2014年9月7日「神に栄光、人間に尊厳」

201497日花巻教会説教

 

聖書箇所:マルコによる福音書22328

「神に栄光、人間に尊厳」

 

 

安息日 ~「神さまため」と「人のため」

 

 本日の聖書箇所には、「安息日」という言葉が出て来ました。安息日とは、週の第七の日のことです。ユダヤ教では金曜日の日没から土曜日の日没までがそれにあたります。キリスト教でいうと、日曜日にあたる日ですね。イスラエルの人々は、旧約聖書の時代から、この安息日を大切に守り続けてきました。

 

安息日に関するさまざまな決まりについては、旧約聖書の律法に記されています。その代表的なものは、「労働の禁止」です。人々はこの安息日には仕事や家事を中断し、安息のために時間をささげました。

 

旧約聖書を読んでみますと、なぜ安息日が定められたのか、二つの捉え方があることが分かります。一つは、天地創造において神さまが御自分の仕事を終え、第七の日に休息なさった(創世記223節)ことを起源とする捉え方です。出エジプト記20811節《安息日を心に留め、これを聖別せよ。/六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、/七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。/六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである》。

 

天地創造を終えられた神さまが安息なさった特別な日だから、この第七の日を特別な日とする、という捉え方ですね。この視点に立つと、安息日とは神さまを賛美し、神さまに栄光を帰すための日であるということになります。七日目に仕事や家事を中断するのは、神さまを賛美するために時間をささげるためです。

 

一方で、旧約聖書の中にはもう一つの捉え方もあります。安息日が定められたのは、六日の間働き続けた奴隷や家畜に休息をあたえるため、という考え方です。出エジプト記2312-13節《あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである》。ここでは、神さまのためというよりは、むしろ私たち人間のために、安息日があるのだということが言われています。七日目に仕事や家事を中断するのは、人々を過度な労働から守るためということになります。

 

 

 

「神さまため」というメインストリート

 

 旧約聖書の中には、この二つの捉え方が共存しています。どちらかだけが正しい、というわけではもちろんないでしょう。どちらも、欠けてはならない大切な事柄として記されているのだと思います。

 

ただし、そのどちらに強調点を置くかは、人によって異なるかもしれません。安息日は神さまのためにあるのか、もしくは人のためにあるのか。たとえば、これを日曜日の礼拝に置き換えてみたらどうでしょうか。私たちが日曜日に教会で礼拝をささげるのは、神さまを賛美するためでしょうか。もしくは、私たちの魂が安息を得るためでしょうか。私たちは普段どちらに強調点を置いているでしょうか。

 

キリスト教の歴史においては、「神さまのため」ということが、メインストリートとされてきました。街の通りのたとえでいうと、「神さまのため」という視点が最も大きい大通りに位置づけられてきたということができるでしょう。よって、「わたしたち人間のため」という視点は、大切なこととされながらも、大通りの脇の、少し小さな通りに位置付けられてきたということができると思います。

 

そしてそれは旧約聖書の時代から引き継ぐ伝統でありました。やはり古代イスラエルの人々も同様に考えていました。安息日は何のために定められたか。それは第一に、「神さまのため」である――この捉え方が時代が下るほどに確固としたものとなっていったようです。安息日は「人のため」に定められたという捉え方は大切な事柄とされながらも、脇道にあたるものとされてゆきました。

 

そのような中で時に起こったことは、「神さまを賛美する」という視点が前面に出るあまり、「人間のため」という視点がないがしろにされていってしまう、ということでした。安息日で言えば、人々を過度な動労から守るためという視点が埋もれて行ってしまったのです。

 

旧約聖書の時代には、そのような状況が繰り返し起こったようです。たとえばイスラエル国の重要な役割を担っている祭司たちが「神さまのため」の祭儀に熱中するあまり、国民の切実なる求めに関心を払わなくなっていってしまった、ということが繰り返し起こりました。そのような状況を痛烈に批判し、神さまの方を向くだけではなく、もっと人間に向き合い、人々の声を聴くべきことを語ったのが、イザヤなどの預言者と呼ばれる人々でした。預言者たちは、大通りを悠々と歩く人々に対して、脇道から「人間のために」という視点の復興を叫び続けました(イザヤ書5838節)

 

 

 

「人間のために」をも、等しく大切なものとして

 

聖書を読んでみますと、「神さまのために」という視点も、「人間のために」という視点も、どちらも大切な事柄として書かれていることが分かります。それを受け止める私たちがバランスの崩れた受け止め方をしてしまう時、問題が発生するということなのでしょう。

 

ただし、私たちが「神さまのために」という視点をメインストリートとして歩いている限り、このようなバランスの崩れは常に起きうる可能性をもっているということができます。「ただ神にのみ栄光」という世界観は、人間についての事柄に無関心になってしまう危険性を常に秘めているからです。そもそも「宗教」というものは、そのような危険性を常に秘めているものなのかもしれません。

 

しかし、イエス・キリストはこのような伝統的な世界観に対して、決定的な変化をもたらされました。街の通りのたとえでいいますと、通りの構造そのものに大工事を行われました。それは、大通りを一本ではなく、二本にする、という大変革でした。従来の「神さまのために」という大通りを大切にしながら、しかしその隣に「人間のために」という大通りをも新しく造ろうとなさったのです122834節)

 

 

 

安息日についての問答

 

 本日のマルコによる福音書の聖書箇所は、主イエスのお考えがはっきりと示された場面です。22324節をお読みいたします。《ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。/ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った》。

 

 ある安息日に主イエスと弟子たちの一行が麦畑を通って行った時のことです。弟子たちが歩きながら麦の穂を摘み始めました。弟子たちのその姿が、ファリサイ派の人々の目に留まりました。ファリサイ派は、律法を厳格に守ることにより、周囲と一線を画そうとしていたグループです。「すべては神さまのために」という伝統的な世界観を懸命に生きていた人々である、ということができます。

 

ファリサイ派の人々は、このとき麦の穂を摘む行為が安息日に禁止されている「労働」に当たるとして、問題視しました。ファリサイ派の人々は主イエスに、「ご覧なさい。なぜ、あなたと弟子たちは安息日にしてはならないことをするのですか」と抗議します。

 

 それに対する主イエスの答えはこうでした。2526節《イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。/アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」》。

 

ここでは、旧約聖書のある出来事が引用されています(サムエル記上211-7節)。イスラエルの英雄ダビデ王が、旅の途中で食べ物に困窮していたとき、祭司だけが食べるものとされていた聖所のお供えのパンを食べた、という出来事です。律法では、神さまのために供えられたパンは、祭司だけが食べることができると決められていました(レビ記249節)。その規定に違反し、いわば特例的に、ダビデと一緒にいた者たちはパンを与えられて食べたのです。しかしパンを与えた祭司も、ダビデも供の者たちも罰されることはありませんでした。

 

これは旧約聖書において、「神さまのために」ということよりも「人間のために」ということが優先された事例です。旧約聖書の中では珍しい事例であるということができますが、主イエスはこれを大切な出来事として、心に刻んでいらっしゃったのでしょうか。多くの人々には見過ごされているこの事例をここで主イエスは取り上げられました。

 

 

 

いま目の前で苦しむ人々のことをこそ

 

 麦の穂を摘んだ弟子たちはその時、ダビデ王と同様、空腹であったのかもしれません。しかしファリサイ派の人々には、弟子たちがどのような状態にあるかにはまったく関心はありませんでした。もし「神さまのために」ということがすべてであるなら、私たち人間がどのような状態であろうと関係はない、ということになるでしょう。

 

律法を厳格に守り、神さまのことを第一とする姿勢は、まことに尊いものだということができます。しかしこの姿勢が陥ってしまいがちな落とし穴は、神さまのことを第一とするあまり、目の前にいる人々のことが見えにくくなってしまう、ということです。神さまのことばかり見ようとして、いま目の前にいて困難な状態にある人々のことが見えにくくなってしまう。ファリサイ派の一部の人々もまさに、そのような状態に陥っていました。

 

主イエスはここで、ダビデ王の事例を引き合いに出すことによって、いま目の前で苦しんでいる人々のことをこそまず第一に見つめるべきことを伝えられました。

 

 

 

「安息日は人間のため」という宣言

 

 そうして、主イエスははっきりと次の宣言をなさいます。27節《そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。…」》。

 

 先ほど、安息日は何のためにあるのか、ということをお話ししました。旧約聖書の中には、第一に「神さまのため」、第二に「私たちに人間のため」という捉え方があるということをお話ししました。主イエスはここで、後者の「人のため」という側面を、前面に押し出されています。今までは「神さまのために」という視点の脇に追いやられていた「人間のために」という視点を、前者と等しく大切なものして取り上げられたのです。

 

安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」――。私は、この言葉を主イエスがおっしゃった言葉の中で最も衝撃的な言葉の一つであると思っています。この言葉について考えるたび、胸の内に、驚きの感情が湧きあがります。(そんな考え方をしていいのだろうか…!?)ととまどいをさえ感じることもあります。それは私の内に、信仰者は何事も「神さまのために」行為しなければならない、という考えが染みついているからでしょう。

 

私にとってもこれほど驚きであるということは、当時この言葉を耳にしたファリサイ派の人々にとってはなおのこと、衝撃的であったことでしょう。「安息日は神さまのためにある」と信じて疑っていなかった彼らにとって、「安息日は人間のためにある。人間が安息日のためにあるのではない」という言葉は、天地がひっくり返るような言葉として聴こえたのではないでしょうか。またそして、信仰者としてとても受け入れることのできない言葉としても聴こえたことでしょう。

 

 

 

一人ひとりのかけがえのなさ ~人間の尊厳

 

 対話の締めくくりとして、主イエスはおっしゃいます。28《「…だから、人の子は安息日の主でもある。」》。

 

ここでの《人の子》とは、単純に解すると、「一人の人間」という意味になります。または、「一人ひとりの人間」。28節を言い直すと、「だから、一人のひとりの人間が安息日の主権者である」となります。これも、当時の価値観からすると、衝撃的な言葉です。

 

 今までの考え方からすると、神さまの栄光こそが第一であり、その大いなる栄光の前では、一人ひとりの人間は「無に等しい」ということになります。突き詰めてゆくとそのような認識に至るのが、従来のイスラエルの世界観でした。神さまの大いなる栄光の前では、人間はまるで土や塵に等しいという世界観です。まことに謙虚な世界観であり、この世界観が人間は皆「平等である」という考えを生みました。神さまの前で人間は皆土くれのようなものであるとすると、王様も奴隷も何ら違いはない、ということになるからです。しかし当時にこの世界観からは、一人ひとりの人間の「かけがえのなさ」や「主体性」という視点は決して出てこない、ということもできるでしょう。

 

対して、ここで主イエスが伝えようとして下さっているのは、一人ひとりの人間が、いかに大切でかけがえのないものであるか、ということです。人間は、神さまの前で、無に等しいような存在なのではない。そうではなく、神さまの前で、一人ひとりの人間はかけがえなく、貴いものである。比べることのできない、大切な存在である。だからこそ、一人ひとりの人間が安息日の主権者なのである――。

 

主イエスが私たちに新しく提示しようとして下さっているもの、それを本日は、「尊厳」という言葉で呼びたいと思います。私たち一人ひとりは、神さまから見て、かけがえなく貴いということ。一人の人となられた神の御子ご自身が、私たち人間の尊厳を宣言して下さいました。

 

 

 

神に栄光、人間に尊厳

 

この神の御子の宣言によって、イスラエルの人々の前に、新しい世界観が提示されました。「ただ神にのみ栄光」という従来の世界観に替わる、「神に栄光、人間に尊厳」という新しい世界観をお示しになったのです。この瞬間、古い意味での「宗教」の時代は終わりを迎えた、ということができるでしょう。主イエスが示されたのは、もはや従来の意味での「宗教」ではありませんでした。では何でしょうか。「道」です。私たち人間が歩くべき、本来の道を、主イエスは示してくださいました。

 

私たちの生きる社会では現在、主イエスが示してくださった道に外れた出来事が数多く起こっています。一人ひとりの人間がまるで物や道具のように軽んじられ、その生命と尊厳がないがしろにされている状態が無数に起こっています。そのような状態である今こそ、主が切り開いてくださった道に立ち還り、私たちのあり方を新しく問い直してゆかねばなりません。私たち一人ひとりに尊厳が確保される社会の在り方を、模索し続けてゆかねばなりません。その一歩一歩の歩みが、同時に、神さまに栄光を帰する歩みともなってゆくでしょう。

 

私たちキリスト教会もまた、いま一度、主イエスが示してくださった道に立ち還ってゆく必要があるでしょう。「ただ神にのみ栄光を帰する」だけではなく、「神に栄光を帰し、人間に尊厳を帰する」道に、私たちは新しく、立ち還ってゆく必要があります。

 

人間として本来歩むべきこの「道」を、私たち一人ひとりが共に歩んでゆくことができますように、ごいっしょに神さまにお祈りをおささげいたしましょう。