2014年6月22日「あなたはわたしの愛する子」

2014622日花巻教会説教

聖書箇所:マルコによる福音書1911

「あなたはわたしの愛する子」

 

 

主イエスの登場

 

本日の聖書箇所は、主イエス・キリストが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられる場面です。また、マルコによる福音書において、主イエスが初めて登場される場面でもあります。

 

マルコによる福音書には、主イエスが母マリアから誕生した場面は記されていません。クリスマスの物語は記されてはおらず、成人された主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられる場面から、突然のように、物語は始まります。9節《そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた》。

 

それまで、主イエスはイスラエルの北部に位置するガリラヤ地方の、ナザレという村で暮らしておられました。家の仕事を手伝う、一人の青年として暮らしておられたようです。ある日、そのナザレの村に、洗礼者ヨハネという人物のうわさが伝わって来たのでしょう。ヨルダン川で、「悔い改めの洗礼」という不思議な儀式を行っている人物についてのうわさがナザレの村にも届いてきました。

 

洗礼者ヨハネの洗礼とは、川の中に全身を沈める、というやり方でした。今までの自分の人生を見つめ直し、新しく心の向きを変えるための儀式です。一種の「死と再生」の儀式であったということができます。洗礼を受けてクリスチャンになるという意味合いは、ヨハネの洗礼にはまだありません。当時、このヨハネによる洗礼は、ユダヤの一部の人々の間で熱烈に支持されていたようです。

 

主イエスはガリラヤを出て、洗礼者ヨハネのもとへ向かわれました。主イエスがどのようなことをお考えになってヨハネのもとに向かわれたのか、福音書には記されてはおりません。記されているのは、主イエスが故郷ガリラヤのナザレを出て、洗礼者ヨハネのもとに来られたということ。そして、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた、という事実のみです。

 

このとき、主イエスは30歳くらいであったと言われています。

 

 

 

主イエスの受洗

 

 洗礼者ヨハネは、自分の洗礼はこれから来られる救い主のための準備をするものだ、と受け止めていました。その救い主がいよいよヨハネのもとに訪れるということになるのですが、なぜ主イエスがヨハネから洗礼を受けなければならなかったのか、私たちは不思議にも思います。

 

それは、マルコによる福音書が書かれた当時の読者であった人々にとっても同様であったでしょう。神の子であるイエス・キリストが、なぜ人々と同じように、ヨハネから洗礼を受けねばらないのか。福音書を読み始めて早くも、この場面にとまどう人もいたことでしょう。

 

 マルコによる福音書は、一番最初に書かれた福音書です。神の子である主イエス・キリストを、この地上を生きられた、一人の人間として記した最初の福音書です。この洗礼の場面においても、主イエスは一人の人間として、悔い改めの洗礼をお受けになられたのだ、ということができるでしょう。

 

 当時、自らの内の「良心の声」に敏感であった人々の多くが、ヨハネから洗礼を受けたようです。主イエスも、一人の人間としてなさねばならないこととしてヨハネの洗礼を受け止め、自らヨハネのもとに赴かれたのかもしれません。この時点までは、あくまで主イエスはナザレ出身の一人の人間として生きておられました。

 

 

 

 

 

神の子の宣言

 

 主イエスは大勢の中の一人として、ヨハネの指導のもとに全身をヨルダン川の中に沈めました。すべてが変わったのは、水の中から上がられた時です。主イエスが水の中から上がられたその瞬間、天が裂けて、神の霊が鳩のように降った、と福音書は記しています。

 

1011節《水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、ご覧になった。/すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた》。

 

この時、まったく新しいことが起こりました。神さまご自身から、このナザレのイエスは「わたしの愛する子」、神の独り子であるという宣言がなされたのです。

 

 ただし、福音書の文章を改めて読んでみますと、この宣言はその場にいたヨハネや大勢のユダヤの人々に向けてなされたのではなく、主イエスお一人に対してなされたのだ、ということが分かります。天が裂けて聖霊が鳩のように降って来るのを見、天の声を聴いたのは、主イエスお一人でありました。はたから見ると、やはりひとりの男性がヨハネから洗礼を受けただけの出来事にしか見えなかったかもしれません。水の中から上がってしばらく立ち尽くしている主イエスを、不思議そうに見ていた人もいたかもしれません。

 

 主イエスご自身は、このとき、「自分が何者であるか」、はっきり理解されました。自分は「神の子、キリストである」とはっきり理解されました。けれどもそれを周りの人々に言うことはなく、ただその事実を自分の胸の内にだけ納められたようです。

 

 

 

神の子の「誕生」

 

これが、マルコによる福音書における、神の子イエス・キリストの「誕生」の場面です。なぜマルコによる福音書には母マリアからの誕生の場面が記されていないか、その理由がここで明らかになります。ナザレ出身の一人の青年が、神の子キリストとして新しく「誕生した」場面として、マルコによる福音書はこの場面を位置づけているからです。

 

 この洗礼の場面は、新しく生まれ出た我が子に、神さまが「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と、いとおしそうに語りかけている場面としても読むことができます。

 

 神さまの霊は「鳩」のイメージで表現されていますが、親鳥の鳩が翼で雛を覆うように、神さまがその愛で我が子を覆っているイメージ(詩編914節)をそこに読み取ることもできます。親鳥が翼で雛を覆うように、神さまはわが子を慈しんでいます。

 

 少し話が逸れるかもしれませんが、この神の子イエス・キリストの「誕生」の場面において、女性的・母親的な表現が多く見られるのが印象的です。父親というよりも、むしろ母親のイメージをもって、主イエスに対する神さまの愛が表現されています。教会では伝統的に神さまを「父なる神」と呼びますが、聖書には、神さまについて、女性的・母親的な表現もたくさん出て来ます。マルコによる福音書には主イエスの母マリアからの誕生の場面はありませんが、この神の子の「誕生」の場面において、神さまご自身が女性・母のイメージで表現されているというのも、心に留めておくべきことと思います。

 

 

 

神の子の「誕生」と十字架の「死」

 

さて、この神の子イエス・キリストの「誕生」の場面と、密接に重なり合うものとして記されている場面がマルコによる福音書にはあります。それは、イエス・キリストが十字架の上でお亡くなりになる場面です。

 

153739節《イエスは大声を出して息を引き取られた。/すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。/百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った》。

 

「誕生」の場面の次に、等々に「死」の場面が登場して戸惑われた方もいらっしゃるかもしれませんが、マルコによる福音書では、この「誕生」と「死」が密接に重なり合うものとして描かれています。具体的に、三つの共通点をもって、これら二つの場面が記されています。

 

まず、主イエスは十字架の上で大声を出して息を引き取られますが、この吐き出された「息」は、「聖霊」とつながる言葉です。主イエスが吐き出された「息」と、鳩のように降って来た「霊」とが対応しています。

 

また、神殿の垂れ幕が真っ二つに「裂けた」と記されていますが、これは先ほどの洗礼の場面において天が「裂けた」ことと対応しています。

 

そして、百人隊長の「本当に、この人は神の子だった」という宣言は、神さまの「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という宣言と対応しています。

 

ヨハネから洗礼を受けたとき、主イエスはご自分が「神の子」であることを御自身の胸の内に納められましたが、ここではローマの百人隊長にとって、ナザレ出身の一人の人間が、本当に「神の子」であったことが公に告白されます。この瞬間、すべての人に、主イエスが救い主であり神の子であることが宣言されることとなりました。

 

そしてそれはまた同時に、主イエス・キリストにおいて働いていた神さまの愛が、すべての者に明らかにされた瞬間でありました。神さまと私たちとの間の隔たりが「裂けて」、神さまの愛が私たちの前にはっきりと示されました。

 

 

 

すべてを結ぶ神さまの愛

 

マルコによる福音書においては、主イエスは神の子として「誕生」した瞬間、その向こうに神の子としての「死」もまた透けて見えるように描かれています。主イエスの「誕生」と、主イエスの「死」とは、切り離しがたく密接に結びついています。主イエスがヨハネから洗礼を受けられた後すぐに荒れ野に向かったというのも12節)、これから歩まれる受難の道を象徴しているのかもしれません。

 

けれども、その「誕生」と「死」を結んでいるものは、聖霊であり、神さまの愛であるということを、私たちは忘れてはならないでしょう。主イエスのご生涯のすべてを貫いているのは、神さまの愛です。

 

 

 

「あなたはわたしの愛する子」

 

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」――。かつて主イエスに語られたこの神さまの声を、私たち一人ひとりに語られている声とするため、主イエスはその後の人生を、その十字架の死に至るまで、歩み通してくださったのだ、ということができます。

 

神さまの愛の中で、私たち一人ひとりが、かけがえのない子どもとして大切にされ、尊重されているのだということ。親鳥が翼で雛を覆うように、神さまはその愛で私たちを覆い、守ってくださっているのだということ。私たち一人ひとりの与えられている神さまからの尊厳と光を、何者も奪い去ることはできません。

 

 主イエスはガリラヤで、多くの人のところに自ら赴き、その神さまの愛を伝えてくださいました。病の床にある人の手を握り、周囲から疎外されている人に寄り添い、また人々の尊厳がないがしろにされている現状に対し「否」と言い、そのご生涯の最後の数年間を通して神さまの愛をはっきりと目に見えるようにしてくださいました。そして最後にガリラヤからエルサレムに赴き、その十字架の死を通して、私たちすべての者に神の愛をはっきりと伝える道を開いてくださいました。

 

私たちが主の歩まれたこの道に立ち還るとき、私たちの全身を、神さまの愛が包んでいることを知らされます。どんな暴力も、どんな悪意も、主イエス・キリストによって示されたこの神さまの愛から、私たちを引き離すことはできません(ローマの信徒への手紙839節)

 

たとえ、私たち自身は神さまの愛を信頼することができなくなっても、やはり主イエス・キリストは私たちを離すまいとその手をしっかりと握り続けてくださっているでしょう。親鳥が翼で雛を覆うように、その愛でいつも私たちを覆い、守っていてくださるでしょう。

 

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」――。いま共に、この神さまの愛の中に、私たちの全身をお委ねしたいと思います。どうぞここに集ったお一人お一人の上に、神さまからのまことの平安がもたらされますように。またそして、明日へ向かって再び立ち上がる力がもたらされますことを願います。