことの一致の姿なのだと信じています。

 

このまことの一致が実現されてゆくためには、何より、一人ひとりの存在の尊厳が見出されなければなりません。私たち一人ひとりには神さまから与えられた尊厳があり、かけがえのない固有の働きがあるのだということ。それは何者によっても侵害されてはならない神聖なものであるということ。この神さまからの尊厳と、聖霊による役割分担に、より私たちの心を開いてゆくことが求められています。

 

私たちキリスト教会はこれまで、無数の争いを繰り返してきました。それぞれが自分の信仰に忠実であろうとするあまり、互いを受入れることができず対立し合い、無数の血と涙が流されてきました。それぞれが真剣であったからこそ、懸命に生きていたからこそ、互いに傷つけあってしまったのだとも思います。神さまはそのような私たちを、それでもなお、“あるがまま”に受け入れて下さり、愛して下さっています。どうぞいま、この神さまの愛に立ち還りたいと願います。

 

私たち教会が、もはや互いに対立し合うのではなく、互いの存在に神さまからの尊厳を見出し、互いの働きにかけがえのない役割分担を見出すこと。その歩みへ向っての一歩を、共に進めてゆきたいと願います。

 

私たちの信仰も、賜物も、他ならぬ、神さまの愛から生じているものです。すべてはこの愛から生じ、すべてはこの愛に根ざし、すべてはこの愛へと向かって行っています。

それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である(コリントの信徒への手紙一1313節)