2014年9月21日「安息日になすべきこと」

2014921日花巻教会説教

聖書箇所:マルコによる福音書316

「安息日になすべきこと」

 

 

尊厳への渇き

 

 マザー・テレサは「人は人間としての尊厳に渇いている」ということを繰り返し語ったそうです。人として大切にされること、尊ばれること。私たちが生きる上でもっとも大切なその「尊厳」に私たちは渇いている、というのです。

 

自分自身が尊ばれず、大切にされていないと感じるとき、私たちは知らずしらず、こころに渇きを覚えます。いま、非常に多くの人が――子どもも大人も――、心のどこかに渇きを覚えながら生活しているのではないでしょうか。

 

自分はいま何に渇いているのか。何を求めているのか。私たちはそれをなかなか言葉にできません。うまく言葉に出来ないけれども、しかし確かに、心のどこかに渇きがある。この渇きは、国を超えて、文化を超えて、宗教を超えて、私たちに共通しているものでしょう。私たちがなかなか言葉にはできないそれを、マザー・テレサはそれを「人間としての尊厳への渇き」と的確に表現しました。

 

私たちの社会は現在、人間としての尊厳を感じることがますます困難な状況になってゆきつつあります。自分がかけがえなく大切な存在であるということが、実感できづらくなっている。学校で、職場で、その他さまざまな機会において、そのことは起こっているのではないでしょうか。(ここにいるのが別に自分でなくてもいいのではないか)、(自分の代わりなど、いくらでもいるのではないか)……私たちの社会には、自分がいま・ここにいることの必然性を見失ってしまう場面が数多くあります。その経験が積み重なってゆくにつれ、私たちは自分自身を尊ぶ心を見失ってゆきます。

 

 子どもたちの中には尊厳という言葉をいまだ知らない子もいるでしょう。しかしたとえ尊厳という言葉を知らなくても、その言葉が意味することの大切さは知っています。そしてまた、それがないがしろにされることの痛みや悲しみを、全身で知っているでしょう。

 

 イエス・キリストの言葉は「命の泉」のようである、と表現されることがあります。なぜ命の泉なのか。それはイエス・キリストの言葉が、他ならぬ、私たちのこの「渇き」に向けて語られているからです。私たちの内にある尊厳への渇きを癒すために、主イエスは私たちのもとにやってきてくださいました。私たちが自分自身のかけがえのなさを感じることができるように。私たちが自分自身をまことに大切にしてゆくことができるように――私たちの荒れ地に泉を湧き出でさせるため、主イエスは私たちのもとにやってきてくださいました。

 

 本日の聖書箇所には、片手が不自由な状態にある男性が登場します。原文では、この男性の手の症状について、印象的な表現がなされています。日本語の聖書で「萎えた」と訳されている語は、原文では「水が涸れて乾燥している」状態を表す言葉が使われており、直訳すると「枯れた手をもつ人」となります。男性の手の症状に対して、「水気を失い枯れてしまっている」という表現が使われているのですね。

 

 本日は、この独特の表現を、私たち一人ひとりが抱えている「人間としての尊厳への渇き」を象徴するものとして受け止めてみたいと思います。男性は主イエスとの出会いによって水気を失った手が元どおりにされました。それは主イエスを通して、この男性の存在に人間としての尊厳が取り戻された、ということの「しるし」です。

 

 

 

 すべてはただ、あなたのために

 

 マルコによる福音書312節《イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。/人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた》。

 

 主イエスと男性が出会ったその日は、安息日でした。安息日とは週の第七日目のことで、古代よりイスラエルの人々がもっとも大切にし続けてきた聖なる日です。この日にはあらゆる労働をすることが律法の規定で禁止されていました。

 

 当時、ファリサイ派と呼ばれるグループがありました。安息日の規定を始めとして、律法のさまざまな規定を忠実に守ろうとしていたグループです。この人々が大切にしていた姿勢とは、「すべては神さまのために」というものでした。その姿勢自体はまことに尊いものですが、ファリサイ派の中には、神さまに関することを重視するあまり、結果的に人間に関することへの関心が薄れてしまっていた人々もいました。神さまの方ばかり見ようとするあまり、いま目の前にいる人々がどのような状況にあるか、どのようなことを必要としているかが見えていなかったのです。

 

 主イエスはそのような状況にあるファリサイ派の人々に対し、いま目の前にいる人を見つめるべきことをお伝えになりました。律法の規定をばかり見るのではなく、いま目の前にいる人がどのような状況にあるのかを見つめ、そこから行動を起こすべきだと訴えたのです。

 

 ファリサイ派の人々と主イエスとでは、そもそも、世界を観る視点が異なっていた、ということができるでしょう。ファリサイ派の人々がもっていたのは、「すべてはただ、神さまのために」というまなざしです。信仰者としてはまことに素晴らしいものですが、この視点に立っている限り、律法の規定が人間の状況よりも優先されるべきだ、という結論になるでしょう。突き詰めて言うと、人間がどのような状況にあろうと、関係はない。あらゆる人間の状況を飛び越えて、神さまを見つめることが大切であるからです。

 

 対して、主イエスが新しくお伝えになったのは、「すべてはただ、あなたのために」というまなざしです。ここでの「あなた」とは、いま目の前にいるその人のことを言っています。この視点に立ったとき、いま目の前にいる人の状況が律法の規定よりも優先されるということになります。いま目の前にいる人がどのような状況にあるのかに全神経を集中させることこそ大切となります。

 

 文字の上では、主イエスの教えにおいては「神さま」という言葉が無くなってしまったようにも見えます。ファリサイ派は、主イエスのこの教えを神さまに対する冒瀆として捉えました。しかしここでは、ではいったい誰がこの言葉を発しているのか、ということが決定的に重要となるでしょう。

 

「すべてはただ、神さまのために」と言っているのは、あくまで私たち人間です。対して、「すべてはただ、あなたのために」と言ってくださったのは、神の御子であるイエス・キリストです。神ご自身が、イエス・キリストを通して、「ただ、あなたのために」と目の前にいる私たち一人ひとりに語りかけて下さいました。

 

 

 

「真ん中に立ちなさい」

 

 ファリサイ派の人々はこのことを理解することはできませんでした。主イエスのことを誤解し、神さまを冒涜する者だとみなしたのです。

 

 主イエスが会堂にお入りになった時、会堂にいたファリサイ派の人々は、主イエスの行動に注目していました。その場にいた手の不自由な男性に対して主イエスがどう対応されるか、注目していたのです。もしも主イエスが男性を治療しようとしたのなら、安息日の規定に違反した、として訴えるつもりでいたのでしょう。先ほど、安息日には労働が禁止されていることを述べましたが、ファリサイ派の人々は医療行為をも安息日にしてはならない「労働」として捉えていたようです。

 

主イエスはファリサイ派の人々の密かな視線に気づいていらっしゃったのでしょう。主イエスは手の萎えた男性に向かって「真ん中に立ちなさい」とおっしゃいました。主イエスはあえて御自分から声を上げられ、ファリサイ派の人々の面前に歩み出られました。

 

34節《イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。/そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた》。

 

 主イエスに突然声をかけられた男性はびっくりしたことでしょう。大勢の中に一人に過ぎなかった自分が、突然声をかけられたからです。安息日ということで、おそらく普段よりもたくさんの人が祈りをささげに会堂に集まっていたでしょう。大勢の人々に紛れ、この男性も会堂の端の方で、そっと祈りをささげていたのかもしれません。律法学者やファリサイ派などの偉い先生方の後ろで、祈りをささげていたかもしれません。

 

 男性は、この場にいるファリサイ派の先生方が自分には何の関心ももってはいないことを知っていたでしょう。ファリサイ派の先生方は、自分を一人の人格をもった人間として見てくれることはない。この先生方は神さまのことばかり見ようとしていて、自分たち病いをもった弱い立場にある者のことは何ら見ようとはしていない。

 

 先ほど、男性の病いの症状に対し、原文では「水気を失い枯れてしまっている」という表現が使われていることを述べました。人々からの無関心の中で、男性は次第しだいに自分自身のかけがえのなさを見失っていっていたのではないでしょうか。病いを抱えるこの男性は、内に人間としての尊厳への渇きを抱えながら生活していたのではないかと思います。

 

 しかしこの瞬間、大勢の中の一人であった自分に、声がかけられました。男性は声を発する主を見て、ハッとしたことと思います。そこで出会ったのは、今まで出会ったことのないまなざしでした。

 

 そのまなざしとは、自分を一人の人格をもった存在として見つめてくれているまなざしでした。自分のことを見ているようで、何も見ていないまなざしではない。他ならぬ、このわたしを見てくれているまなざし。全神経を集中させ、心を尽くし思いを尽くして、自分を見つめてくれているまなざし――。

 

 

 

神の国への招き

 

 男性は立ち上がり、イエス・キリストに招かれるがままに、会堂の真ん中へと歩み出ます。今まで遠慮して足を踏み入れたこともなかった、会堂の真ん中に。いつもその中央の座を占めていたファリサイ派の人々は、周囲にしりぞいてゆきます。

 

 公衆の「真ん中」という場所は、たとえば公の裁判の時などに被告人が立たされる場所でもありました(ヨハネによる福音書83節)。従来は恐ろしい場でもあったわけですが、ここでの「真ん中」とはもはや、人を裁き罰を与えるための場ではありませんでした。では、主イエスが共におられるこの「真ん中」とは何でしょうか。それは「神の国」です。主イエスはここで、男性をご自分の神の国のただ中へと招き入れてくださったのです。

 

ここでの神の国とは、「一人ひとりに神さまからの尊厳が与えられている場」のことを言っています。私たちが抱える尊厳への渇きを癒そうとする場が、主イエスが宣べ伝えて下さった神の国です。男性は主イエスが共にいてくださるこの場所で、自分の存在がかけがえなく大切であるということを初めて、全身で実感することができたことでしょう。

 

 

 

渇きの癒し

 

主イエスはファリサイ派の人々に向かって、《安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか》と問いかけられます。安息日に許されているのはもちろん善を行うことであり、命を救うことです。いま目の前にいるひとのために善を行い、その人の命のために行動することこそ重要なことであることを主イエスは伝えようとされました。

 

いま目の前にいる人の生命と尊厳こそ、何よりも優先されるべきことです。あらゆるイデオロギーよりも、あらゆる信条よりも、生命と尊厳こそが第一とされるべきです。一人ひとりの生命と尊厳にまさって価値のあるものはありません。けれども、ファリサイ派の人々はこの主イエスの真剣な問いかけには黙ったままでした。

 

5節《そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった》。

 

 主イエスは人々のかたくなな心に怒りと悲しみを感じられました。そして、男性に向かって、「手を伸ばしなさい」とおっしゃいました。男性が手を伸ばすと、手は元どおりになりました。

 

 この奇跡の出来事が指し示しているのは、男性の「尊厳への渇き」が主イエスを通して癒された、ということです。主イエスの神の国に招き入れられた男性は、今までどうしても癒されることのなかった渇きが癒されました。主イエスが共におられるここが、命の泉が湧き出でている場所でした。男性はその命の泉のもとで渇きが癒され、人間としての本来の尊厳を取り戻し始めました。

 

 

 

人間の尊厳の回復のために

 

 6節《ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた》。

 

この出来事を目の当たりにしたファリサイ派の人々は自ら外に出てゆきます。ファリサイ派の人々は、主イエスの神の国の招きを受け入れることができませんでした。そうしてすぐに政治的指導者であったヘロデ派の人々と一緒になって、主イエス殺害の計画を相談し始めます。以後、主イエスは「神を冒涜した者」としてはっきりと攻撃の対象とされてゆかれることとなります。

 

安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない227節)と主イエスはおっしゃってくださいました。これは、人となられた神の御子による、人間の尊厳の回復の宣言です。どれほど迫害されようと、主イエスはこのことの実現のために働き続けることをお止めになりませんでした。そのご生涯の最後の瞬間に至るまで、私たち人間のために、祈り続けてくださいました。

 

 主が私たちを大切にしてくださったように、私たちがいま目の前にいる人を大切にするとき、そこに共に主はおられます。私たちが互いに愛し合うヨハネによる福音書133435節)ときそこに神の国があり、そこに命の泉が湧き出でています。私たちが互いを尊び大切にしあうこの歩みが、同時に神さまに栄光を帰す歩みともなってゆくでしょう。

 

一人ひとりに神さまからの尊厳が回復されてゆくため、どうぞ私たちが共に働いてゆくことができますようにと願っています。