2014年6月29日「荒れ野の試み」

2014629日花巻教会説教

聖書箇所:マルコによる福音書11213

 

「荒れ野の試み」

 

 

荒れ野の試み

 

先週は主イエス・キリストが洗礼を洗礼者ヨハネから受けられた場面をごいっしょに読みました。それから「すぐに」、神の霊は主イエスを荒れ野に送り出した、とマルコによる福音書は記します。

 

12節《それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した》。

 

主イエスが送り出された《荒れ野》がどの辺りであったのか、具体的な場所は定かではありません。イスラエルには、死海に向かって拡がる「ユダの荒れ野」と呼ばれる一帯があります。一年中ほとんど雨が降らない砂漠のような地域です。主イエスは洗礼を受けられた後、このユダの荒れ野にいずこかに向かわれたのかもしれません。

 

 主イエスはその荒れ野で、40日間に渡って、サタンから誘惑を受けられたと福音書は記します。13節《イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが使えていた》。

 

 

 

「敵意」に囲まれ

 

「サタン」という存在は聖書に何度も出て来きますが、サタンとはもともとはヘブライ語で、「告発する者」や「敵対する者」という意味です。聖書では、神さまに敵対する存在として、このサタンが登場します。

 

 サタンからの誘惑がどのようなものであったのか、マルコによる福音書は詳しくは記していません。他のマタイによる福音書やルカによる福音書においては、サタンとのやり取りが詳しく記されています。石をパンに変えてみたらどうかというサタンの誘惑を、「人はパンだけで生きるのではない」と主イエスが斥けられる場面はよく知られているものです。マルコによる福音書はそれらやり取りは記しておらず、極めて簡潔に、《イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた》とのみ記しています。

 

ただし、マルコによる福音書は13節の後半に印象的な一文を加えています。《その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが使えていた》。

 

《野獣》というのは野生の動物のことですが、ここでの野生の動物というのは、場合によっては人間に危害を加えるかもしれない存在としてイメージされています。たとえば狼は場合によっては人に襲い掛かるかもしれませんし、マムシは人に噛みついて、体に毒をまわらせてしまうかもしれません。主イエスは荒れ野にて、それら危険な野生の動物といっしょにおられた、とマルコ福音書は記します。《野獣》の存在が記されているのはマルコによる福音書だけです。

 

 ここでの《野獣》とは、一種の象徴的な表現として受け取めることもできます。主イエスを取り囲んでいたのは、《野獣》のイメージに象徴されるような、あらゆる「敵意」であった、と本日は受け止めてみたいと思います。あらゆる「敵意」に囲まれることが、ここでの主イエスの「試練」であったと受け止めてみたいと思います。

 

 

 

敵意に敵意を返さず

 

自分に「敵意」をもつ人物がいたとしたら、私たちはどのような反応をするでしょうか。おそらく、多くの場合、自分に敵意をもつ人物に対して、自分も敵意をもつようになるのではないでしょうか。敵意をもつ人物に対して、自分も激しい敵意をもって返す。

 

敵意というものは、自分の存在を圧迫してくるように感じるものです。そのような敵意に対して、私たちは恐れと怒りを感じます。相手の敵意に対して敵意で返そうとしてしまうのは、私たちの防衛本能からすると、ごく自然のことでもあるかもしれません。一方で、相手もやはり恐れから、自分に敵意をもって向かってきているのかもしれません。そうして互いに強烈に反発し合う関係というものが生じてゆくことになります。その敵対関係はどんどんと強められてゆき、互いを傷つけあうようになってゆきます。

 

 主イエスもここで、あらゆる「敵意」に対して、御自身も敵意をもって返すようにと、サタンから誘惑されたのだとしたらどうでしょうか。

 

しかし、主イエスはその誘いにのることはなさらなかった。敵意に敵意をもって返すことはなさらなかった。むしろ、自分に敵対する存在に対して、和解を呼びかけ続けられました。

 

主イエスは《四十日間》、荒れ野にとどまっておられたと記されていますが、《四十日》というのは「非常に長い時間」を象徴する表現です。主イエスは長きに渡って忍耐強く和解を呼びかけ続けられ、そうしてその長い闘いの末、《荒れ野》に平和を実現されました。もはや《野獣》たちと敵対関係になることはなくなった(イザヤ書11110節)。その和解の精神の象徴として登場しているのが「天使たち」です。《その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが使えていた》。主イエスは長い忍耐の末に、サタンの試みに打ち勝たれました。

 

 

 

私たちの間の《荒れ野》

 

主イエスがサタンと出会った《荒れ野》という場所について改めて考えてみますと、この《荒れ野》という場所も、一つの象徴として受け止めることができると思います。

 

《荒れ野》とは、敵意に満ちている場所、そうして互いの関係が断絶されてしまっている場所、それが《荒れ野》であると本日は受け止めてみたいと思います。そして《荒れ野》を棲み家として、私たち人間が互いに敵対しあうようにと働きかけている力が、「サタン」です。

 

 そう思いますと、《荒れ野》とは、私たちの日々の生活のどこにでも、出現し得る場所であるということができます。私たちが互いに敵意をもって相対してしまうとき、そこに《荒れ野》は出現します。

 

 原語のギリシャ語では、《荒れ野》という語には、「孤独」という意味もあります。私たちが互いに敵対しあうとき、そこに生じるのは関係性の分断であり、孤独です。

 

 現在の私たちの社会を見てみますと、いかに数多くの《荒れ野》が出現してしまっていることでしょうか。互いに敵意をもち、関係が分断されてしまっている状態が数多くあります。個人と個人において、団体と団体において、国家と国家において……。残念ながら、世界中のあらゆるところに《荒れ野》が出現しているというのが、いまの私たちの社会の現状でありましょう。

 

 

 

敵意を滅ぼし

 

 エフェソの信徒への手紙21416節に次のような言葉があります。《実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、/規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、/十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました》。

 

ここでは「敵意」ということが大きな問題として語られています。《敵意という隔ての壁》という印象的な言葉が使われていますが、私たちを隔てているのは他ならぬ、私たちの内の「敵意」であると言われています。この御言葉の背景には、具体的には、律法をもつユダヤ人キリスト者と律法をもたない異邦人のキリスト者の断絶があります。「律法」の有無ということが重大問題としてあるわけですが、けれどもそれ以上に、私たちの内にある「敵意」こそが、断絶を生む根本的な事柄であると指摘されています。

 

 敵意というものは私たちの内から生じ、いつしか私たちを拘束し、支配していってしまうものでもあります。気づかないうちに私たち自身が自らの内の敵意に支配されてゆく。敵意が自分を動かす原動力になってゆき、敵対すること自体が目的であるかのようになってゆきます。

 

 先ほど引用しました御言葉は、イエス・キリストは十字架によって、私たちの敵意を滅ぼしてくださったと語ります。主イエスは私たちを支配するこの敵意を、滅ぼしてくださいました。そして敵意ではなく、もっとも大切な事柄を私たちに示してくださいました。

 

それは、神の愛です。

 

私たちの内にある「敵意」よりもっと確かなもの、何よりも由って立つべき力あるもの、それは神さまの愛です。私たちが中心におくべきまことの力は敵意ではなく、神さまの愛であることをイエス・キリストは示してくださいました。

 

 

 

神さまの愛を土台として

 

 主イエスは《荒れ野》に向かわれる前、洗礼者ヨハネから洗礼を受けました。その時、天から《あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者》という声が聞こえた、と福音書に記されています。主イエスはこの神さまの愛を御自分の根本に据え、その上で、《荒れ野》に向かわれました。主イエスが《荒れ野》にてサタンの試みに打ち勝つことができたのも、この神さまの愛が土台としてあったからです。

 

敵意に対して敵意をもって返すのではなく、暴力に対して暴力をもって返すのでもない。私たち一人ひとりをかけがえのない存在として尊んでくださっている神さまの愛を根底に据えること。主イエスは私たちに、平和へと至るためのその道筋をはっきりと示してくださいました。ご自分が実際にその道を歩むことによって、その道を切り開いてくださいました。

 

 

 

《荒れ野》に道が敷かれ

 

 マルコによる福音書の冒頭に、次の預言者イザヤの言葉が記されています。《見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。/荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』》123節)

 

 その預言者の言葉のとおり、主イエス・キリストは、私たちに愛と平和(コリントの信徒への手紙二1311節)の道を示してくださいました。いまや、私たちの《荒れ野》にはその主の道がまっすぐに敷かれています。敵意に敵意を返さず、憎しみに憎しみを返さず、暴力に暴力を返さない。私たちが互いをまことに大切にするための道が、いま私たちの足元には敷かれています。

 

 

 

主の道を共に歩もう

 

 愛と平和が私たちの間に現実に実現されてゆくのには、いまだ長い時間がかかるかもしれません。《荒れ野》に一面花が咲く(イザヤ書3512節)のはまだ先のことかもしれません。主イエスご自身もかつて《荒れ野》にて、長い時間をかけた闘いを経験されました。主イエスは長い闘いを経て、そこで、まことの平和を実現してくださいました。「敵意」を滅ぼし、神の愛による平和を実現してくださいました。私たちは、主イエスによって示されたこの神の愛の力を、信じています。私たちがこの力に信頼を置き、忍耐強く歩む時、その足元に神の国が少しずつ花咲いてゆくことでしょう。

 

 最後に、預言者イザヤの言葉をもう一つ、お読みいたします。イザヤ書225節《終わりの日に 主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい/多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから 御言葉はエルサレムから出る。/主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。/ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう》。

 

 私たちはもはや、剣によって戦うことは学ばない。一人ひとりをかけがえのない存在として愛された主イエスのお姿にこそ学び、主が歩まれたその和解の道を、共に歩んでゆきたいと願います。