2014年8月31日「新しいぶどう酒は新しい革袋に」

2014831日花巻教会説教

聖書箇所:マルコによる福音書21822

「新しいぶどう酒は新しい革袋に」

 

 

「新しいぶどう酒は新しい革袋に」

 

ことわざのように用いられる言葉として、「新しいぶどう酒は新しい革袋に」という言葉があります。「新しい内容を表すには、それに対応する新しい形式が必要だ」という意味で使われます。これは言い換えると、「新しい内容を従来の古い形式に入れてはならない」ということでもあります。よって、「新しいぶどう酒を古い革袋に入れるな」と言われることもあります。

 

これらの言葉は、本日の聖書箇所であるマルコによる福音書222節に由来しています。22節《また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。》先ほどのことわざは、このイエス・キリストがおっしゃられたたとえに由来しているのですね。

 

ただ、私たちは現在、ワインと言えば瓶詰めにされたものしか見ていないので、革袋がたとえとして用いられても、あまりピンと来ないところがあります。聖書が記された時代のパレスチナでは、水やワインなどの飲み物は革袋に入れて持ち運んでいたようです。当時の人々にとって革袋は日々の生活の必需品であり、主イエスがおっしゃられたこのたとえも身近に感じられたことでしょう。

 

では、なぜ新しいぶどう酒を古い革袋に入れては駄目なのでしょう。ここでの《新しいぶどう酒》とは、ボジョレー・ヌーボーなどの新酒のことではなく、「これから本格的に発酵しはじめるぶどう酒」のことが言われています。

 

ぶどうの果汁は発酵することによってアルコールを生成しワインとなってゆくわけですが、そのためには数か月ほどの時間がかかります。その発酵の過程で、アルコールと共に炭酸ガスが生成されてゆきます。もしワインを熟成させるための入れ物として古い革袋を使っていたとしたら、柔軟性を失い硬くなってしまっている革袋は炭酸ガスによってふくれあがって、遂には破けてしまう可能性があります。そうすると、中身のワインが流れ出て、外の革袋も使い物にならなくなってしまいます。

 

「新しいぶどう酒を古い革袋に入れるな」「新しいぶどう酒は新しい革袋に」という言葉は、このような当時のワインづくりの様子を踏まえているのですね。

 

 

 

神さまの言葉と私たち

 

 少しご一緒にイメージを膨らませてみましたが、では、主イエスはここで、どのような事柄を表そうとしてこのぶどう酒と革袋のたとえを用いられたのでしょうか。

 

 初めに、《ぶどう酒》ですが、このぶどう酒が指し示すものを、本日は「神さまの言葉」として捉えてみたいと思います。そうすると、《革袋》はどうなるでしょうか。本日は、《革袋》とは、神さまの言葉を受け入れる「私たち自身」となります。ぶどう酒のように注がれる神さまの言葉と、それを受け入れる私たち人間。まずはそのように、このたとえを捉えてみたいと思います。

 

ただし、このたとえのポイントは、神さまの言葉が《新しいぶどう酒》として表現されているところです。熟成された年代もののワインではなく、「これから発酵しはじめる新しいワイン」として表現されています。

 

 熟成され完成されたワインは、もはやアルコールを生成することも炭酸ガスを生成することもほとんどありません。発酵を終え、まるで静かに眠りについているような状態であるのが熟成されたワインです。

 

 対して、これから本格的に発酵をはじめるワインは、活動的です。活発にアルコールを生成し続け、炭酸ガスを生成し続けます。そのように、じっとしているのではなく活発に動き続けているものとして「神さまの言葉」がイメージされているところが、このたとえの面白さであるということができるでしょう。発酵の作業は、まさにこれから本格的に始まってゆくということになります。

 

 

 

《新しいぶどう酒》としての神の国の福音

 

主イエスはガリラヤで宣教を始められたとき、《時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい》115節)とおっしゃいました。

 

神の国の福音を宣言する主イエスの言葉。新しく語られたこの主イエスの言葉こそ、《新しいぶどう酒》というイメージがふさわしいものであるでしょう。《新しいぶどう酒》が指し示すものとは、神さまからの新しい言葉である、この「神の国の福音」の言葉です。この神の国の福音は、これから発酵を始めるぶどう酒のように、これから、活き活きと働いてゆくことになります。

 

ぶどう酒を注がれる革袋が「私たち自身」であるとすると、この《新しいぶどう酒》を受け入れるには、当然私たちも《古い革袋》のような状態のままではいけない、ということになります。柔軟性を失い、硬直した状態になってしまっていては、神の国の福音を受け入れることはできないからです。私たちもまた、《新しいぶどう酒》を受け入れるにふさわしい《新しい革袋》に変わってゆくように求められている、と捉えることができます。

 

 

 

硬直化した社会

 

 主イエスが宣べ伝えられた「神の国の福音」が《新しいぶどう酒》であるとすると、では、「熟成されたぶどう酒」とは、何を指し示すでしょうか。それは、神さまがかつてイスラエルにお与えになった「律法」がそれに該当している、ということができます。かつて神さまはモーセを通してイスラエルに神の言葉として律法をお与えになりました。それも神の言葉には違いがありませんが、同時に、いまや発酵を終えたワインでもあります。そのワインを受け入れてきた革袋も、長い年月の末に柔軟性を失い、硬直化してしまっていたとしたら、どうでしょうか。この硬直した《古い革袋》に象徴されているものとは、当時のイスラエル社会そのものです。

 

 福音書には、当時のイスラエルの社会が《古い革袋》のように硬直化してしまい、それによって多くの人が苦しんでいた様子が記録されています。神の言葉としての律法はすっかり社会の制度と化し、その活き活きとした働きを失ってしまっていました。そうして社会の制度に忠実な者はよしとされ、そうではないものは差別され、のけ者にされる状態が続いていました。

 

 そのような中、イエス・キリストが現れ、新しい神の言葉として「神の国の福音」を宣べ伝え始められました。主イエスはおっしゃいます、《時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい》。

 

 主イエスの言葉はまさに生きた神の言葉として、以後、多くの人を動かしてゆくことになります。主イエスと出会った人々は、その人生が新しくされ、変えられてゆきました。その多くが、硬直化した社会によって犠牲を強いられていた人々でした。病いによって「罪人」の烙印を押されている人々。職業の種類によって「罪人」のレッテルを貼られている人々。それら社会の片隅に追いやられている人々の心に向けて、神の国の福音が語られてゆきました。《新しいぶどう酒》において休むことなく発酵が起こってゆくように、主イエスの言葉は人々を動かし、その人生を新しくし、硬直化した社会に変革をもたらし始めたのです。

 

 その活動は、《古い革袋》の状態にとどまっている人々の目には、のっぴきならない事態として映ったことでしょう。制度を守ることを第一とする人々にとって、主イエスの言葉はまるで自分たちの在り方を否定するもののように感じたことでしょう。主イエスの言葉は、《新しいぶどう酒》が《古い革袋》を破いてしまうように、いつか自分たちの社会の制度も秩序もすべて壊してしまうかもしれない……。そのような危険と恐れを、直感的に感じた人々もいたことと思います。

 

 

 

断食についての問答

 

 本日の聖書箇所の冒頭には、主イエスの活動にとまどいを覚えた人々と主イエスの問答が記されています。1819節《ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」/イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。/しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。…」》。

 

 イスラエルには古代から、神さまに対する信仰の姿勢の一つとして、断食をする習慣がありました。律法にも、イスラエルにとって重要な日(贖罪日など。レビ記1629節を参照)には断食という苦行をしなければならないということが記されています。

 

 この場面において、ある人々は主イエスに対して、「洗礼者ヨハネの弟子たちやファリサイ派の人々は断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか?」と問いかけます。当時の社会の在り方からすると当然であることを、主イエスとその弟子たちはしていない。なぜだろうか……?

 

 この問いは単純に素朴な疑問であったのかもしれませんし、もしくは、暗に非難を含んだものであったのかもしれません。いずれにせよ、ある人々によって、主イエスの言動は理解できないものとして映りました。

 

 それに対する主イエスの答えは、「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない」というものでした。ここでの《花婿》とは主イエスご自身のことです。当時、結婚式はもっとも喜ばしい行事として、地域の人々から盛大に祝われるものでした。主イエスはご自身が人々と共にいるこの時を結婚式の祝宴にたとえて、「花婿が一緒にいるのに婚礼の客は断食することはできない」とお答えになりました。

 

 神の国の福音を受け入れる私たちにふさわしい新しいあり方とは、もはや苦行や断食ではない。共に祝い、共に喜ぶ祝宴である。そのように主イエスはおっしゃられました。

 

 先週は、主イエスが社会から「罪人」のレッテルを貼られた人々や徴税人と一緒に食事をされた場面をごいっしょにお読みしました。主イエスの宣べ伝えられた神の国においては、一人ひとりがかけがえのない存在として招かれています。「一人ひとりに神さまからの尊厳が与えられている場」、それが主イエスが宣べ伝えられようとした神の国です。私たち一人ひとりが神さまからかけがえのない者として大切にされているということ、その喜びの知らせを主イエスは私たちに伝えてくださいました。

 

 この神の国の福音に私たちが心を開き、やわらかに受け入れるとき、私たちにふさわしいあり方とはもはや禁欲的に苦行をすることではなくなります。そうではなく、共にこの大いなる喜びを分かち合ってゆくことが、私たちにふさわしい新しいあり方となります。

 

 

 

花婿が奪い取られる時

 

 そう述べた後、主イエスは次の言葉を加えられます。20節《しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる》。ここで暗示されているのは、この先に起こる主イエスの十字架の死です。祝宴の喜びの中で、主イエスは御自分が奪い取られる時が来る、ということを予告なさいました。

 

 先ほどのぶどう酒と革袋のたとえで言いますと、神の国の福音とは《新しいぶどう酒》でした。《新しいぶどう酒》の登場は、《古い革袋》にとっては、一つの危機的状況です。《新しいぶどう酒》と《古い革袋》との間には、緊張関係が生じてゆくことになります。主イエスはこの時すでに、ある人々から御自分の命が奪われるかもしれないことを予感してらっしゃったということが分かります。

 

 

 

かたくなな私たちをも

 

 けれども、主イエスは、《古い革袋》にこだわり、どうしても変わってゆくことができなかったその人々のことをも、愛しておられました。すべての人が《新しい革袋》に変わってゆくことができるわけではないことも、主イエスはご存じであったでしょう。主イエスは懸命に人々を神の国の祝宴に招きながらも、その招きを自ら拒み続けてしまう人々のことをも、同時に、祈り続けてらっしゃったことでしょう。

 

主イエスにつき従った人々の多くが、神の国の福音に出会いながら、主イエスの生涯の最後にはまたもとのかたくなな《古い革袋》の状態に戻って行ってしまいました。主イエスへの迫害が強くなるにつれ、一人また一人と人は去ってゆきました。男性の弟子たちも遂には主イエスを見捨てて逃げてゆきました。

 

私たちもまたそうでありましょう。神の国の福音に触れながら、それに心動かされながら、なかなか新しい自分に変わってゆくことができない。私たちは気が付くと、まるで《古い革袋》のように、神さまと隣人にかたくなになってしまっている自分自身を見出します。

 

 

 

自ら引き裂かれた主

 

 主イエスは新しく変わってゆくことができないこの私たちをも愛し、極みまで愛し続けてくださいました。私たち一人ひとりを、決して失われてはならない、かけがえのない存在として愛して下さいました。主の愛と祈りが極まるその中で遂に起こった出来事は、主イエスご自身が《新しいぶどう酒》と《古い革袋》との間で引き裂かれた、ということでした。それが、ゴルゴダの丘の、主イエスの十字架の死の出来事です(マルコによる福音書153738節)

 

主イエスは私たちを愛するあまり、《古い革袋》を御自分の体の一部となさいました。そうして《古い革袋》である私たちが引き裂かれてしまう代わりに、御自身が《古い革袋》として引き裂かれることをお選びになってくださったのです。

 

 

 

主の愛と祈りに立ち還り

 

十字架の上で、引き裂かれた主の体から、流れ落ちてゆく《新しいぶどう酒》――。

 

そうして起こったこととは、この地に生きる私たちすべての者が、主の体から注ぎ出される《新しいぶどう酒》を受け入れる《新しい革袋》とされたことです。

 

もはや私たちは、自分が《古い革袋》であるか《新しい革袋》であるか、問われることはありません。私たちすべての者が“あるがまま”に、一つに結ばれて、神の国の福音を受け入れる《新しい革袋》とされているからです。いまや、私たちすべての者が互いに結び合わされ、一つのものとされています。この場所において、必要のない存在というのは、誰一人としてありません。たとえ私たち自身から見て私たちが《古い革袋》のようであっても、神さまの目から見て、今や私たちは主イエスを通して《新しい革袋》とされています。ここに、主イエスの祈りが実現されています。私たちの内に、新しい神の言葉――福音が響いています。

 

この福音の喜びの中で、私たちもまた、互いをかけがえのない存在として大切にしてゆくことができますようにと願います。互いにかたくなになって敵対し合うのではなく、互いをやわらかに受け入れ、まことに尊びあってゆくことが出来ますように。いま共に主の愛と祈りに立ち還り、和解に向けての決意を新たにしたいと願います。