2014年7月20日「権威ある新しい教え」

2014720日花巻教会説教

 

聖書箇所:マルコによる福音書12128

「権威ある新しい教え」

 

 

 

権威ある教え

 

先週は主イエスがペトロたちを弟子にした場面をごいっしょにお読みしました。主イエスと弟子たちの一行はその後、カファルナウムという町へ向かいました。

 

カファルナウムはイスラエルの北部、ガリラヤ湖のすぐ近くにある町です。主イエスは以後、このカファルナウムを御自分の活動の拠点とされることになります。2122節《一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。/人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである》。

 

主イエスはカファルナウムに到着されると、まっすぐに会堂に向かわれました。会堂は共同体の中心であり、人々が頻繁に集まる公の集会所です。安息日には祈りがささげられ、聖書の言葉が読まれていました。

 

主イエスはまず町の中心地であるこの会堂に向かわれ、そこで教え始められました。集っていた人々は、主イエスの教えに非常に驚いた、とマルコ福音書は記します。主イエスが《律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったから》です。

 

先ほど、会堂において聖書の言葉が読まれていたと述べましたが、そこで聖書の教えを説く役割を担っていたのが律法学者と呼ばれる人々でした。律法の言葉に熟知している、聖書の専門家です。律法学者たちの教えというのは、「聖書にはこう書いてあります」という解説が主であったと思われます。

 

対して、主イエスの教えというのは、何かの解説ではありませんでした。発した言葉が現実を動かし、その言葉のとおりのことが実現してゆく。いわば、言葉と出来事が一体となっている。そのことに、人々は非常に驚いたようです。

 

その一例として、続く23節から主イエスによる「悪霊祓い」のエピソードが記されています。《汚れた霊》――言い換えると「悪霊」――に対して主イエスが「出て行け」と言うと、その言葉のとおり、《汚れた霊》は出て行きました。言葉と出来事が一体となった主イエスの教えを目の当たりにした人々は、「権威ある教え」が現れたと驚いたのでした。

 

マルコによる福音書によりますと、これが、主イエスが人々の前で最初に行われた奇跡です。

 

 

 

神の国に基づく権威

 

では、主イエスのこの権威はどこから生じているものあったでしょうか。それは、「神の国」の権威によります。

 

主イエスは11415節でこのように宣言されています。《ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、/「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた》。主イエスご自身が宣言されこの「神の国」に、主イエスの権威は基づいています。

 

 ここでの「神の国」とは、「私たち一人ひとりに、神さまからの尊厳が与えられている場」のことが言われています。一人ひとりがかけがえのない存在として守られ、その生命と尊厳が大切にされる場が、神の国です。時が満ち、神の国がいままさに私たちの足元に到来しようとしている、と主イエスは宣言されました。

 

 

 

神の国の到来と《汚れた霊》

 

 主イエスのこのお言葉のとおり、神の国の到来はいまや現実になろうとしていました。安息日であるその日、カファルナウムの会堂に集っていた人々は、神の国の到来という大いなる出来事に立ち会うことになります。

 

 ただし、この神の国の到来を前に、その場にいることが耐えられない存在があったようです。それが《汚れた霊》と呼ばれる存在です。

 

マルコによる福音書が記す《汚れた霊》の正体が何であったか、具体的に特定することは困難ですが、神の国の到来に耐え得ない存在が、ここで《汚れた霊》と呼ばれているのだと受け止めることができます。

 

改めて、23節以下の《汚れた霊》のエピソードを見てみましょう。2326節《そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。/「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、/汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った》。

 

この場面を読んで、映画の『エクソシスト』を思い浮かべた方もいらっしゃるかもしれません。いわゆる「悪霊祓い」というのは今日のキリスト教会ではあまり見られなくなりましたが、古代の教会では一般的なものであったようです。ただし、古代において「悪霊」に取りつかれているとみなされた症状というのは、そのほとんどがおそらく現代の医学の見地から言うと精神的な病にあたるものであったと考えられます。けれども稀に、現在の科学や医学的な見地からしても、説明が難しいような事例もあった。本日のマルコによる福音書に記されているのもそのような例外的な事例であるということができます。

 

では《汚れた霊》とは、どのような存在であるのか。一つはっきりしているのは、それが「私たちの主体性を奪おうとしている」力である、ということです。《汚れた霊》に「取りつかれている」ということは、その人の「主体性が奪われてしまっている」ということです。私たちの主体性を奪い、私たちを支配しようとしている何らかの力が、ここで《汚れた霊》と呼ばれているのだと受け止めることができるでしょう。

 

 

 

《汚れた霊》による主体性のはく奪

 

《汚れた霊》と呼ばれる力は、人々に取りつき、支配し、そうして人々の主体性を奪おうとします。その人がその人らしく生きてゆくことができないように。自分の意思でもって、自分の人生を決めてゆくことが出来ないように。そのような主体性が奪われた状態というのは、私たちにとって、もっとも辛いことのひとつです。その状態においては、神さまが私たちに与えてくださっている尊厳がないがしろにされています。

 

《汚れた霊》の問題は、いまの私たちの社会が抱える問題ともつながっている事柄であるということができます。私たちの社会にはいまも、尊厳をないがしろにされた中で、苦しみながら生きている人が数多くいます。《汚れた霊》と呼ぶことができるような否定的な力の影響下に、いまも多くの人がさらされているというのが私たちの現実なのではないでしょうか。

 

 

 

「神の国」による主体性の回復

 

主イエスの宣言された神の国は、私たち一人ひとりに再び主体性を取り戻そうと働いてくださっているものです。私たちが自分の意志をもって、自分がどう生きるかを選び決めてゆくことができるように。私たちが自分らしさを大切にし、活き活きと生きてゆくことができるように。一人ひとりに神さまからの尊厳が確保される場を造りだしてゆくことが、主イエスの願ってくださっていることです。

 

このように、《汚れた霊》と「神の国」とは、目指すところがまったく正反対です。ですので、《汚れた霊》と神の国とは、本質的に相容れないのです。

 

 

 

「ナザレのイエス、かまわないでくれ」

 

ある人の主体性を無理やり奪おうとする力が《汚れた霊》の働きであるとすると、一方で、私たち自身もまた、その力を奮う側になってしまう可能性を常にもっているということができます。私たちは気が付くと、他者を自分の都合の良いように支配しようとする自分自身を見出すことがあるのではないでしょうか。そのとき、私たちは知らずしらず《汚れた霊》の働きに加担していることになります。またそして、私たちの生きる社会の自体が、《汚れた霊》の働きに加担する構造を造りだしてしまっている部分も見過ごすことはできないでしょう。

 

神の国の到来を前に、《汚れた霊》はたまらず叫び始めました。《「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」》。

 

私たち自身の内にも、もしかしたら、神の国の到来を避けようとする想いが潜んでいるかもしれません。

 

 

 

「黙れ。この人から出て行け」

 

 主イエスは私たちのこのような想いに対して、はっきりと「否」を唱えられました。2526《イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、/汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った》。

 

 主イエスは、私たちが他者の尊厳をないがしろにすることを、決しておゆるしになりません。はっきりとそれに「否」を唱えられています。《汚れた霊》の働きと「神の国」の働きは、本質的に共存できません。

 

主イエスは、私たち一人ひとりが《汚れた霊》の力から解放され、まことの意味で自由になることを願っておられます。私たち一人ひとりが自分の人生を主体的に、活き活きと生きてゆくことこそ、主イエスが願ってくださっていることです。

 

 

 

新しい教え

 

《汚れた霊》が主イエスの言葉のとおり出て行ったことを目の当たりにして、会堂に集っていた人々は驚いて論じ合いました。2728節《人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聞く。」/イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった》。

 

 人々は、主イエスの教えを《権威ある新しい教え》と呼びました。主イエスの教えに、《権威》と、そして《新しさ》を感じ取ったのです。

 

主イエスの教えの「権威」は、「出て行け」という主イエスの言葉のとおりに悪霊が出て行ったところに現れています。その権威は、今まで述べてきましたように、神の国の権威に由来しています。

 

 さらに、主イエスの教えは、「新しい」ものとして人々に受け取られました。「一人ひとりが主体的に、尊厳をもって生きてゆくことができるように」という神の国の福音は、当たり前のようでいて、私たちにとっていまも新しいものです。それは、私たちが心のどこかで、私たち人間にとって根本的なこの願いを、あきらめてしまっているからかもしれません、それが実現されない現状の中に、自分の身を委ねてしまっているからかもしれません。

 

 

 

希望のともしび

 

 その日、会堂に集っていた人々もまた、「生きる」ということに、どこか諦めをもっていたのかもしれません。けれども、主イエスがお示しなった「新しい教え」を目の当たりにして、人々は座り込んでいた自分の魂が、再び立ち上がらされるような感動を覚えたのではないかと思います。「自分たちにとって大切な事柄が、再び、自分たちに取り戻されようとしている」――。何が起こったのかいまだよく分からぬ驚きの中で、しかし人々はそのことを直感したのではないでしょうか。主イエスの評判は《たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった》と福音書は記します。主イエスの評判は人から人へ、瞬く間に伝えられていきました。

 

「一人ひとりが主体的に、尊厳をもって生きてゆくことができるように」という、当たり前であるけれども埋もれてしまっていた願いが、「現実に実現しなければならない」当たり前の願いとして、再び、人々の心にともり始めたのです。

 

本日の出来事が、共同体の中心である会堂でなされたということにも、意味深いものを感じます。町の中心に、いまや、神の国の希望のともしびがともされました。このともしびはかつてカファルナウムの町にともされ、そしていま、私たち一人ひとりの心の内にともされています。主イエスがともしてくださったこの火は途絶えることなく、いまも私たちの内に確かに燃え続けています。

 

 主がともしてくださった希望のともしびを胸に、神の国の実現に向かって、共に新しい一歩を踏み出してゆきたいと願います。