2014年6月1日「福音の初め」

201461日花巻教会説教

聖書箇所:マルコによる福音書11

「福音の初め」

 

 

最初の福音書

 

本日から、マルコによる福音書をごいっしょに読んでゆきます。

 

新約聖書の中に福音書は四つあります。マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書の四つですが、マルコによる福音書はこれら四つの福音書の中でいちばん最初に書かれたものであると考えられます。

 

それまでは、福音書というもの自体が存在していませんでした。教会の中では弟子たちが書き送った手紙や主イエスの語録集のようなものが読まれていたようです。または、イエス・キリストのご生涯についての断片的な伝承が、口伝えで伝えられていました。それら教会に伝わる断片を結び合わせ、一つの「物語」に初めてまとめたのが、マルコによる福音書です。主イエスの言葉やエピソードを一つの物語にまとめることによって、生前の主イエスのお姿が活き活きと、読む私たちの目の前に立ち現れることとなりました。

 

著者マルコが、どのような人物であったか資料は残されておらず、いまの私たちには伺い知ることができません。

 

 

 

世代が移り変わる中で

 

著者であるマルコが福音書を記したのは、イエスさまが亡くなられてから40年ほどの後のことです。イエスさまの死後すぐに記されたわけではないのですね。40年たてば、生前のイエスさまに直接会ったことがある弟子も少なくなっていたことと思います。教会に集う人々の世代も様変わりし、第二世代、第三世代が教会の中心メンバーとなっていたことでしょう。

 

世代交代しつつある教会は、当時、どのような状態にあったでしょうか。イエスさまがキリストであり、神の子であるという信仰は、よりはっきりと確立されていたようです。と同時に、かつてその神の御子が地上に人として生きておられたことへの実感は、希薄になっていってしまった側面があるようです。

 

私たちの社会でも、偉業を成し遂げた人物が、その死後にどんどん伝説化されてゆく、ということはあると思います。その人の偉業が誇張されてゆくと同時に、一人の生身の人間としての実態からは離れてゆくことがあるでしょう。

 

原始キリスト教会の中でも、イエス・キリストが信仰され、神の子として高みに挙げられてゆくと同時に、一人の人間として生きられたお姿は見失われてゆくということが起こっていたようです。新しい世代の人々にとっては、神の御子がかつて地上に人として生きておられたということは、確かに実感しづらい事柄であったでしょう。またそこにどのような意味があったのか、理解できずにいた人々もいたことでしょう。

 

実際、当時の教会の中には、主イエスは地上に肉体をもって生きておられたのではなく、「幻」として人々の前に現れ関わっておられたのだ、という考え方をする人々も出てきていました。マルコはおそらくこのような状況に危機感を抱き、福音書というまったく新しいかたちの書を記したのだと考えられます。一人の人間として生きて、そして死なれた主イエスのお姿を教会に取り戻そうという明確な意図をもって、マルコは福音書を記しました。

 

 

 

 

マルコによる革新

 

マルコが福音書に記したのは主イエスのご生涯全体ではなく、ガリラヤの地で伝道を開始した後の、生涯の最期の数年間です。その数年間にしぼって物語を書いているわけですが、終着点としてあるのは十字架の死です。マルコは物語のクライマックスに、この主イエスの十字架の死を置いています。

 

現代の私たちにとっては、イエス・キリストの十字架をクライマックスに置くことは当然のように思えますが、当時はこの構成自体が、革新的であったと考えられます。復活の場面ではなく、十字架の死の場面がクライマックスとされているマルコによる福音書は、当時、読んだ人々に大きな衝撃を与えたことと思います。

 

当時教会の多くの人が抱いていた主イエスのイメージは、栄光に光り輝く復活の主のお姿でした。その輝きの光の中に、十字架の上で亡くなられた主のお姿は埋もれ見えづらくなってもいました。そのような状況の中、マルコは、十字架の上で悲惨な死を遂げられた主イエスのお姿を鮮烈に描き出しました。この十字架の場面を読んだ人々は、ひっくり返るような衝撃を覚えたのではないかと思います。高きにいます栄光の主イエスが、突如、悲惨な死を遂げられた主イエスとして、目の前に現れたからです。

 

 十字架の主イエスは、読む者に語りかけられます。「わたしはここにいる。ここに福音がある」と――。

 

 

 

題名

 

 マルコによる福音書は、次の一行から始まります。11節《神の子イエス・キリストの福音の初め》。

 

この1節はマルコによる福音書を本文の一行目というよりは、福音書全体のタイトルとして記されていると考えられています。マルコは題名として、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と記しているようです。題名であるとすると、マルコによる福音書全体の内容を、端的に指し示しているということになります。

 

この一文を、「神の子」と「イエス・キリストの福音」とその「初め」とに分けて、一つずつ見てゆきたいと思います。

 

 

 

「神の子」

 

まず「神の子」という言葉ですが、イエス・キリストが「神の子」であるというのは、現代の日本を生きる私たちにとっては、必ずしも「当たり前」のことではありません。学校で習う世界史の教科書には、イエス・キリストは一人の「歴史的人物」として出て来ます。当然のことながら、「神の子」として登場するわけではありません。イエス・キリストを神の子として受け止めるには、信仰が関わってきます。ここに大きな一つの飛躍があるということができるでしょう。

 

対して、マルコによる福音書が描かれた当時の読者にとって、イエス・キリストが神の子であるというのは当然のことでした。読者となる人々はすでに信仰をもってイエス・キリストを受け止めていたからです。当時のクリスチャンたちにとっては、むしろイエス・キリストが「歴史的人物」でもあったということが、必ずしも「当たり前」とことではありませんでした。さきほど述べましたように、神の御子がかつて肉体をもって生きておられたことをなかなか実感できない人々もいたからです。主イエスが「歴史的人物」として受け止めること、ここに、一つの飛躍が必要とされました。

 

現在の私たちとマルコによる福音書が描かれた当時の人々とは、逆の状況にあったということができるでしょう。

 

少しマルコによる福音書が描かれた当時の人々の気持ちになって、改めてこの1節を見てみたらどうなるでしょうか。《神の子イエス・キリストの福音の初め》。当時の人々にとって、もっとも当然の言葉として目に入るのが、「神の子」という言葉であったでしょう。

 

けれども、福音書を読み進める中で、その「当たり前」であると思っていたことが揺り動かされてゆくこととなります。神の子イエス・キリストではなく、歴史的人物としてのイエス・キリストが物語の前面に出て来るからです。そしてその人間イエス・キリストは、物語の最後には、十字架の上で悲惨な死を遂げます。この十字架の場面を目にした当時の人々は、「神の子」という言葉の意味がひっくり返され、まったく新しくされるような経験をしたのではないかと思います。

 

そうしてまったく新しい意味を持ち始めた「神の子」という言葉から、次の御言葉が響いてくるようになりました。旧約聖書のイザヤ書の預言の言葉です。《乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。/見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。/彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。/彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。/彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに…》(イザヤ書5324節)

 

十字架におかかりになった主イエスは、マルコによる福音書を読む者に語りかけられます。「わたしはここにいる。あなたと共にいる。ここに福音がある」――。

 

当時、クリスチャンに対する差別や迫害がより厳しくなりつつある状態にあったようです。この十字架におかかりなった主イエスのお姿は、迫害や様々な困難の中にある教会の人々に大いなる慰めと力を与えたことでしょう。人々は、自分たちの悲惨さや困難のただ中にこそ、いま十字架の主が共におられ、固く結びついてくださっていることを知らされました。

 

 

 

「イエス・キリストの福音」

 

1節の中で、次に記されているのが「イエス・キリストの福音」という言葉です。マルコによる福音書は、イエス・キリストの福音を指し示している書であり、であるからこそこの書は「福音書」と呼ばれています。

 

「福音」は「よい知らせ」という意味をもつ言葉ですが、福音という言葉をどう受け止めるかは人それぞれ違いがあるでしょう。四つの福音書においても、その表現の仕方に強調点の違いがあります。マルコが指し示したかった福音とは、「十字架におかかりなった主イエス」に実現されている福音でした。福音という本来言葉にしえない大いなる出来事を、あえてこの一点にしぼって記しているということもできます。

 

復活され栄光に満ちている主イエスのお姿にではなく、あえて悲惨な死を遂げられた十字架の主イエスのお姿にまなざしを集中させることによって、そこに実現されている「よい知らせ」をはっきりと指し示すことができたのです。

 

マルコにとっての福音とは、低さのただ中に現されている「よい知らせ」です。天の高みにではなく、私たちが生きる現実のただ中に、生活の真ん中に実現されている福音を指し示している、ということができるでしょう。私たちが高みに昇ってより立派な人間になれば主イエスに出会えるのではなく、私たちは現実のただ中で、自らのあるがままの弱さや無力さの中で、主イエスに出会います。

 

このマルコのメッセージは、これまで礼拝でご一緒に読んできましたパウロの手紙のメッセージともつながりをもっているということができるでしょう。

 

 

 

その「初め」

 

そして最後に、福音の「初め」という言葉。日本語訳では一文の最後に記されていますが、原文のギリシャ語では、この「初め」という言葉が冒頭に記されています。

 

「初め」と記されているからと言って、私たちの世界に福音が存在しなかった時があった、ということではありません。福音は天地創造の初めから働き続けてくださっている神の力です。ただし、私たち人間の歴史において、福音の力がはっきりと現れ出た時があります。

 

その「初め」時が、神の御子がこの地上に人間として生きておられた時です。ガリラヤで多くの人々に神の国を告げ知らせた時。社会から尊厳を奪われていた大勢の人々のところに赴き、励まし、癒して回られた時です。そして十字架におかかりになり、悲惨な死を遂げられた、その時です。その時、神さまの福音の力が、はっきりと私たちに指し示されました。

 

この福音の力は低さの中にこそ働き、私たち一人ひとりに神さまからの尊厳を確保してくださるものです。マルコによる福音書は、この福音の力を証言している書です。

 

 

 

福音の源泉

 

 ある人は、この「初め」という言葉を、「源」と訳しています(岩波訳)。「イエス・キリストの福音の源」。確かに、マルコによる福音書が証言する主イエスのお姿は、私たちにとって福音の源泉であり続けています。

 

この源に立ち還る時、私たちもまた、イエス・キリスト御自身と出会います。かつて弟子たちが、ガリラヤ湖のほとりで主イエスに出会い、弟子として招かれたように。福音の源泉に立ち還る時、私たちもまた、主イエスご自身と再び出会います。ガリラヤの風と共に、主イエスの声が私たちの耳に届いてきます。

 

「わたしはここにいる。ここに福音がある」――。

 

福音の源にたたずむ私たちに、いま、神の子イエス・キリストご自身が出会ってくださっていることを信じています。

 

どうぞ私たち一人ひとりの心にいま福音の力が湧き出で、再び立ち上がり、歩み出してゆく力が与えられますように。