2014年8月10日「隔てを超える主の憐れみ」

2014810日花巻教会説教

聖書箇所:マルコによる福音書14045

「隔てを超える主の憐れみ」

 

 

 

はじめに ~《重い皮膚病》という表記を巡って

 

お読みした聖書箇所には、《重い皮膚病》を患った人が登場します。40節《さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った》。

 

はじめに、《重い皮膚病》という表記について、少し説明をしておきたいと思います。《重い皮膚病》と訳されている語は原語のギリシャ語では「レプラ」といいます。「レプラ」という語は、旧約聖書が記されているヘブライ語の「ツァラアト」という言葉の訳語です。このツァラアトという言葉は旧約聖書にも何度も登場するもので、キリスト教では伝統的にこの語を「ハンセン病」を指すものと見なし続けてきました。

 

現在は、このツァラアトをハンセン病に限定して解釈するのは誤りであったと考えるのが一般的になっています。旧約聖書の時代にそもそもハンセン病が存在したかは歴史的に不確かであるということや、旧約聖書のツァラアトの症状の描写は必ずしもハンセン病と一致しない点(レビ記13144節)、また衣服や壁に生じた「かび」のようなものに対してもこの語が使われている、ということなどがその理由です(同134759節、143353節)。ツァラアトという語をハンセン病と限定的に訳すことは誤りであったわけですが、しかしこの誤った解釈が、長きに渡りヨーロッパ社会においてハンセン病の人々に対する偏見・差別を助長し続けてきました。

 

旧約聖書のレビ記には、「ツァラアトに冒された者である」と宣言された者は「汚れた」者として、共同体から「隔離」されねばならない、記されています。レビ記134546節《重い皮膚病(原文:ツァラアト)にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。/この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない》。このような記述がハンセン病と結び付けられることによって、ハンセン病患者を「汚れた」者として社会から排除する構造が補強されていってしまったのです。キリスト教はその歴史において、ハンセン病の隔離政策に加担したという明らかな罪責があります。

 

私たちが読む新共同訳聖書も以前はツァラアトを《らい病》と訳していましたが、19974月からは表記を《重い皮膚病》に変更しています。この表記に対しても、賛成意見もあれば反対の意見もあるようです。たとえば、《重い皮膚病》という訳語もやはり読者に否定的な影響を与えかねないので、表記をすべて原語のツァラアトに統一すべきだという意見があります。実際に、新改訳聖書は旧・新約聖書の表記をすべてカタカナの「ツァラアト」に統一し直しました(第三版、20041月)

 

また一方、岩波訳聖書はハンセン病の古い呼称である《らい病》を訳語としてあえて採用しています。ツァラアトを患った人々に対する古代イスラエル社会の差別のあり方が、日本の歴史上の「らい病」と類似ているから、というのがその理由です(補注 用語解説より)。日本には1996年に廃止された、ハンセン病患者の強制隔離などを定めた「らい予防法」というものがありました。私たちの国の差別の歴史を心にとどめておくために、あえて「らい病」という表記を採用する考えであることが分かります。

 

 以上、簡単ではありますが、《重い皮膚病》という表記について少し解説をいたしました。《重い皮膚病》という表記に出会う時、このような課題が背景にあるということを想い起こしていただければと思います。

 

 

 

存在を否定される苦しみ

 

改めて、40節以下をお読みいたします。40節《さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った》。

 

 先ほど述べたように、旧約聖書の律法には、《重い皮膚病》を患う人を共同体から隔離しなければならない、という決まりがありました。《重い皮膚病》を患い人々は、共同体が暮らす町の「外」に住み、人目に触れないように生活しなければなりませんでした。新約聖書の時代もやはりこの律法は固く守るべきものとされていましたので、ここで登場する《重い皮膚病》を患う人も社会から不当な差別を受け続ける状況の中で生きていた人であるということが分かります。そのような生活が、その人々にどれほどの苦しみ、悲しみをもたらしていたか、想像を絶するほどです。病気による身体的な苦しみはもちろん、社会から排除されているということの苦しみは、どれほど大きなものであったことでしょう。自分という存在は確かに生きて存在しているにも関わらず、病気のために社会から隔離され、「あたかも存在していないかのように」されている。自分の存在そのものが社会から否定され、「存在していないかのように」されること――これは私たちが感じる苦しみの中で、もっとも大きな苦しみの一つなのではないでしょうか。

 

 

 

存在を見出してくださる主

 

新約聖書にはこの《重い皮膚病》を患った人を始め、社会から不当な差別を受けていた人々がたくさん登場します。その人々はみな、社会から「あたかも存在していなかのように」されている人々でした。確かに存在しているのにも関わらず、まるで存在していないかのようにされてしまっている。

 

主イエスはそのような人々のもとを自ら訪ねて歩かれました。それら人々の苦しみを受け止め、共に苦しみ、その人々の存在に光を当てるためでした。主イエスは社会から「見えなくされている」人々の存在を見出し、その人々に神さまからの尊厳を取り戻すため、ガリラヤ中の町を行き巡ってくださいました。その人の存在に神さまからの尊厳の光が与えられている場、それを主イエスは「神の国」115節)とお呼びになりました。

 

 

 

根本的な願い

 

 この日、主イエスはやはり町の「外」に追いやられて生活している人々のもとを訪ねて歩いておられました。《重い皮膚病》を患ったこの男性が、どのようにして主イエスの存在を知ったのかは分かりません。住居の隙間から、自分の住居の方に向かってこられる主イエスのお姿が見えたのかもしれません。それは分かりませんが、この男性は主イエスのお姿を見出し、主のもとに懸命な想いで向かってゆきました。

 

《重い皮膚病》を患った人は、基本的に他者と接することは禁じられていました。しかしこの人はあえてその決まりを破って、決死の想いで住居から出て主イエスの前に進み出たのです。

 

 男性は、主イエスの目の前にひざまずいて願います。《御心ならば、わたしを清くすることがおできになります》。この言葉には体の病いによる苦しみだけではなく、今まで周囲から自分の存在を否定され続けてきたことの深い苦しみ、悲しみが込められているように思います。男性が抱いていた根本的な願いとは、病いが直ることそのものよりも、そのことを通して自分の存在が社会から受け入れられることだったのではないでしょうか。

 

 

 

はらわたがちぎれる想いの中で

 

主イエスは男性が律法の決まりに違反したことをとがめることもなく、《深く憐れんで》くださったことを福音書は記しています。4142節《イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、/たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった》。

 

ここで《深く憐れんで》と訳されている語は原語のギリシャ語では「スプランクニゾマイ」といい、名詞の「スプランクノン」は「内臓、はらわた」を意味する言葉です。このニュアンスを生かし、ある翻訳はこの部分を《腸(はらわた)がちぎれる想いに駆られ》(岩波訳)と訳しています。

 

主イエスは、男性が今まで味わってきた苦しみ悲しみを、すべて「自分のこととして」受け止めてくださったのだ、ということが分かります。はらわたがちぎられる想いで、主イエスは男性の今までの苦しみを受け止め、共にその身に担って下さいました(イザヤ書5334節)

 

 主イエスはご自身のはらわたがちぎれる想いに駆られながら、手を差し伸べてその男性に触れられました。《重い皮膚病》の患者に触れるということは、当時の常識からすると驚くべき行為でした。触れるとその「汚れ」が移ると考えられていたからです。もちろんそれは当時の偏見であり、実際にそのようなことはありません。主イエスは律法の「隔て」を超えて、手を伸ばしてその人に触れられました。しかも、しっかりと――。ある翻訳は、《手をのばしてその人を抱きしめ》たと訳しています(本田哲郎訳)。主イエスはまさに全身でその人の苦しみを受け止め、抱きしめてくださったのだということが伝わってきます。

 

そして主イエスは《よろしい。清くなれ》とおっしゃいます。すると、そのお言葉のとおり、男性の《重い皮膚病》はすぐに消え去ってゆきました。

 

《重い皮膚病》が消え去ったことは一つの奇跡ですが、しかしこの場面を読む私たちが何より心打たれるのは、男性の苦しみを全身でうけとめてくださった主イエスのそのお姿なのではないでしょうか。神の御子イエス・キリストが、一人の人間の苦しみを前に、はらわたがちぎれるような想いに駆られ、その人にしっかりと触れてくださったこと。これこそ、私たちにとって最大の奇跡です。主イエスが男性にしっかりと触れてくださったその瞬間、その人の足元に「神の国」が到来しました。男性は、自分のすべてを“あるがまま”に受けとめてくださる、神さまの愛を知らされました。社会から「あたかも存在していないかのように」されていた自分の存在の内に、神さまからの尊厳の光が宿されました。その神の国の実現に付随的に起こったのが、病いの癒しです。

 

 

 

激しい憤りの中で

 

 本日の物語は、これで終わりではありません。物語はさらに次のように続いてゆきます。4344節《イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、/言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」》。

 

 主イエスは男性に、祭司に体を見せ、献げ物をささげるようにと指示されます。これも旧約聖書の律法の決まりで、《重い皮膚病》が癒えた人が共同体に再び入れられるために必要な手続きでした(レビ記14132節)。主イエスは男性が再び社会に復帰することができるように、具体的な指示をお与えになりました。先ほど、男性が抱いていた根本的な願いとは、病いが直ることそのものよりも、そのことを通して自分の存在が社会から受け入れられることだったのではないか、と述べました。その意味では、病いが癒えたことを共同体から認められ、再び共同体に受け入れられるようになって初めて、男性の願いは成就されることになります。

 

 ここで福音書は、主イエスのもう一つの表情を伝えています。主イエスがこれらアドバイスを《厳しく注意し》たと記されていますが、この語は原語では「激しく憤る」というニュアンスを含んでいます。主イエスは憤りをもって、男性を共同体の中へ送り出されたということになります。この主イエスのお姿からうかがわれるのは、男性をこのような苦しい状況に追いやった社会の在り方に対する憤りです。御自分にとって大切な存在を苦しめ悲しませ続けてきたものに対して、主イエスは激しい憤りをお感じになられました。

 

この日、主イエスと男性との間に神の国が実現しましたが、しかしこの男性と同じように社会から苦しめられている人はいまも数多くいます。社会の在り方そのものが変わってゆかない限り、またこの男性と同じ苦しみを経験する人は生じつづけてゆくことでしょう。主イエスは男性の後姿を見送りながら、社会全体がもつ「病い」を癒してゆくことの必要をも、見据えておられたのだということができるでしょう。その改革の時は近い――主イエスは御自分に激動の日々が訪れることを予感していらっしゃったのかもしれません。

 

 

 

人々の苦しみを担って

 

 主イエスに送り出された男性は、町の中に入るとこの度の出来事を人々に宣べ伝え始めます。主イエスご自身はまだ自分のことを人に話さないようにとおっしゃっていましたが、男性はそうせずにはいられないようにして、自分に実現した「神の国」の出来事について、人々に告げ知らせてゆきました。45節《しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た》。

 

 一方でそのことによって、主イエスはもはや公然と町に入ることはできなくなりました。主イエスのことを聞いた人々が続々と集まってきてしまって混乱状態になってしまうからでしょう。《重い皮膚病》が癒された男性は再び町の内側に入ることができるようになりましたが、そのことと引き換えに、主イエスご自身は町の外側にしりぞかれることとなりました。この主イエスのお姿に、人々の苦しみを担いご自身は十字架におかかりなるという、そのご生涯の最後の姿が透けて見えてくるようにも思います。

 

 

 

誰一人失われることなく

 

 本日は、主イエスと《重い皮膚病》を患った人の出会いの物語をご一緒に読んでまいりました。私たちにもそれぞれ、苦しみや悲しみがあることと思います。私たちの心の片隅には、いまも言葉にできない苦しみがあり、悲しみがあり、言い難き嘆きがあります。誰の目にも「見えなくされている」苦しみがある場所――しかし、そこに、主イエスはいまもおられます。私たち一人ひとりの苦しみに、はらわたがちぎられる想いに駆られながら。私たちの心のもっとも暗い場所に、主イエスは十字架におかかりなったお姿で共におられ、私たちの苦しみを共に担い続けてくださっています。

 

 この主イエスに出会う時、私たちは、私たちの存在そのものをしっかりと抱きしめてくださっている神さまの愛に出会います。神さまから見て、私たちはその一人ひとりが、かけがえがなく貴い者として存在しています(イザヤ書434節)。神さまから見て失われてしまってよい存在は、誰一人としてありません。私たち一人ひとりをはらわたがちぎれる想いで見つめてくださっている主の愛にいま立ち還り、そこから、私たちの社会の在り方をも新しく考え直してゆきたいと思います。