2014年6月8日「聖霊によって、故郷の言葉で」

201468日花巻教会説教

聖書箇所:使徒言行録2113

 

「聖霊によって、故郷の言葉で」

 

 

ペンテコステの出来事

 

 本日は、ペンテコステを覚えてごいっしょに礼拝をささげています。ペンテコステは聖霊降臨日とも言われます。イエス・キリストの復活の後、弟子たちの上に聖霊が降った出来事を記念するものです。お読みしました使徒言行録2113節は、そのペンテコステの出来事について記している箇所です。

 

 イエス・キリストが十字架におかかりなってからちょうど50日目のこと、エルサレムの街はユダヤ教の祭りである五旬祭が行われ、賑わいを見せていました。五旬祭はユダヤ教の大切な三大祭りの一つで、この祭りの時期には各地から大勢の巡礼者が集まります。先日は山形市で東北六魂祭が開かれましたが、そのように、大勢の人が集う活気とにぎわいがエルサレムを覆っていました。

 

 このような、大勢の人が集まった状況のまっただ中に、ペンテコステの出来事は起こりました。14節《五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、/突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。/そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。/すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした》。

 

 弟子たちや主イエスの母マリヤたちが一つになって集まっていると、突然、激しい《風》が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、《炎のような舌》が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまりまった、と聖書は記しています。この場面を描いた絵として、よく知られたエル・グレコの絵があります。その絵では、母マリヤや弟子たち一人一人の頭の上に、小さな炎のようなものが描かれています。この炎のような、舌のような不思議なものが、聖霊が降ったことのしるしです。

 

聖霊が降った弟子たちは、他の国々の言葉で話し出した、と聖書は記しています。弟子たちの多くはイスラエルのガリラヤ出身でしたので、そのガリラヤ地域の言葉ではない言葉を話し出した、ということになります。

 

 

 

自分の故郷の言葉が

 

このような出来事がすぐ近くで突然起こったら、当然、周囲の人々はびっくりするでしょう。この物音に、「何事か」と道行く大勢の人が集まってきました。

 

513節《さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、/この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。/人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。/どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。/わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、/フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、/ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」/人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。/しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた》。

 

集まって来た大勢のユダヤ教徒の人々は、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまいました。お読みしました御言葉の中にはさまざまな地名が出てきていますが、これは当時知られていた国々のリストである、ということができます。いわば、全世界の国々のリストです。全世界から集まって来ていたユダヤの人々はそこで、それぞれが自分の故郷の言葉を聴きました。私たちが遠い外国のお祭りに参加したとして、そこで日本語が聴こえてきたら、確かに「あれっ」と思うでしょう。そこにいる人は皆、あくまで現地の人であるのに、その話す言葉が日本語として聴こえてきたとしたら、さらに驚くでしょう。

 

 

 

伝わる言葉

 

 改めてペンテコステの出来事を振り返ってみますと、この出来事においては「言葉」ということが大切な要素となっているということが分かります。人々が驚くべき出来事として受け止めたのは、《風》が吹いてくる音がしたり《炎のような舌》が現れたという不思議な現象についてではなく、そこで《自分の故郷の言葉が話されている》ということについてでした。

 

 ただしこの場面を、聖霊によって弟子たちが瞬時に外国語をマスターできた(!)のだ、と受け止める必要は必ずしもないでしょう。《自分の故郷の言葉》とは、言い換えれば、「自分に伝わる言葉」であったということです。弟子たちが語る言葉が、聖霊を通して、集まった人それぞれに「伝わる言葉」となった、というところが重要な点であると思います。

 

 

 

自分に向けて語られた言葉

 

「伝わる言葉」というものは、必ずしも雄弁な言葉であるとは限りません。たとえ片言であっても、たどたどしい話し方であっても、「伝わる言葉」というものがあります。ペンテコステの出来事においてユダヤの人々が聴こえてきた《故郷の言葉》も、必ずしも流暢な言葉ではなかったかもしれません。しかし、その言葉は確かに「伝わる言葉」となりました。なぜでしょうか……?

 

それは、その言葉が他ならぬ、「その人に向けて」語られた言葉であったからでしょう。大勢に向けて語りかけられた言葉と、この自分に向けて語りかけられた言葉とでは、私たちはまったく受け止め方が違ってきます。大勢の中の一人として聴いている言葉は私たちの耳を右から左へと素通りしてゆくことも多いですが、自分に向って語られた言葉には私たちは敏感に反応し、じっと聴き耳を立てます。ペンテコステの出来事においても、大勢の人々がそこにはいました。大勢の人で賑わっている中で、けれども他ならぬこの自分に向って語りかけられる言葉を聴いたので、人々はハッと驚いたのだということができるでしょう。

 

 神さまの言葉というものは、本来そのようなものであると思います。不特定多数の人々に向けて語られている言葉ではなく、「この私に向かって」語られている言葉、それが神さまからの言葉です。

 

 

 

聖霊のお働きによって

 

 ただし、たとえば説教というものも、実際には、そこに集う複数の方々に向けて語られているものです。目に見える出来事としては、ただ一人の人に限定して語られているわけではありません。また、私たちが読んでいる聖書もそうです。聖書にはさまざまな手紙が含まれていますが、それらは実際には私たちに向けて出された手紙ではありません。2000年近く前に、使徒たちがコリントやローマにある教会に向けて出した手紙です。けれども私たちは、聖書の言葉を、自分に語られている神さまの言葉として受け止めることがあります。説教の言葉を、この自分に語られた言葉として受け止めることがあります。なぜそうすることができるのでしょうか……?

 

ここで重要な働きをしてくださっているのが、聖霊なる主です。元来は私宛の手紙ではない聖書の言葉を、私宛の手紙の言葉として、新しく配達して下さっているのが、聖霊であるということができます。郵便屋さんのように、聖書の言葉を私宛てに配達して下さっているのが、聖霊です。

 

 または、ある人の言葉をこの私に向かって語りかける言葉として通訳して下さっているのが、聖霊であるということもできるでしょう。聖書の言葉を、私たちに伝わる言葉に、新しく通訳して下さっているのが、聖霊です。

 

この聖霊のお働きによって、聖書の言葉は、「この私に向かって」語りかけられる御言葉となります。この聖霊のお働きがないと、聖書の言葉は過去に自分以外の誰かに語られた言葉としかならないでしょう。聖霊は、聖書の言葉を、いまこの私に語りかける御言葉としてくださいます。ペンテコステの出来事は、この聖霊のお働きがはっきりと示された出来事である、ということができます。弟子たちが語る言葉は、聖霊によって、その場に集った人々それぞれにはっきりと「伝わる言葉」として届けられました。

 

 

 

炎のような言葉

 

 この聖霊のお働きを、本日の聖書箇所では、《炎のような舌》として象徴的に表現しています。この《舌》という語は、原文のギリシャ語では、《言葉》という意味ももっている語です。言い換えれば「炎のような言葉」。それが、聖霊のお働きを象徴しているイメージです。

 

《炎のような言葉》と聞いて、どのようなイメージを思い浮かべるでしょうか。たとえば、恋人に向かって自分の想いを打ち明ける様子をイメージする方もおられるかもしれません。または両親が自分を叱ってくれる言葉をイメージするかもしれません。いずれにせよ、自分のことを大切に想って、熱心に語ってくれる言葉が、私たちにとって《炎のような言葉》ということができるかと思います。

 

 聖書の中には、神さまからイスラエルの民への、《炎のような言葉》が数多く記されています。たとえばイザヤ書434節にはこのような言葉があります。《わたしの目にあなたは価高く、貴く わたしはあなたを愛し あなたの身代わりとして人を与え 国々をあなたの魂の代わりとする》。いかにイスラエルの民が神さまにとってかけがえのない大切の存在であるか、ということが語られています。

 

 神さまの言葉とは、「この私に向かって」語られている言葉であり、そしてこの私がいかに「かけがえのない大切な存在であるか」を語って下さっている言葉です。聖霊は私たち一人一人に、この神さまの「炎のような言葉」を届けてくださっています。だからこそその言葉は私たちに「伝わる言葉」となり、私たちの心はその言葉に出会うことによって、熱く燃え始めます(ルカによる福音書2432節)

 

 

 

ただ一言を伝えるために

 

 神さまの言葉とは、突き詰めて言うと、「わたしは、あなたを、愛しています」という一言です。ただこの一言を私たちに伝えるため、イエス・キリストは私たちのもとに来てくださり、十字架におかかりなってくださいました。そして三日目に、死より復活してくださいました。

 

この一言を私たちに伝えるために、聖霊はペンテコステの出来事において、弟子たちのもとに降ってくださいました。この一言を伝えるのには、多くの言葉も、優れた語学力も必要とはされないでしょう。ただこの一言をすべての人々に伝えるために教会が誕生し、聖霊の導きのもと、世界中に広がってゆきました。そしていま、私たちのもとに、この一言が伝えられています。

 

「わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」――。

 

ペンテコステを記念する今日、聖霊なる主がいま私たちに伝えてくださっている神さまの言葉に、共に耳を傾けたいと思います。