2014年8月17日「中風の人をいやす」

2014817日花巻教会説教

聖書箇所:マルコによる福音書2112

「中風の人をいやす」

 

 

中風の人

 

新約聖書のマルコによる福音書をごいっしょに読み進めています。第1章には、イエス・キリストが人々の病いを癒した出来事が記されていました。主イエスのこのうわさは人から人へと瞬く間に伝わってゆき、大勢の人が主イエスに会いに集まってくるようになりました。

 

ある日、主イエスがカファルナウムという町に来られた時、主イエスの話を聞こうと大勢の人が集まってきました。たくさんの人が集まったので、戸口の辺りまですきまがないほどになった、と聖書は記します。14節《数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、/大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、/四人の男が中風の人を運んで来た。/しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした》。

 

 そのような中で、少し驚くような出来事が起こります。4人の男性が家の屋根をはがして穴を空け、そこから床に寝ている病人をつり降ろす、という出来事が起こったのです。主イエスの話を聞いていた人々は何事かとびっくりしたことでしょう。

 

 屋根からつり降ろされた人は、「中風」の症状をもつ人でした。「中風」とは、脳卒中などの後遺症によって、身体にしびれや麻痺がある状態を言います。ここで登場する《中風の人》は、おそらく身体に麻痺があり、自分で自由に体を動かすことが出来ない状態にあったのだと推測できます。

 

 

 

病いは「罪」の結果……?

 

屋根をはがしてつり降ろすというのはやりすぎだという意見もあるかもしれません。なぜ人々の後ろで、会える機会が来るのを待たなかったのか、という意見もあることでしょう。

 

けれども、中風の人と彼を運ぶ4人の男性にしてみれば、おそらくそれは、決死の行動であったのだと思います。群衆の後ろでおとなしく待っていても、きっと主イエスに会うことはできない。自分たちから行動を起こさなければ、主イエスの前には出られない、という想いがあったのではないかと推測します。

 

なぜでしょうか。それは、当時の病気に対する認識が関係しています。当時、イスラエルの社会では、病気は本人または両親や先祖が「罪」を犯した結果であると考えられていました。ここでの「罪」とは、具体的には「律法違反」のことが言われています。古代イスラエルにおいて、律法を守ることが正しく生きるということであり、律法に違反することが道を踏み外すことでした。病いとは、道を踏み外したその「罰」として与えられるものだ、というのが当時の一般的な考え方でした。

 

本日登場する中風を患う人もその近親者である4人の人も、当時の考え方からすると、何らかの「罪」による「罰」を受けている者、ということになります。周囲の人々からも実際、そのような目で見られたことでしょう。本人たちにとって、病いの苦しみはもちろん、そのような社会からのまなざしが最も苦痛なものとして感じられていたのではないでしょうか。(自分たちは一体どのような「罪」を犯したから、このような「罰」を受けているのだろうか……?)。そのような問いに日夜苦しめ続けられていたことでしょう。

 

 

主イエスのおられるところを目指して

 

 中風を患う人と近親者たちは、社会からのまなざしに苦しめられ続けてきました。社会は彼らを、道を踏み外した「罪人」として見ていました。主イエスのうわさを聞きつけた彼らは懸命な想いで駆けつけましたが、やはりそこで出会ったのも群衆の冷たい視線でした。

 

主イエスのもとに通してほしいと願っても、通してもらえない。「罪人」である自分たちの言うことには、周りの人々は耳を傾けてはくれない。目の前にいる大勢の人々が、彼らにとって大きな壁となって見えたのではないでしょうか。

 

 しかし、彼らはその日、あきらめませんでした。群衆に阻まれて家の中に入れないなら、屋根に上って、屋根をはいで病人を降ろそう、と決めたのです。彼らが指していたのはただ一つ、主イエスのおられるところでした。このお方だけは自分たちの想いを分かってくださる、という切実なる希望があったのでしょう。4人の男性は屋根に上り、主イエスがおられる辺りの屋根を剥がして、その穴から床に横たわっている病人をつり降ろしました。超えられないような壁を乗り越え、中風を患う人はついに主イエスに出会うことができました。

 

 

 

主イエスとの出会い

 

 5節《イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた》。

 

 主イエスは、御自分に対する彼らの信頼を御覧になりました。中風の人と4人の男性の懸命なる想いを、主イエスは全身で受け止めてくださいました。そして、中風に人に向かっておっしゃいました。「子よ、あなたの罪は赦される」――。

 

 中風の人は、自分が「罪人」であることに苦しめられ続けてきましたが、ここで主イエスは「あなたの罪は赦される」とおっしゃいました。主イエスに出会ったこの瞬間、あなたは「罪人」ではない、と宣言されたのです。

 

 自分が「罪人」とされることに苦しみ続けてきた中風の人は、この宣言に出会い、どれほど救われたことでしょうか。

 

 

 

罪を赦す権威

 

 ここで、新たな人物が登場します。律法学者と呼ばれる人々です。律法学者は、聖書に精通した、律法の専門家でした。67節《ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。/「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」》。

 

 主イエスの言葉が、神さまご自身からの言葉であることを、律法学者たちは理解できません。人間が勝手に自分たちの「罪」を赦すのだとしたら、確かにそれは冒瀆であるとされても仕方のないことでしょう。律法学者たちは、一人の人間が、神さまを介さずに勝手に人の「罪」を赦したのだと見なして、疑問を感じたのです。

 

812節《イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。/中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。/人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。/「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」/その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した》。

 

 主イエスは律法学者たちが心の中でひそかに考えていることを見抜き、「なぜ、そんな考えを心に抱くのか」とおっしゃいます。そして彼らに対し、「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか」と問いかけられました。

 

 この主イエスの問いかけは一見分かりづらくも思えるものですが、この問いも、当時の病気に対する認識を踏まえたものです。中風の人の「罪が赦された」ことの目に見えるしるしは、「病いが癒される」ことです。当時の認識においては、病いと罪とが結びついています。「起きて、床を担いで歩け」という命令が実現すれば、その人の病いは癒されることとなり、「あなたの罪はゆるされる」という宣言もまた実証されることとなります。彼の病いが治るということは、彼にはもはや「罪」はない、ということの証明ともなるのです。

 

主イエスは中風の人に向かっておっしゃいます。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」。中風の人はその言葉の通り、起き上がり、床を担いで、皆の見ている前を出て行きました。

 

 この出来事を見て、律法学者を含め、そこにいた人々は皆、我を忘れるほど驚きます。確かに、一人の人間が《罪を赦す権威》を持っていることが、目の前で示されたからです。

 

 

 

神の国の権威

 

 主イエスの示された《権威》とは、言い換えると、「神の国の権威」ということができるでしょう。ここでの「神の国」とは、「私たち一人ひとりに、神さまからの尊厳が与えられている場」のことが言われています。一人ひとりがかけがえのない存在として守られ、その生命と尊厳が大切にされる場が、神の国です。

 

神の国の権威とは、一人ひとりに神さまからの尊厳を与えるべく働いてくださるものです。上から人を縛る権威ではなく、むしろ下からその人を支えその人を活かす権威です。

 

 本日の物語は、主イエスが新しく指し示すこの神の国の権威と、従来の律法の権威とが初めてぶつかった出来事であった、ということができるでしょう。本日はいまだ、少し火花が散った程度であったかもしれません。けれども、この後、その対立は激しくなってゆくことになります。

 

 

 

生まれながらの、神さまの「かけがえのない子ども」

 

 改めて、5節の主イエスの罪の赦しの宣言を見てみたいと思います。5節《イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた》。

 

 ここでの罪とは、具体的には、律法違反の「罪」であるということを言いました。本人、両親、先祖が代々犯してきた律法違反の罪の集まりが、ここでの「罪」です。神の国の到来を前に、それら「罪」はもはや力を失った、と主イエスは宣言なさいました。

 

この宣言が意味していることは、神の国においては、病いは、もはや「罪」とは何ら関係がない、ということでもあります。私たちが病いになるのは、私たちが「罪」を犯したからでも、両親や先祖が「罪」を犯したからでもない(ヨハネによる福音書913節)。私たちの病いは、「罪」や「罰」とは何ら関係がない――主イエスの言葉は、そのはっきりとした宣言でもあると受け止めることができます。

 

 あなたは生まれながらの「罪人」ではない。そのようなことは決してない。では、あなたはいったい何者か。あなたとは、神さまから見て、「かけがえなく、貴い存在」である、あなただ(イザヤ書434節)。あなたは、生まれながらの、神さまの「かけがえのない子ども」である――。

 

 主イエスは、中風の人に向かって、神さまからのこの真実の“声”――福音――を伝えてくださいました。中風の人の人生を長い間縛り続けてきた誤解が、この瞬間、ほどかれました。私たちは「罪人」として生まれ、罰を受け続けていたのではありませんでした。私たちは、神さまの大切な子どもたちとして生まれ、祝福を受け続けてきたのです。それが、私たちのまことの姿です。この真実を知らされた瞬間、中風の人の足元に、神の国が到来しました。そしてこの真実はいま、主イエスを通して、私たちにも知らされています。

 

 

 

互いを尊い存在として受け止めあうこと

 

 この神の国の宣言に、付随的に起こったのが、病いの癒しの出来事です。ここでは、彼の存在が神の国との出会いによってどのように変えられたのかが、目に見えるかたちで示されています。

 

 神の国と出会って、彼は自分で起き上がり、自分で床を担いで家に帰ることができるようになりました。この姿が象徴しているのは、彼に神さまからの尊厳が取り戻され、その主体性が回復された、ということなのだと思います。そして大切なのは、彼に与えられている尊厳の光が、周囲の人々にはっきりと認識された、ということです。今まで自分たちが「罪人」だとみなして軽んじていたその人が、一人の人格をもった、貴い存在として新しく現れ出た。その場にいた人々は皆、その真実の証人となりました。

 

 大切なことは、癒しが起こること自体ではなく、神さまからの真実に出会い、私たちが互いを尊い存在として受け止めあってゆくようになることです。その時、私たちの社会全体が少しずつ変わり始めることでしょう。たとえ病いの癒しは起こらなくても、私たちが生きる社会全体に癒しが起こり始めることでしょう。

 

 

 

福音の風穴を

 

 本日の物語では、中風の人と4人の男性がまず、勇気を出して、社会に一つの風穴を開けました。屋根に空けた穴は、その象徴となったということができます。その風穴の向こうには、主イエスご自身がおられました。その風穴から、主イエスは神の国の力を示してくださいました。神さまの真実の“声”――福音を人々の間に響き渡らせてくださいました。

 

 一昨日の15日、私たちは敗戦から69年目を迎えました。日本全国で、平和を願って祈りがささげられました。戦争とは、私たちが他者を、人格のない「物」のように軽んじてしまうことから始まってゆくのでしょう。私たちが、主イエスが伝え下さる神様のまことの声に出会い、互いをかけがえなく貴い存在として受け止めあってゆくことができますようにと願っています。そこから、私たちの間に、神の国が平和が少しずつ実現されてゆきます。どうぞ私たちが神の国の力を信頼し、停滞したこの社会に福音の風穴を開けてゆくべく、共に勇気をもってその一歩を踏み出してゆくことができますように。