2014年8月24日「「罪人」を招くために」

2014824日花巻教会説教

聖書箇所:マルコによる福音書21317

「「罪人」を招くために」

 

 

 

「罪人」とされた人々

 

本日の聖書箇所に、次のイエス・キリストの言葉があります。《医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである》。

 

《罪人》という言葉が出て来ました。ここでの「罪人」とは、律法を守ることができない人々のことが言われています。心の中に罪深さをもっている、という意味とはまた別に意味で、「罪人」という言葉が使われているのですね。マルコによる福音書で「罪」という言葉が出て来た時、それは具体的には旧約聖書に記された律法に違反することを意味しています。

 

 では、《正しい人》とはどういう人かと言いますと、それは、律法を守っている人々のことです。代表的な存在として、ファリサイ派や律法学者と呼ばれている人々がいました。それらの人々は、律法を守ることこそ、神さまに対する人間の第一の務めであると考えていました。

 

 そのように、律法を守ることは当時のユダヤ世界ではもっとも大切な事柄とされていましたが、ただし、ここで踏まえておくべきことは、当時のユダヤの人々の中には、さまざまな事情によって律法を守ることができない人々がいた、ということです。

 

 律法の中には、生活に関して、さまざまな詳細な決まりがあります。ユダヤの人々の中には、環境や仕事のために、それら掟に違反せざるを得ない人々がいました。そのような人々として、たとえば、日雇い労働者、娼婦、羊飼いや豚飼い、奴隷の人々がいました。これら「罪人」とされた人々は、律法を守らない――実際は、さまざまな事情によって守ることができない――ということで、社会から軽んじられ、また忌み嫌われていました。

 

 そのように、社会から「罪人」というレッテルを貼られ、偏見や差別を受けている人々を招くためにわたしは来たのだ、と主イエスはおっしゃってくださいました。

 

 

 

徴税人という職業

 

 当時、社会から差別を受けていた職業として他に、徴税人の職業がありました。当時のユダヤ社会では、ローマ皇帝に対する税、その傀儡政権であるヘロデ王朝に対する税など、さまざまな税が課されていましたが、権力者たちに対する税を徴収するのが徴税人の人々の仕事でした。当時の人々は幾重もの課税に苦しんでいましたので、税を徴収する徴税人は人々から激しい怒りを買う対象となっていました。いわば、「権力者の手先」「民衆の敵」とされ、同胞の人々から差別を受けていたのです。

 

 また徴税人の人々は仕事上、ユダヤ人以外の人々――サマリア人やローマ人などいわゆる「異邦人」と呼ばれる人々――と接する必要がありました。当時、「異邦人」と付き合うことは律法で律法違反になるとされていました。仕事のためやむを得ないことだったのですが、徴税人は社会から「罪人」のレッテルを貼られていました。

 

 このように、徴税人の職につく人々は、二重のレッテルを貼られていました。一つは、税を徴収する「権力者の手先」というレッテル。もう一つは律法に違反している「罪人」というレッテル。そのように、二重のレッテルを貼られ、差別を受けていたのが徴税人の職につく人々であったということができます。

 

 本来なら、人々の怒りが向かうべき対象はローマ帝国やヘロデ王朝など当時の権力体制であったはずですが、徴税人の人々は民衆の不満や怒りが向かう対象にされてしまっていたのだということができます。

 

 

 

レッテルを貼られるということ

 

 本日の聖書箇所は、徴税人の職につくレビという人物を、主イエスが弟子にする場面から始まります。マルコによる福音書21314節《イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。/そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った》。

 

 当時、ガリラヤ湖の近辺には収税所があったそうです。そこでは、通行税などが徴収されていました。レビという人物は、この湖のほとりの収税所に徴税人として座っていました。

 

 先ほど、徴税人の職につく人々は社会から二重のレッテルを貼られていた、ということを述べました。ひとつは、「権力者の手先」というレッテル、もう一つは「罪人」というレッテル。収税所に座っているレビを、訪れる人々は誰も人格をもった一人の存在としては見ていなかったでしょう。

 

「レッテル」とはもともと、商品に貼りつける小札やシールのことを言います。レッテルには商品名や内容が記されており、それを見て人々は商品についての情報を得ます。私たちはレッテルを、人に対しても貼りつける、ということをよくしてしまいます。「あの人はこういう人だ」、とか、「この人はこういう人に違いない」とか。しかしそれらレッテルは多くの場合、根拠が乏しいことが多いものです。たとえば「あの人は左翼だ」「あの人は右翼だ」というレッテルがよく貼られることがあります。レッテルを貼った本人はそれで何か分かったような気持になり安心しますが、実際は相手のことを何も分かってはいないということがほとんどです。一度レッテルを貼ってしまうと、それ以降は、その人本人を見るのではなく、レッテルを見て判断をしてしまっている、ということが起こります。貼られたレッテルを見ているのであって、その人本人を本当には見ていない、ということが私たちの間には実によくしばしば起こっています。

 

 ガリラヤ湖のほとりの収税所に座っていたレビのことに想いを馳せてみますと、レビも人々からレッテルを貼られている自分に苦しんでいたのではなか、と思います。周りの人々は「権力者の手先」、または「罪人」というレッテルを通してレビを見ているのであって、誰も、一人の人間としてのレビを見てくれてはいない。レビは深刻な孤独を抱えつつ生きていたのではないでしょうか。

 

皆さんも、自分がレッテルを貼られて見られていると感じた経験があることと思います。そのようなとき私たちは(本当の自分はそのような自分ではないのに……)と思って、悲しみや怒りを感じます。レビはこのとき、多くの人々からペタペタとレッテルを貼りつけられ、もはや本人自体が見えなくされていました。偏見やイメージで、まるで張りぼての人形のようにされてしまっていました。収税所に座るレビを、誰も心をもった一人の人間としては見ていなかっただろうと思います。レビという人の人格は、確かに存在しているのに、社会から「あたかも存在していないかのように」されていたのです。

 

  

 

カラバッジョ「マタイの召命」

 

画家のカラバッジョが描いた絵画で、「マタイの召命」15991600年制作)というものがあります。マタイとは、マルコによる福音書ではレビのことです。この絵では、レビがイエス・キリストに弟子として呼び出される場面がドラマチックに描き出されています。

 

絵の右側には、収税所に入ってきた主イエスの姿があります。薄暗い部屋の中、主イエスと共に右上の方からまっすぐに光が差し込んでいます。主イエスは誰かのことをまっすぐに見つめ、その人がいる方を指さしています。

 

絵の中央には、髭を生やした人物が描かれています。きょとんとした表情で、自分自身を指さしているように見えます。長らく、この髭の人物がレビであると考えられていました。私も今までそのように捉えていましたが、しかしよく見ると、髭の人物はさらに奥にいる或る人物を指さしているようにも見えます。

 

奥にいる人物とは、うなだれた様子で顔を伏せ、テーブルの上の金貨をじっと見つめている若者です。顔には暗い影が差し、何かに失望しきっているように見えます。近年は、この若者こそレビであるという見解が優勢になっているようです。私は今まで奥にいるこの若者にあまり目を止めていなかったのですが、この度改めてこの絵を見てみて、確かに、この若者こそレビだと感じました。顔を伏せてうなだれる青年の姿に、徴税人レビの抱える孤独、悲しみ、失望などがはっきりと表現されているように感じました。

 

 部屋の奥で顔を伏せていたレビでしたが、その時、自分を呼ぶ声がします。何だろう。また何かの儲け話か。それとも誰かからの苦情か。力なく、ゆっくりと顔を上げたレビは、自分をまっすぐに見つめる一人のお方に出会いました。

 

 

 

一人の人間としてのレビを

 

主イエスはこの時、レッテルによってではなく、人格をもった一人の人間としてのレビを、まっすぐに見つめてくださっていました。この主イエスのまなざしに出会って、レビは衝撃を受けたに違いありません。このように自分を見つめてくれる人に、レビは初めて出会いました。

 

 この時、レビのからだを覆っていたレッテルは剥がれ落ちてゆきました。そうして、“あるがまま”の一人の人間としてのレビが、主イエスの前に立たされていました。主イエスはレビに対しておっしゃいました。《わたしに従いなさい》――。

 

 この時のレビの心境については、マルコによる福音書はいっさい記していません。この時のレビの心境は私たちには分かりませんが、この主の招きに対して、レビは自分の心の底から、「はい(Yes)」がほとばしり出て来るのを感じたのではないかと想像します。社会から「あたかも存在していないかのように」されていたレビの存在の内に、神さまからの尊厳の光が宿されました。レビは立ち上がり、主イエスの後に従って行きました。

 

 

 

神の国の祝宴

 

 15節《イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである》。

 

 ここで場面は、主イエスがレビの家で食事の席についていたときのことに移ります。レビは主イエスを自分の家に招いていました。そこには主イエスの弟子たちの他に、多くの徴税人や「罪人」のレッテルを貼られた人々も同席していました。多くの人が、主イエスに従うようになっていたからです。

 

 その場に集っていた人々の多くが、今までさまざまなレッテルを貼られて苦しんできた人々であったということができます。「罪人」というレッテル、徴税人の人々であれば、「権力者の手先」というレッテル。本人の意志ではどうにもならない事柄について、深刻な差別を受けていた大勢の人々が、この時、主イエスとの会食に招かれていました。

 

 主イエスがおられるところでは、そのようなレッテルは一切関係がありませんでした。主イエスがおられるこの場では、誰も、相手をレッテルによって見ようとはしません。そうではなく、一人の人間としてのその人自身を見ようとします。互いを一人の人間として、敬意をもって受け止めあうことができる場とは、何と喜びに満ちたものであることでしょうか。主イエスが中心におられるここに、その場は実現されていました。

 

一人ひとりに神さまからの尊厳の光が与えられている場、それを主イエスは「神の国」115節)と呼びました。そこに集った人々は、今までの経験したことのない大きな感動を覚えたことでしょう。神の国の光の中で、人々は食べ、飲み、語り合いました。

 

 

 

「罪人」を招くために

 

 この祝宴の様子を見かけたファリサイ派の律法学者は、主イエスが徴税人や「罪人」と一緒に食事をしていることに疑問を覚えます。16節《ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った》。

 

 当時、ユダヤの社会では「罪人」と食卓を共にしてはいけない、という決まりがありました。「罪人」とは一線を画さねばならず、交流をもってはならなかったのです。律法学者の言葉は当時の社会の常識からすると、「正しい」意見ということになります。

 

 主イエスは律法学者の言葉を聞いて、おっしゃいました。17節《イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」》。

 

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」、このもっともな言葉に続けて主イエスはおっしゃいました。「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

 

 ここでの「罪人」とは、律法を守ることができないために「罪人」というレッテルを貼られている人々のことが言われています。社会からレッテルを貼られ、差別されている人々を神の国の祝宴に招くために私は来たのだ、と主イエスはおっしゃいました。

 

 神の国から発される主イエスのこの言葉は、律法学者に衝撃を与えたことでしょう。神の国に基づいた主イエスの言葉は、当時の価値観、世界観に真っ向から対立してゆくものでした。これより後、その対立はより激しくなってゆくことになります。

 

 

 

“あるがまま”に、一人ひとりが

 

 律法学者との会話において、主イエスはあえて「正しい人」「罪人」という言葉をお用いになりました。「正しい人」と「罪人」という言葉をあえて用いて、律法学者の世界観を逆転させようとなさっているわけですが、神の国においては本来、「正しい人」も「罪人」も存在はしません。神の国においては、人間が貼りつけたレッテルは存在しないからです。

 

 イエス・キリストが伝えてくださった神の国において存在しているのは、“あるがまま”の、一人ひとりの「人間」です。ここには完全に「正しい人」はいませんが、同時に、生まれながらの「罪人」も存在しません。

 

 ただし、この神の国の招きを受け入れやすい人と、受け入れがたい人というのは、いることでしょう。「罪人」というレッテルを貼られている人の方が、主イエスの招きにまっすぐに反応しやすいということはあるでしょう。痛みを知り、苦しみを知っているので、主の憐れみの声に率直に反応しやすいからです。「正しい人」というレッテルを貼られている人の方が、なかなか主イエスの招きに応じることができない、ということはあるでしょう。「正しい人」というレッテルに自らこだわるあまり、律法学者のように、主の招きに対して自ら壁を作り距離を取ってしまいがちになるからです。

 

 本来、私たちは神さまの前では「罪人」も「正しい人」もありません。“あるがまま”の私たちがいるのみです。弱さがあり、欠けがありつつ、神さまによってゆるされ、生かされている私たち一人ひとりがあるのみです。

 

私たち一人ひとりがいま、かけがえのない存在として、神の国に招き入れられています。この主の招きに、どうぞ私たちが自らをゆだねてゆくことができますようにと願います。