2014年7月6日「福音の中で立ち上がれ」

201476日花巻教会説教

聖書箇所:マルコによる福音書11415

「福音の中で立ち上がれ」

 

 

花巻教会創立記念礼拝

 

本日は、花巻教会の創立を記念して、礼拝をささげています。花巻教会は、1908721日に創立されました。今年2014年で創立106周年となります。

 

 いまお読みしました御言葉は、荒れ野からガリラヤへ戻られた主イエスが宣教を開始された際に発された、第一声の言葉です。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。

 

主イエスの宣教は、この言葉から始まりました。私たちキリスト教会の歴史もこの言葉が出発点となっているということができます。教会の働きのもっとも重要なことの一つは、この主イエスの神の国の宣言を伝えることです。花巻教会もこの106年の間、この主イエスの言葉を宣べ伝え続けてきたことと思います。

 

本日は改めて、私たち教会の働きの原点であり、出発点であるこの主イエスの言葉に耳を傾けてみたいと思います。

 

 

 

主イエスの活動の開始

 

1415節をお読みいたします。《ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、/「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた》。

 

 冒頭に、《ヨハネが捕らえられた後》と記されています。ここでのヨハネとは、ヨルダン川で主イエスに洗礼を授けた洗礼者ヨハネのことです。ヨハネは、時の権力者であるヘロデ王の不義を指摘したために、捕えられ牢につながれてしまいました61718節)。不正を不正としてはっきり指摘したために、ヨハネはヘロデから怒りを買い、捕らえられてしまいました。その後、ヨハネはヘロデの策略によって命を奪われることとなります。そのような不穏な状況の中で、主イエスは荒れ野から故郷ガリラヤへ戻り、公の活動を開始されました。

 

 

 

神の国

 

 マルコによる福音書は、ガリラヤへ戻った主イエスの第一声を記します。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」

 

ここに、「神の国」という言葉が出て来ます。「神の国」という言葉を聴いて、皆さんはどのようなイメージを思い浮かべられるでしょうか……?十数年前に、時の首相が日本は「(天皇を中心としている)神の国」という発言をしたことがありましたが、日本で古来より言われている「神の国」という言葉と、ここでの「神の国」とは、同じ言葉であっても内容は異なるものです。

 

時の首相の発言では、日本という国が「神の国」であり、国家に対して格別の位置づけがなされています。対して、主イエスがここで宣べ伝えられた「神の国」とは、ある特定の国家のことを指しているわけではありません。また、何かキリスト教が支配する王国のようなものが想定されているのでもありません。そうではなく、ここでは「私たち一人ひとりに神さまからの尊厳が与えられている場」が、神の国と言われています。

 

時が満ち、その神の国がいままさに私たちの足元に到来している、と主イエスは宣言されました。

 

  

 

国家と個人

 

国家を尊ぶこと、自分の国に誇りをもつことはもちろん、大切なことです。古代イスラエルの人々も、また主イエスに従った弟子たちも、自分たちがイスラエル民族であることに誇りをもっていました。実際、弟子たちの多くはその愛国の想いが強いあまり、主イエスがおっしゃる神の国をイスラエル王国の再興の意味に勘違いしていました1037節)。当時、イスラエルはローマ帝国に従属している状態にありました。自分たちの師である主イエスを、そのローマの従属から解放してくれる政治的な救世主(メシア)であると捉えていたのです。主イエスにつき従った多くの人々は主イエスの真意を理解できず、神の国を国家の単位で捉えていたということになります。

 

主イエスが宣べ伝えようとしていた神の国とは、国家や民族をその主体とするものではありませんでした。主イエスが願っておられたのは、一人ひとりの個人に神さまからの尊厳が確保され、それぞれが活き活きと生きてゆける場が形成されてゆくことでした。主イエスが伝えられた神の国において最も重きが置かれているのは、国家や組織ではなく、一人ひとりの個人です。

 

もちろん、国家がどうでもよいということではありません。ただ、この主イエスの宣べ伝えられた神の国の視点から見ますと、最優先されるべきものは国家ではなく、一人ひとりの個人の生命と尊厳であるということになります。国家や組織はこの個人の尊厳に規定されている存在であり、絶えず相対化され、問い直されてゆくべき存在となります。

 

 イスラエルという民族の名誉の回復と解放より先に、まず第一に主イエスが願われたのは、すべての人間の尊厳の回復とその解放でありました。

 

 

 

一人ひとりの生命と尊厳が最優先

 

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」――。

 

後半に、「悔い改める」という言葉が記されています。日本語で「悔い改める」というと何か「後悔する」というようなニュアンスがありますが、原語がもつ元来の意味は、「向きを変える」ということです。私たちの「心の向きを変える」ことがここで呼びかけられています。

 

 人それぞれ、自分が最優先したいものはあることでしょう。それら自分が大切にしているものがどうでもいい、と言われているのではありません。ただ、神の国の到来の前では、それらは後ろへ引き下がらねばならない、ということです(8章33節)。一人ひとりの生命と尊厳こそが、この神の国においては最も重きを置かれるべきものとなります。一部の人々の利益のために、他者の生命と尊厳を犠牲にすることは、決してゆるされません。一人ひとりの生命と尊厳が最優先されることへと私たちの心の向きをはっきりと変えることが、ここで主ご自身から呼びかけられているのだと受け止めることができます。

 

 

 

何よりもまず、神の国を求めること

 

主イエスは《何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる》ともおっしゃいました(マタイによる福音書633節)。私たちは、何よりもまず、「神の国」を祈り求めるように呼びかけられています。私たちにはそれぞれ異なる考えをもち、それぞれに思想や信条をもっています。けれども、何よりもまず、神の国とその正義を求めること。それが私たちに求められている基本姿勢です。それ以外の事柄は、その後に加えて与えられてゆく、と主イエスはおっしゃいます。

 

この「土台」を得てはじめて、私たちがそれぞれ大切にしている事柄も、まことの位置を得てゆくでしょう。私たちの思想や信条は、一人ひとりの尊厳を土台として構築してゆくことによって、より豊かなもの、活き活きとしたものとなってゆくのだと思います。

 

 

 

福音を信頼し、全身をゆだねる

 

主イエスの神の国の呼びかけは、私たち自身と、また私たちの社会に対する大きな挑戦の言葉でもあります。私たちが心の向きを変えるということは、具体的に生き方の変換を迫られることになるからです。そして、私たちの社会の構造そのものを変換させてゆくことも必然的に伴ってゆくことになるからです。

 

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」――。

 

「福音を信じなさい」と記されています。「信じる」という言葉は、原語では「信頼する」「ゆだねる」という意味があります。「福音を信頼し、あなた自身をそれにゆだねなさい」と主イエスは呼びかけておられます。

 

「心の向きを変える」というのは、私たちにとって恐れを伴うものでもあるのではないでしょうか。自分の今までの生き方を見直すことには勇気がいるし、また社会の在り方を問い直してゆくことにも勇気がいります。社会の構造そのものを変えてゆくなんて、そんなことができるのだろうか、と不安にも思います。しかし、主イエスは、「福音を信頼し、あなたの全身をそれにゆだねなさい」とおっしゃっています。

 

《福音》とは、神さまの力です。私たち一人ひとりの存在をかけがえのない存在として守り、その尊厳を確保しようとしてくださっている神さまの力です。この神さまの力に、あなたの全身をそれにゆだね、そこから力を得なさい、と主イエスは私たちを励ましておられます。私たちの力の源泉は自分自身にではなく、神さまのもとにあります。神さまが力の源泉である限り、私たちの力は枯渇し切ってしまうことはないでしょう。私たちは神さまの福音の力を信頼し、そこから力を得、自分にできることを果たしてゆくことが求められています。

 

 

 

神の国の宣言

 

 私たち教会がいま発すべき言葉とは、主イエスが宣べ伝えてくださった「神の国」を、改めて宣言することでありましょう。すべての人に等しく、神さまからの尊厳が与えられているのだということ。一人ひとりの生命が守られ、尊厳が確保されてゆくことが、何にもまして優先されねばならないのだということ。この変わらぬ真理を、私たちのあらゆる営みの土台に据えてゆくべきことを、私たち教会は改めて、国や社会に呼びかけてゆかねばなりません。またそして、人間の尊厳がないがしろにされるような動きに対して立ち上がり、はっきりと「否」と言い続けねばなりません。

 

 いまこそ、私たちが神の国を祈り求めて立ち上がる、その「時(カイロス)」です。

 

 

 

和解を促す言葉を

 

 ここで確認しておきたいことは、私たちは真理から逸脱した状態に「否」と言うのであり、相手の存在そのものに対して「否」というのではない、ということです。あくまで相手が本来の役割に立ち還ることを、一貫して祈り求める姿勢が求められています。相手の存在までをも、全否定することはしてはいけません。

 

自分と意見を異にする人々も、やはり神さまから大切にされている存在であるということを、普段私たちは忘れてしまいがちです。自分と対立している人も、神の国においては等しく尊い存在であり、固有の役割が与えられているということを、私たちは常に心に刻んでおく必要があるでしょう。一人ひとり異なった個人が、それぞれ多様な考えをもった個人が、“あるがまま”に「よし」とされ、共に生かされている場というのが、神の国であるからです。私たちは常にこの神の国の真理に根ざし続けているべきです。

 

無闇に対立をあおるような言葉ではなく、分裂のあるところに和解を促す言葉をこそ、祈り求めてゆくことが大切ではないでしょうか。

 

相手の心に届いてゆく言葉を、私たちは祈り求めてゆく必要があります。相手のことを少しでも理解したいと願い、そうして和解へ向けて根気強く対話を求め続けてゆくという姿勢が大切であると思います。《求めなさい。そうすれば、与えられる(マタイによる福音書77節)。そのために必要な言葉は、私たちが祈り求める中で、必ず神さまが与えてくださるでしょう。

 

 

 

私たちの出発点として

 

本日は、花巻教会の創立を記念して、礼拝をささげています。花巻教会の創立を覚えるこの時、改めて、主イエスの神の国の宣言にごいっしょに耳を傾けて参りました。

 

 主イエスはいまも、私たちに呼びかけておられます。「時は満ち、神の国は近づいた。心の向きを変え、福音の力にあなたの全身をゆだねなさい」――。

 教会の創立を記念する本日、この主イエスの言葉に立ち還り、私たちの出発点としたいと願います。