2014年8月3日「主イエスの祈り」

201483日花巻教会説教

聖書箇所:マルコによる福音書13539

「主イエスの祈り」

 

 

平和聖日

 

花巻教会が属する日本基督教団は、8月の第一週を「平和聖日」として定めています。本日の礼拝において、ごいっしょに平和を願い、祈りをささげたいと思います。

 

 現在の私たちの社会は多くの課題を抱えています。集団的自衛権の行使容認の問題、原子力発電所の問題を始めとして、私たちの目の前には多くの課題があります。

 

また、国際社会においても、私たちは多くの課題を抱えています。パレスチナ自治区ガザにおけるイスラエル軍とイスラム組織ハマスの戦闘の様子が、連日ニュースで報じられています。幼い子どもたちを含む多くの市民の方々の命を奪われているその惨状に、皆さまも心を痛めていらっしゃることと思います。

 

困難な状況中を生きる私たちでありますが、だからこそ本日、神さまの言葉から力を得、共に平和への想いを新たにしたいと願っております。

 

 

 

ガリラヤの現在

 

 私たち花巻教会は現在、礼拝の中で、新約聖書の『マルコによる福音書』を読み進めています。その舞台となっているのは「ガリラヤ」という地域です。ガリラヤはパレスチナ地方の北部に位置する地域です。東にはガリラヤ湖があります。

 

現在、地図を見るとガリラヤ地域はイスラエル国の領土とされています。しかし、ガリラヤ地域はもともと、長きに渡ってアラブ・パレスチナ人の居住地域でした。1948年にイスラエルが建国され、第一次中東戦争が始まってから、この地域はイスラエル軍によって占領されイスラエル国の領土とされたのです。

 

ガリラヤ地域がイスラエルの領土とされたことは、決してパレスチナの人々の同意に基づいてなされたことではありませんでした。もともと住んでいたパレスチナの人々の住居を破壊し、土地を奪い、そこから強制的に追放することによって、ガリラヤはイスラエル国の領土となったのです。パレスチナの自治区としてかろうじて残されているのが「ヨルダン川西岸地区」と「ガザ地区」ということになります。パレスチナ地方の多くの地域はそのように不当なかたちでイスラエルの領土とされ、それが現在に至るまで争いの原因となり続けていることは言うまでもありません。連日ニュースで報道されているガザ地区における衝突も、もとをたどればこれらイスラエル国による不当な侵略が原因としてあります。

 

ガリラヤ地域にもともと住んでいたパレスチナ人の多くは強制的に移住させられ、難民生活を強いられることとなりましたが、中にはガリラヤに残り続けた人々もいました。それらガリラヤ地域に残った人々は否応なしに、イスラエル国籍をもつイスラエル国民にさせられました。ヨルダン川西岸地区やガザ地区とは違い、ガリラヤはもはやパレスチナの領土ではないものとされているからです。ガリラヤには現在も、パレスチナ人として生きてきた歴史も誇りも否定され、しかしパレスチナ人であることの不当な差別を受けながら暮らしている大勢のパレスチナの人々がいます。その人々の多くはイスラム教徒ですが、中にはユダヤ教徒、キリスト教徒もいます。これが、福音書の舞台となっているガリラヤの、いまの現実です。

 

 

 

恐ろしい論理の支配

 

ニュースでアラブのイスラム組織によるテロが報道される度、私たちはそれら組織が「悪い」存在であるように印象付けられますが、パレスチナ問題に関しては、イスラエル国の方が、まず始めにパレスチナの人々の土地を奪い、強制的に追放し、パレスチナの人々を植民地主義的な支配のもとに置いたことが第一の原因としてあるということを、私たちははっきりと踏まえておく必要があります。パレスチナの人々が長く住み続けてきた土地を奪い、その土地における固有の歴史もかけがえのない文化もすべて「なかったこと」のようにしたのはイスラエル国です。

 

植民地主義的な支配をしようとするこれらイスラエル国の一部の指導者たちの根底にあるのは、「そもそもパレスチナ人などはじめから存在していない」という恐ろしい論理です。

 

「パレスチナ人」とは、もともとパレスチナ地方に住んでいた人々のことを言います。イスラム教徒であってもユダヤ教徒であってもキリスト教徒であっても、パレスチナを故郷として生まれ育った人はみなパレスチナ人です。イスラエルの一部の人々は、パレスチナ地方は「そもそも、神がイスラエルに与えてくださった約束の地である」と主張します。聖書の言葉に基づき、パレスチナ地方はもともとイスラエル国の土地であると主張しているのです。一見信仰的にも思えるこれら言葉は、実際は、自分たちの侵略行為を覆い隠すために発されている言葉でしかありません。自分たちの行為を正当化するために、自分の都合にあわせて聖書の言葉を利用しているのです。そうして、「パレスチナ人なるものもそもそも存在しないのだ」という恐ろしい論理を造りだし、パレスチナの大部分をイスラエル国の領土にしてしまいました。

 

もし、「パレスチナ人なるものもそもそも存在しない」のだとすれば、では、1948年まで千数百年にも渡って、先祖代々パレスチナで生活していた数百万人の人々は、何なのでしょうか。それらの人々は、はじめから存在しない人々なのでしょうか。イスラエル国の一部の人の論理からすると、まさにそれらパレスチナ人は「はじめから存在しない人たち」ということになります。あまりにひどい考えですが、しかしそのような考えが事実、パレスチナの人々を困難な状況に追いやる構造を造り出してしまっています。

 

 先ほど、ガリラヤ地方にはイスラエル国民にさせられた多くのパレスチナ人がいまも暮らしていると言いましたが、これらパレスチナの人々はまさに「はじめから存在しなかったかのようにされている」人々であるということができます。「パレスチナははじめから存在しない。パレスチナ人もはじめから存在しない」、そのような恐ろしい論理の支配の中で、パレスチナの人々は自分自身の歴史や人格を全否定され、その耐え難い苦痛の中を生き続けています。

 

 

 

「存在を認めよ」という叫び

 

自らの歴史や人格が全否定されるという根本的な屈辱に対し、人は、報復の衝動に駆られてゆきます。暴力は決して容認してはならないものです。一部のアラブ・パレスチナの人々によるテロ行為も決して容認してはならないでしょう。ただし、それら報復行為の中に含まれている、「我々の存在を認めよ」という声にならないその声を、私たち国際社会は厳粛に受け止めねばならないでしょう。パレスチナの人々によるテロ行為は、存在を全否定された人間の激しい苦痛と叫びの中から生じているものです。私たちはテロ行為を否定しつつ、しかしその中に含まれる叫びに耳を傾けてゆかねばなりません。「存在を認めよ!」というこの人間の根源的な声を、私たちが互いに受け止めあわない限り、暴力の連鎖は止むことはないでしょう。

 

 

 

「あたかも存在していないかのように」してしまう問題

 

 存在している人々を、「あたかも存在していないかのように」してしまうという問題は、パレスチナ問題だけに限られるものではありません。私たち日本の社会においても、また私たちの日々の生活においても、この問題は常に起こり得るものです。

 

 たとえば、この度の原発事故についてもそうでしょう。東京電力福島第一原子力発電所の事故によって多くの人々が被害を受け、いまも苦しみを受け続けています。長く暮らした土地を傷つけられ、その土地から移住を強いられた人が数多くいます。そのように、基本的な人権がないがしろにされ苦しんでいる人々が確かに存在しているのに、「原発事故による被災者は存在していない」という恐ろしい論理が、私たちの社会で力を奮っています。放射能の被害によって事実苦しんでいる人々がいるにも関わらず、その人々がまるで存在していないかのようにされてしまっている。当事者である人々の一人ひとりの声はかき消され、聴き取られず、その人々の想いとは正反対の方向に社会が動いてゆく。そうして原発事故そのものが、あたかも「なかったかのように」され、ものごとが今までのとおりに勧められてゆく。これが私たちが暮らす日本という国の、いまの現実です。

 

 

 

神の国のご支配

 

私たちはこれら、「なかったかのようにする力」に、抗い続けてゆかねばなりません。私たちは自分でも気づかないうちにこれら力に流され、その構造の中に組み入れられてしまう危険性があります。私たちはまどろみから目を覚まし、これら根本的な不正に対してはっきりと「否」を言い続けねばなりません。

 

私たちに、不正に対して「否」と言う力を与えてくれるもの、それが、イエス・キリストが伝えてくださった「神の国」です。主イエスはかつてガリラヤの地で、宣言されました。115節《時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい》――。

 

 イエス・キリストが宣べ伝えてくださった神の国とは、どこか特定の国家のことを指しているのではありません。そうではなく、「私たち一人ひとりに神さまからの尊厳が与えられている場」が、神の国と言われています。主イエスが願ってくださったのは、私たち一人ひとりに神さまからの尊厳が確保されることでした。神の国の力とは、「存在していないかのようにされているものを、確かに存在しているものとする力」です。先ほど述べた「存在しているものを、存在していないかのようにする力」とは、正反対のものです。

 

主イエスはご生涯の最後の数年間、社会から「あたかも存在していないかのようにされている」人々を訪ね歩き、その存在を見出し、その存在に光を当ててくださいました。社会から「見えなくされていた」人々を見えるようにし、その人々に神さまからの尊厳を取り戻すために働いてくださいました。主イエスが実現しようとされた神の国こそ、私たちの「存在を認めてほしい」という根本的な願いに応えてくれるものです。

 

私たちがこの神の国の力に従い、互いの固有性を“あるがまま”に受け止めあうとき、そこに神の国が到来し、まことの平和が実現してゆきます。私たちはいま改めてこの神のご支配の力を信頼し、自らを委ねてゆく必要があります。

 

 

 

存在を見出してくださる主

 

神の国の実現に向けて、主イエスが祈り続けてくださったその祈り。その祈りを私なりに言葉にしてみますと、次のようになります。

 

「存在したものが、あたかも存在しなかったかのように、されてしまうことが、ないように。

 すべての存在が、そのものとして存在し、かつ、これからも存在し続けるように。

 存在が、あたかもはじめから存在しなかったかのようにされることが、決して、ないように」――。

 

主イエスはかつてガリラヤの地で、この祈りを祈り続けてくださいました。

 

マルコによる福音書は、主イエスが朝早くまだ暗いうちに、お一人で祈っておられる姿を記録しています。13537節《朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。/シモンとその仲間はイエスの後を追い、/見つけると、「みんなが捜しています」と言った》。

 

私たちがいまだまどろみ寝ているときも、主イエスは目を覚まされ、神の国の実現のために祈り続けてくださっていました。そしてそれは特定の地域だけのためではなく、この地上に生きる私たちすべての者のためでした。

 

主イエスの後を追い、主イエスをその場にひきとめようとする弟子たちに対して主イエスはおっしゃいます。3839節《イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」/そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された》。

 

 ここで主イエスが追い出された《悪霊》とは、先ほどの表現を用いると、「存在しているものを、存在していないかのようにする力」であるということができるでしょう。神さまから与えられている尊厳を私たちから奪おうとする不正な力を、聖書は「悪霊」「サタン」と呼びます。

 

 対して、主イエスが宣べ伝えてくださった「神の国」は、私たちの存在を見出し、私たちに神さまからの尊厳を取り戻すために、働いてくださるものです。主イエスはガリラヤ中の会堂を行き巡り、神の国を宣べ伝え、悪霊を追い出してくださいました。神の国の知らせはガリラヤ中を行き巡り、パレスチナ全土を行き巡り、そうしていま日本に住む私たちのもとにも届けられています。

 

 

 

主イエスの祈りに祈りを合わせ

 

「存在が、あたかもはじめから存在しなかったかのようにされることが、決して、ないように」――。

 

主イエスはかつてガリラヤの地で、神の国の実現のために祈りをささげてくださいました。私たちがいまだまどろみの中にいるときも、主イエスは一人目覚め、この祈りをささげ続けてくださいました。かつてガリラヤでささげられたこの祈りは、いまも、ガリラヤの地にともされ続けているとわたしは信じます。どれほど困難な状況に陥ろうとも、主イエスの祈りは、決して消えてしまうことはありません。そのともしびはいまも、確かに燃え続けています。

 

私たちはいまこそ、主イエスのこの祈りに私たち自身の祈りを合わせてゆく必要があります。私たちの内にこの主イエスの祈りをともし、それを私たち自身の心からの祈りとしてかかげ続けてゆきたいと願います。

 

どうぞ、私たちが互いの存在を認め合ってゆくことができますように。相手の内に神さまからの尊厳を認め、互いをかけがえのない存在として大切にしあってゆくことができますように。どうぞ主よ、私たちが一歩一歩、平和の道を歩んでゆくことをなさしめてください。