2014年6月15日「道を備えよ、主が来られる」

2014615日花巻教会説教

聖書箇所:マルコによる福音書128

「道を備えよ、主が来られる」

 

 

洗礼者ヨハネ

 

本日の聖書箇所には、洗礼者ヨハネという人が登場します。イエス・キリストが公の活動を開始するより前に、ヨルダン川にて「悔い改めの洗礼」を授ける活動をしていた人です。45節《洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。/ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた》。

 

ここでヨハネが行っていた「洗礼」とは、川の中に全身を沈める、というやり方でした。「洗礼を授ける」と訳されている語は、もともとのギリシャ語では「水に浸す」という意味をもっています。よってある方は原語のニュアンスを尊重して「洗礼」とは訳さず、「浸礼」と訳しています(佐藤研先生)。ケセン語訳聖書を記した山浦玄嗣先生は、「お水潜り」というユニークな訳し方をしています。山浦先生の訳では、洗礼者ヨハネは「お水潜らせのヨハネ」となります。面白いですね!

 

キリスト教会はこのヨハネの「お水潜り」の儀式を受け継ぎつつ、そこに新しい意味合いを込めて行ったのだということができます。洗礼を受けてクリスチャンになるという意味合いです。ヨハネの洗礼にはそのような意味はありませんので、ここでは一度、教会で使う「洗礼」とは切り離して、この言葉を受け止めていただければと思います。区別する意図も含め、山浦先生の訳にならって、ここでの洗礼は「お水潜り」と呼びたいと思います。

 

ちなみに、教会で行われる洗礼はだんだんとそのかたちも変わってゆき、全身を水に浸すのではなく水を頭に注ぎかける「滴礼」が行われることが多くなってゆきました。私たち花巻教会が属するバプテスト教会は、いまも全身を水に浸す「全浸礼」を行っていますが、それは宗教改革以後、教会の原点に立ち還ろうという機運の中で再び自覚的に取り入れられたものです。

 

 

 

死と再生の儀式

 

 さて、ヨハネの「お水潜り」ですが、ではヨハネはどのような意味合いを込めてこの儀式を行っていたのでしょうか……。

 

 ヨハネは、一種の「死と再生」の儀式としてこの儀式を行っていたのだと考えることができます。日本でも「胎内くぐり」と呼ばれる死と再生の儀式があります。狭い岩間や洞窟をくぐり抜け、死と再生を疑似体験するというものです。ヨハネの「お水潜り」も同様に、川の中に身を沈めることで、古い自分が一度死に、新しい自分として生まれるという意味が込められていたと考えられます。

 

全身を川の中に沈めると、当然息が出来なくて苦しくなります。その苦しさの中で、古い自分が一度死ぬ。水の中から上がった自分は、新しく生まれ出た自分であるとされたのでしょう。ショック療法的といいますか、過激といえば過激な儀式です。でもこの儀式が当時、ユダヤの人々の間で流行になったようです。イスラエルの各地から、大勢の人がこの「お水潜り」を体験しようとヨハネのもとに集まって来ました。一種の社会現象となっていたのですね。

 

社会現象となったということは、そこに何らかの背景があるということになります。それが支持されるような状況が、当時のユダヤの社会にはあったのでしょう。当時、ユダヤの人々の間には閉塞感のようなものが覆っていました。閉塞感の大きな要因としては、ローマ帝国によって統治され、ユダヤの国家としての主権が長らく侵害された状況にあったことが挙げられるでしょう。そのような中で、ユダヤ民族の独立を実現してくれるメシア(救い主)の待望の機運が高まってもいました。抑圧された状況を打破してくれるような存在を、人々は求めていた。また、ある人々はこの世界の終わりが近いという終末観を抱いていたようです。そのような、何か社会が閉塞感に包まれた状況の中で、ヨハネの活動は熱烈な支持をもって迎えられたのだと言えるでしょう。

 

 

 

ヨハネの問い

 

集ってきた人々に対して、ヨハネが求めたのは「罪の告白」でした。今まで自分が犯してきた過ちを神さまの前で率直に認め、受け入れること、です。すぐに全身を水に浸かる「お水潜り」を体験させてもらえるわけではなかったようです。むしろ、自分の過ちを率直に求めることこそが重要なこととして求められました。

 

集ってきた人々に対して、ヨハネは問いを投げかけ返しました。「あなたの人生の中で、やるべきではないのに、してしまった過ちとは何か?あなたの人生の中で、やるべきであったのに、してこなかった過ちとは何か?」――。ヨハネの問いかけの前で、人々は、自分の人生を総括することを求められました。ヨハネのもとに集ってきた人々は、ヨハネの鋭い問いとまなざしにたじろいでしまった人もいたことでしょう。

 

 

 

心の向きが変わる

 

 自らの過ちを認めることは、私たちにとって苦しい作業です。大変難しい作業でもあります。過ちを率直に認めることができたとき、私たちは新しい一歩を歩み始めることができます。過ちを認めてそれで終わってしまうのではありません。

 

私たちは、やるべきではないことをこれまでにしてしまったのだとしたら、これからは、その過ちを二度と繰り返さないようにすることができます。やるべきことをこれまでしてこなかった過ちがあるのだとしたら、これからは、そのやるべきことを果たしてゆくようにすることができます。

 

4節では、ヨハネの「お水潜り」は《悔い改めの洗礼》と言われていますが。《悔い改め》と訳されている語はもともとのギリシャ語では「メタノイア」と言い、第一義として「向きが変わること」を意味する言葉です。ここでヨハネが目指したことは、人々の心が「未来」へと向き変ることでした。

 

それは、過去を「水を流す」ということではありません。過去をはっきりと受け止めた、過ちを過ちとして認めた上で、それを未来へとつなげてゆくということです。心が、過去から未来へと向き変るということ。ヨハネの「お水潜り」はそれを象徴する儀式であったということができるでしょう。

 

 

 

道を備えよ、主が来られる

 

ヨハネから「お水潜り」を受けた人々は、自らの内に新しく引き起こされた変化に、深い感動を覚えた人もいたことと思います。一部の人々はヨハネこそが「メシア(救い主)」ではないかと思ったようです。そのようなうわさも拡がっていきました。しかしヨハネ自身はそのことをはっきりと否定しました。自分は救い主ではない。自分より後に、まことの救い主が来られるのだ、と。78節《彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。/わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」》

 

 ヨハネが果たした役割とは、あくまで、人々の心を未来へと向け変えることでした。そしてそれは、これから来られるまことの救い主に心を向けることへとつながっていました。マルコによる福音書は、その冒頭でヨハネの役割を次のように表現しています。23節《預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。/荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」》。

 

これからイエス・キリストによって示される神の道を人々が受け入れることができるように、準備する役割をヨハネは担っていたのでした。

 

 

 

荒れ野で叫ぶ声

 

 以上、洗礼者ヨハネという人物について述べてきました。洗礼者ヨハネはもちろん実在の人物でありますが、また同時に、私たち一人ひとりの心の中にも、この預言者の声はいまもこだましているということができるでしょう。それは、私たち一人ひとりの心の内にある「良心の声」です。

 

私たち一人ひとりの内には、この良心の声が存在しています。常に存在しているけれども、覆い隠されていることも多いものです。私たちが忙しさやまた楽しみに心を奪われているとき、この良心の声に耳をふさいでしまっています。

 

3節ではこの声は、預言書の言葉を引用して《荒れ野で叫ぶ声》と言われています。《荒れ野》という語は、原語のギリシャ語では「孤独」という意味もあわせもっています。私たちは独りになって自分自身を見つめ直してみたとき、この良心の声に出会います。良心の声は私たちの心の荒れ野から、私たちに向かって問いを投げかけ続けています。「あなたの人生の中で、やるべきではないのに、してしまった過ちとは何か?あなたの人生の中で、やるべきであったのに、してこなかった過ちとは何か?」――。

 

 

 

福島第一原子力発電所事故

 

東日本大震災から33か月がたちました。大震災と福島第一原子力発電所の事故は、私たち日本に生きる者を、この根本的な問いの前に引き戻しました。「わたしたちの今までの人生の中で、やるべきではないのに、してしまった過ちとは何か?わたしたちの人生の中で、やるべきであったのに、してこなかった過ちとは何か?」――。

 

原子力発電所については、今までわたしたち日本に生きる者の多くは、考えるべきことを考えてこなかった過ちを犯しました。向かい合うべきことに向かい合ってきませんでした。無知であり、無関心であり、無責任であり続けた。私自身、事故が起きるまでの数年間、東京で生活し、東京電力の電気を消費していたにも関わらず、福島で稼働している原発の影響について、原発が福島の人々に強いている犠牲について、考えたこともありませんでした。原発事故により、自身の過ちがはっきりと浮き彫りになりました。

 

そうして自ら過ちが浮き彫りになったにも関わらず、けれどもこの3年間、私自身、自らの過ちに誠実に向かい合うことができてきたのかというと、心もとないものを感じます。

 

先週の9日から11日にかけて、福島県の若松栄町教会を会場にして行われた日本基督教団の部落解放全国者会議に参加してきました。この集いにおいて、福島に生きる人々の声を聴く機会が与えられました。この3年間、多くの人々が放射能の被害によって苦しんでいるにも関わらず、自分はその声に積極的に耳を傾けようとしてこなかったことを思いました。

 

 

 

過ちを繰り返さないように

 

 自身の反省を踏まえ、私がいま強く思っていますのは、これからは、その過ちを二度と繰り返さないようにしたいということです。やるべきではないことをこれまでにしてしまったのだとしたら、これからは、その過ちを繰り返さないようにしたい。やるべきことをこれまでしてこなかった過ちがあるのだとしたら、これからは、そのやるべきことを果たしてゆくようにしたい。

 

《荒れ野で叫ぶ声》の問いかけを前に、一人のキリスト者として、この決意をいま新たにしたいと思っています。これからはもっと積極的に放射能の被害で苦しむ人々の声に耳を傾け、共にこの問題に取り組んでゆきたい。また原発の廃止に向けて、一人のキリスト者として、自分がなすべきこと、できることをしてゆきたいと思っています。

 

 私たちには、共に取り組むべき課題もあれば、それぞれが個々に取り組むべき人生の課題もあります。私たちはいま、ユダヤの人々が洗礼者ヨハネの前に立たされたように、それぞれが、自らの内の《荒れ野で叫ぶ声》の問いかけに答えてゆくことが求められているのではないでしょうか。

 

 

 

神さまご自身の声

 

《荒れ野で叫ぶ者の声》とは、神の声ではありません。あくまで私たち人間の内にある「良心の声」です。この声は、私たちに自らの過ちに直面することを求めます。と同時に、私たちを後悔の中に座り込むことはさせず、未来へと心を向け変えます。明日に向かって、私たちのまなざしを向け変えます。

 

そうして向き直った私たちのまなざしの目の前におられるのが、神の御子イエス・キリストその方です。イエス・キリストが語ってくださる言葉とは、私たち人間の声ではなく、神さまご自身の声です。イエス・キリストは私たちに神さまのまことの想いを伝えてくださっています。

 

神さまの言葉の中には、もはや、私たちを責める言葉は一つもありません。私たちの過ちについて裁く言葉も、いっさいありません。ただ、「私たち一人ひとりの存在がいかに尊いか」、そのことのみを、神さまは私たちに語りかけておられます。「あなたという存在がどれほどかけがえなく大切であるか。あなたという存在をいかに愛しているか」。そのことのみを、神さまはイエス・キリストを通して、私たちに語り続けてくださっています。

 

神さまの愛の中では、私たち一人ひとりが、かけがえのないものとして尊重されています。そこに例外はありません。すべてのものが等しく、大切にされています。神さまから私たち一人ひとりに与えられているこの尊厳は本来、何者も奪うことはゆるされていません。イエス・キリストは地上を生きておられたとき、この神さまの愛をはっきりと目に見えるかたちで私たちに示してくださいました。私たちが互いをまことに大切にしあうことができるための道を、私たちに示してくださいました。

 

 

 

神さまの愛を土台として

 

 私たちの内なる「良心の声」は、この神さまの愛をこそ土台としているものです。神さまご自身が、私たち一人ひとりがいかに大切かを語って下さっているからこそ、私たちの良心はその尊厳がないがしろにされている社会の現実に対して、怒りの声を発することができます。神さまから与えられている尊厳が傷つけられている状況に対して、「否」と言うことができます。愛がなければ、《荒れ野で叫ぶ者の声》もそもそも存在し得ないものです。

 

かつてヨハネは語りました。8節《わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる》。これは別の表現で訳し直せば、「わたしは水の中にあなたたちを沈めたが、その方は聖霊の中にあなたたちを沈めてくださる」となります。

 

洗礼者ヨハネは私たちを良心の深みへと沈めてくれましたが、イエス・キリストはそれよりもさらに深みにある神さまの愛へと私たちを沈めてくださいました。私たちがその愛の中に全身が抱かれ、包まれ、決してその愛から離れない者となるようにしてくださいました。ヨハネはその大いなる恵みを、「聖霊による洗礼」と呼びました。

 

私たち一人ひとりはいま、この愛に固く結ばれています。どうぞ私たちが神さまの愛に深く根ざし、そこからまことの力を得て、再び自分の生きる場へと押し出されてゆくことができますように。この世界に神さまの御国と正義が実現してゆくため、共に働いてゆくことができますようにと願います。