2014年7月13日「弟子への召し」

2014713日花巻教会説教

 

聖書箇所:マルコによる福音書11620

「弟子への召し」

 

 

ガリラヤ湖

 

本日の聖書箇所は、イスラエルの北部にあるガリラヤ湖が舞台です。ガリラヤ湖は、世界で最も低い位置にある淡水湖であるそうで、海抜マイナス210メートルの位置にあります。湖の周りは盛り上がった丘陵地帯になっており、丘の上にある町から見ると、ガリラヤ湖はさらに低い位置にあるように見えます。ガリラヤ湖は、丘陵に挟まれた谷間に位置しているのですね。

 

私はガリラヤ湖を実際に訪ねたことはまだありません。ぜひ一度行ってみたいと思いますが、写真などで見ますと、何だか懐かしいような気持になります。太陽の光に輝く水面、水面を進む小舟。遠くに見える山々……。その美しい風景は、まるで私たちすべての者の原風景のようです。

 

ガリラヤ湖は、上空から見ると楽器の竪琴(ハープ)のようなかたちをしています。その大きさは南北に21キロメートル、東西に13キロメートルで、湖のまわりに町が点在しています。福音書の舞台となるカファルナウムやマグダラ、ベトサイダなどはみな湖のすぐ近くに位置する町です。人々は舟にのって、町から町へ移動することができました。

 

ガリラヤ湖には多くの魚が棲んでおり、漁業もさかんです。本日登場するシモン・ペトロと兄弟アンドレは、このガリラヤ湖で漁業を営む漁師でした。

 

 

 

 初めての出会い

 

本日の聖書箇所は、主イエスがこのガリラヤ湖のほとりを歩いておられる場面から始まります。ガリラヤ湖の北部に位置するベトサイダの町がおそらくその舞台であると思われます。主イエスは丘を下って、湖のほとりを歩いておられました。

 

16節《イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった》。

 

その時、主イエスは波打ち際で網を打っているシモンと兄弟アンデレの姿を御覧になりました。シモンというのは後のペトロのことです。これが、主イエスとペトロたちとの初めての出会いでした。

 

ペトロたちが行っていた網の打ち方というのは、おそらく湖に向かって網を投げるやり方であったのではないかと考えられます。周囲に重りがついた網は水の底に沈み、付近に泳いでいる魚を中に招き入れながら、岸辺に引き上げられます。主イエスはペトロとアンデレが湖に向かってちょうど網を投げる瞬間を御覧になったのでしょう。

 

主イエスは二人に近づいてゆかれ、そしておっしゃいました。17節《イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた》。

 

 

突然の言葉

 

突然の言葉です。まさにいま漁をしようとしている二人に向かって、主イエスは「わたしについて来なさい」とおっしゃいました。「ちょっと用事があるから来てください」ということではなく、今までの人生に区切りをつけて、私について来なさい、というのです。初対面の相手に向かって、いきなり大きな決断を迫る言葉を、主イエスは投げかけられました。まるで網を投げ入れて魚を捕らえるように、主イエスはペトロとアンデレに向かって言葉を投げかけられました。

 

 主イエスがここで二人を招き入れようとしていたその場所とは、「神の国」です。主イエスはペトロとアンデレを神の国に招き入れようとしてされ、そうして、二人もまた人々を神の国に招き入れるために働く者としようとなさいました。「人間をとる漁師にしよう」という言葉には、「いまあなたたちが網を投げ、魚を網の中に招き入れようとしたように、これからは、人々を神の国に招き入れる漁師にしよう」というメッセージが込められています。

 

 

 

 神の国

 

先週の礼拝で、主イエスの「神の国の宣言」の言葉をごいっしょに読みました。1415節《ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、/「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた》。

 

 ここでの「神の国」とは、「私たち一人ひとりに神さまからの尊厳が与えられている場」のことです。時が満ちて、神の国がいままさに私たちの足元に到来していると主イエスは宣言されました。

 

 神の国においては、すべての人が等しく、尊厳を与えられています。一人ひとりがかけがえのない存在として守られ、その生命と尊厳が大切にされる場が、神の国です。

 

 主イエスによるその神の国の到来の宣言の直後に記されているのが、本日の出来事です。神の国の宣言と弟子への召しは、密接に結びついているのだということが分かります。神の国とは私たち人間の働きを通してこそ、実現されてゆくものであると受け止めることができます。

 

 

 

 主イエスの「後ろ」に

 

ここで一つ注目したいのは、主イエスの《わたしについて来なさい》という招きの言葉です。この言葉を原文に即して訳し直しますと、「わたしの後ろについて来なさい」となります。原文では、「後ろに」という言葉が入っているのですね。主イエスに従うとは、主イエスの「後ろに」つき従うことであることが示されています。

 

主イエスの「後ろ」を歩むとは、言い換えますと、主が宣べ伝えられた神の国を第一とする(マタイによる福音書633節)ということです。自分自身の利益を求めることが第一とするのではなく、一人ひとりの生命と尊厳が確保されることを第一とすること。それが神の国を第一とすることであり、主イエスの歩まれるその「後ろ」に従って歩んでゆくということです。

 

神の国は私たち人間の働きを通してこそ実現されてゆくものでありますが、と同時に、主イエスの「後ろ」を歩むことによって初めて、実現されてゆくものとなります。私たちが自分の都合や利益を第一としてしまう時、私たちは知らずしらず主イエスの歩まれる「前に」出てしまい(マルコによる福音書833節)、神の国の実現を妨げてしまっていることとなります。

 

 

 

網を残して

 

《わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう》――。この主の呼びかけに、ペトロとアンデレはまっすぐに応えました。18節《二人はすぐに網を捨てて従った》。

 

主イエスの招きの言葉に従って、主イエスの「後ろ」を歩む生き方へとその一歩を踏み出しました。

 

普通の小説なら、この決意に至る二人の戸惑いや葛藤などを描くことと思いますが、マルコによる福音書は二人の内面はいっさい記しません。簡潔に「二人はすぐに網を捨てて従った」とだけ記します。漁師にとってなくてはならない網をその場に残し、今までの生活を断ち切って、ペトロとアンデレは主イエスの「後ろ」に従っていったことが記されています。

 

 

新しい出発

 

1920節《また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、/すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った》。

 

主イエスとペトロとアンデレは湖のほとりを進んでゆき、今度は、ゼベダイの息子のヤコブとヨハネに出会います。二人は漁を終えて、舟の中で網の手入れをしているところでした。次の日の漁に備えて、入念に手入れをしていたことでしょう。

 

舟があり、雇人たちがいるということは、ヤコブとヨハネはペトロ兄弟よりは経済的に豊かであったことが伺われます。しかしその分、その経済的な豊かさを手放して主イエスの「後ろ」に従うことは、大きな決断が伴うことでしょう。

 

また、ここで二人は父親のゼベダイといっしょでした。ヤコブとヨハネは、父ゼベダイにとって大切な跡取りであったことでしょう。主イエスに従うということは、この父親の期待に背いてしまうということです。もしかしたら、これが二人にとって最も辛いことであるかもしれません。

 

そのような二人に、主イエスは呼びかけました。《わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう》――。

 

この言葉を受けて、二人がどのように感じたのか。やはりマルコによる福音書は二人の内面については記しません。おそらく二人が感じたであろうためらいや葛藤は一切記さず、ただ、《この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った》と結果だけを記します。

 

 ここでも注目したいのは、「後に」という言葉です。二人は、主イエスの「後ろ」につき従ってゆきました。二人にとって優先したいことはさまざまあったことでしょう。けれども二人は主イエスの招きにまっすぐに応え、神の国を第一とする生き方へとその第一歩を踏み出してゆきました。

 

こうして、ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネは主イエスの弟子となりました。4人にとってそれは、人々を神の国に招き入れる漁師になるための新しい出発となりました。

 

 

 

 「わたしの後ろについて来なさい」

 

 本日はペトロたちの弟子への召しの物語をごいっしょに読みましたが、主イエスの招きの言葉は過去のある時に語られた言葉であるではなく、いまを生きる私たちにも語られているものであるということができるでしょう。

 

「わたしの後ろについて来なさい」――。

 

それは必ずしも、私たちが現在取り組んでいる事柄をすべて放棄せよ、ということを意味しているわけではありません。この呼びかけの中でもっとも重要であるのは、「神の国を第一とせよ」ということです。

 

主イエスの「後ろ」につき従って歩むとは、神の国を第一とする歩みをなしてゆくということです。自分の都合や利益を優先するのではなく、一人ひとりの生命と尊厳を第一とすること。その生き方へと姿勢を転換してゆくようにと、私たちは呼びかけられています。

 

私たちが現在取り組んでいるさまざまな事柄の根底に、神の国を「土台」として据えてゆくことが、いま求められています。そのようにして初めて、私たちは自分たちがなすことにまことの責任をもってゆくことができるのだと思います。

 

 ガリラヤ湖のほとりに佇むように、いま私たちは自分の心の原点に立ち還り、改めて主の招きの言葉に耳を澄ましたいと思います。

「わたしの後ろについて来なさい」――。

 主の歩まれる「後ろ」につき従い、一人ひとりの尊厳を大切にする歩みへと、共に新しい一歩を踏み出してゆきたいと願います。