2014年7月27日「そばに行き、手を取って」

2014727日花巻教会説教

聖書箇所:マルコによる福音書12934

「そばに行き、手を取って」

 

 

 

「癒し」の出来事

 

新約聖書の福音書の中には、多くの「癒し」の出来事が出て来ます。病気で苦しむ人々がイエス・キリストに出会い、その力を通して病いが癒されるという出来事です。

 

現在を生きる私たちは、この「癒し」の出来事をどう受け止めたらよいでしょうか。現代の科学の見地からしても説明の難しいこれら「奇跡」を、どのように受けとめればよいのか戸惑いを覚えている方もいらっしゃることと思います。

 

お読みしました聖書箇所は、マルコによる福音書の中に記される最初の「癒し」の出来事です。弟子となったシモン・ペトロのしゅうとめに対して、主イエスは最初の「癒し」を行われました。本日はこの「癒し」の出来事を通して、私たちが聴き取るべきメッセージに、ごいっしょに耳を傾けてゆきたいと思います。

 

 

 

ペトロのしゅうとめ

 

2931節《すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。/シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした》。

 

 物語は、主イエスと弟子たちの一行がシモンとアンデレの家に行くところから始まります。シモンは後にペトロと呼ばれ、12弟子の中でリーダーの役割を果たすようになる人物です。アンデレはペトロの兄弟です。この二人の兄弟の家に主イエスの一行は向かいました。

 

 家に着いてみると、ペトロのしゅうとめが熱を出し床に臥せていました。迎える側であるペトロとアンデレは内心、慌てたかもしれません。敬愛する先生を我が家にお招きしたのに、いざ家に着いてみると何のおもてなしもできない状態であったからです。

 

 古代イスラエル社会では、客人を「もてなす」ということは、とても大切な徳目の一つであったようです。家を訪ねてくれた客人に対して、できる限りの精一杯の「おもてなし」をする、というのが古代イスラエル社会のルールでした。良く冷えた一杯の水を差し出し、足を洗う水を差し出し、そして上等な食事を差し出し(創世記1818節)……。これはおそらく大昔の遊牧民生活時代からの伝統であると思いますが、そのようにして、イスラエルの人々は互いに支え合いながら生活をしていました。

 

 ペトロの家はそのとき、その重要な「おもてなし」ができない状態にありました。母親が高熱を出して床に臥せていたからです。敬愛する先生に何のもてなしもできずペトロ兄弟は恐縮したかも知れませんが、そのとき最も恥じ入っていたのはおそらく熱を出している本人であったでしょう。息子たちの先生が来てくださったのに、自分は何のもてなしもできない。もてなしがしたくても、いまは体が動かない。何の役にも立てない自分自身に恥じ入りながら、家の奥の方で横になっていたのではないでしょうか。

 

 

 

自分を恥じ、責める想い

 

 私たちもそれぞれ、ペトロのしゅうとめと似たような経験をしたことがあることと思います。役に立つことがしたくても、さまざまな事情によって、それをすることができない。無力な自分を恥じ、責めた経験を私たちはそれぞれもっていることと思います。

 

 そのようなとき、私たちは自分自身を責めると同時に、周りの人々も自分を責めているのではないか、という気持ちに駆られます。何もできない自分を、周りの人々も非難の目で見ているのではないか。シモンとアンデレもついつい、母親を非難の目で見てしまったかもしれません。よりによってなぜこんな肝腎なときに熱を出して寝ているのか、と。本人にとってはどうしようもないことで批判されるというのは、私たちにとって非常に辛いことです。

 

 古代イスラエル社会の常識からしますと、客人を「おもてなし」できない母親は、「役に立つことができない存在」ということになってしまいます。病気で客人をもてなすことが出来ない人というのは、当時、他にもたくさんいたことでしょう。それらの人々は「役に立つことが出来ない」自分を恥じ、責め続けていながら、家の奥の方で生活していたかもしれません。

 

 ペトロとアンデレは母親が熱を出して寝込んでいることを主イエスに伝えます。そこには、おもてなしをすることができない釈明の気持ちも込められていたのではないかと想像します。

 

このことを伝え聞き、主イエスはどうされたでしょうか。主イエスはもてなしがないことを一切とがめられることはなく、驚くべきことに、横になっているしゅうとめの方へ近づいてゆかれました。31節《イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした》。

 

主イエスは横になっているしゅうとめのそばに行き、その手をしっかりと握られました。ペトロ兄弟はびっくりしたことでしょうが、何より、本人がもっともびっくりしたことでしょう。家の奥の方で恥じ入って小さくなっていた自分の方へ、この方は自分から近づいてきてくださった。そして、手をしっかりと握って下さった。

 

 

 

「あなたが、あなたそのもので、在って、よい」

 

この場面には、主イエスの言葉も女性の言葉も記されていません。沈黙の中で、しかし女性は主イエスからのメッセージをはっきりと受け取ったことと思います。

 

それは「あなたが、あなたそのもので、在って、よい」――というメッセージです。

 

病気で横になっていても、おもてなしが出来なくても、いま・ここの“あるがまま”のあなたを、私は大切に想う。握られた手から体と心全体に広がってゆくあたたかさの中で、女性はこの主イエスからのメッセージをはっきりと受け止めました。

 

女性は自分を包むあたたかさの中で、自分の心が深い所から、起き上がってゆくのを感じました。恥と罪悪感の中で死んだようになっていた自分の心が、再び、立ち上がらされてゆくのを感じました。自分は、自分そのものとして、生きていて、「よい」のだということを女性は知らされました。

 

この時、女性のもとに「神の国」が到来しました。

 

 

 

「癒し」と「救い」

 

この「神の国」の到来に伴う出来事として起こったのが「癒し」です。

 

女性は自分の内から力が湧きあがってゆくのを感じ、主イエスが支えてくださるままに、自分の体を起こしました。不思議なことに、今まで自分を苦しめていた病いは癒えていました。この「癒し」は、主イエスが女性を“あるがまま”に受けとめてくださったという出来事をその土台として起こっています。

 

神の国において「癒し」はあくまで付随的なものであり、その目的とするものではありません。神の国は、いま目の前にいる人を“あるがまま”に受け入れようとしてくださる、神の力です。私たちはこの神さまの力にこそ、まことの生きる力を与えられてゆきます。

 

もちろん、当人にとっても周りの人々にとっても、病いが癒されるというのは切実な願いでありましょう。けれども、私たちが「癒し」ということに重点を置きすぎるとき、知らずしらず自分や他者を“あるがまま”に受け入れるということができなくなっている、ということがあります。

 

 主イエスは、父なる神さまがいま・この瞬間の私たちを、“あるがまま”に受け入れてくださっていることを伝えてくださっています。病気が「治る」「治らない」ということを超えて、神さまの目から見て、いまこの瞬間のあなたは、かけがえがなく、貴い(イザヤ書434節)。すべてを含めた、あなたそのものを、神さまは愛して下さっている――。主イエスが告げ知らせてくださったこの神さまからのメッセージこそ、私たちにとっての「救い」です。

 

 私たちの人生においては、もしかしたら病が完全に治るという意味での「癒し」は起こらないこともあるかもしれません。病いと共に生きてゆくことになる方も、たくさんいらっしゃることでしょう。「癒し」が起こる起こらないを超えて、神さまはいまこの瞬間、私たち一人ひとりを、かけがえのない存在として、大切に想っていてくださいます。私は、この私として、生きていって、「よい」のです。この喜びの知らせこそ、わたしたちにまことの生きる力と、勇気を与えます。

 

 

 

神の国の働きに「仕える」

 

主イエスによって起き上がらされた女性は、その後《一同をもてなした》(31節)とマルコ福音書は記します。床から起き上がることができたので、主イエスを早速おもてなしした、ということでしょうが、しかしいまや女性にとって、「おもてなし」の意味が新しくなっていたのではないかと思います。役に立つ働きができる自分だから、神さまが自分を受け入れてくださっているのではない、ということを知らされたからです。自分の価値を認めてもらうために必死になる必要はもはやない。弱さを含めた、“あるがまま”のこのわたしを、神さまは受け止めてくださっていることを、いまや知らされている……。

 

「もてなす」と訳されている語は、原語のギリシャ語では「仕える」という意味があります。人々を「もてなす」ということは、神の国の働きに「仕える」ということです。客人をもてなす行為は、いまや女性にとって、「一人ひとりを大切にする」神の国の働きに「仕える」行為の一環となりました。社会の「役に立つ」「立たない」を超えて、私たちはいま・ここに「いること」を通して、神の国の働きに加わっていきます。

 

 

 

そばに行き、手を取って

 

3234節《夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。/町中の人が、戸口に集まった。/イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである》。

 

夕方になると、主イエスの評判を聞きつけて大勢の人がペトロの家の戸口に集まってきました。それぞれが、病いや悪霊に取りつかれて苦しむ人々を連れてきました。集まった人々の多くは病気が治る意味での「癒し」を求めて来たのでしょうが、しかしその後人々が立ち会ったのは、「癒し」を超えた神の国の到来の出来事でした。病いや悪霊で苦しむ人々は、主イエスを通して“あるがまま”の自分が神さまから受け入れられていることを知り、まことの生きる力を与えられてゆきました。

 

 34節に「いやし」という言葉が出て来ていますが、この語は原語のギリシャ語で「テラペウオー」と言い、その第一義は、「癒す」ではなく、「仕える」です。そのニュアンスを込めて訳し直しますと、「看病する」と表現することができます。

 

 つまり、癒すことがこの場面においての主イエスの行為の第一の目的ではなく、そばに行き、手を取って看病することを、主イエスはしてくださったのだと受け止めることができます。そのことを通して、一人ひとりに神の国のメッセージを告げ知らせるためです。

 

そばに行き手を握り、「あなたが、あなたそのもので、在って、よい」という父なる神さまからのメッセージを伝えること。そうしてその人に、神さまからのまことの力が与えられ、「生きる」方へと再び立ち上がってゆく力が与えられてゆくこと。このことをこそ、主イエスは実現しようとしてくださいました。

 

 私たちもまた、この神の国の力に自らをゆだね、神の国の働きに「仕える」者となってゆきますようにと願います。