2015年1月11日「洗礼者ヨハネの最期」

2015111

聖書箇所:マルコによる福音書61429

「洗礼者ヨハネの最期」


 

洗礼者ヨハネ


本日の聖書箇所は、洗礼者ヨハネの最期を記した場面です。昔から絵画や文学の題材にもなってきた場面です。最もよく知られている作品はオスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』かと思いますが、聖書本文の中にはサロメという名前が出て来るわけではありません。いずれにせよ、読む人々の心に強烈な印象を残してきた場面であると思います。


洗礼者ヨハネとは、イエス・キリストが公の活動を開始するより前に、ヨルダン川で悔い改めの洗礼を授ける活動をしていた人物です。当時多くの人々がヨハネのもとに集い、ヨハネのもとで洗礼を受けていました。主イエスもまたこのヨハネから洗礼を受けられたと福音書は記しています。ヨハネの活動は人々から熱烈な支持を集めていました。ヨハネの活動は権力者たちから危険視されるようになってゆき、ついには捕らえられることとなりました。


マルコによる福音書は、ヨハネが捕らえられた後、それと入れ替わるように、主イエスが神の国を伝える活動を開始したことを記しています。11415節《ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、/「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた》。


キリスト教では伝統的に、ヨハネをイエス・キリストの道を準備する存在として捉えています。これから来られるまことの救い主の道を整え、その道筋をまっすぐにするため13節)、ヨハネが遣わされたのだと捉えてきました。



ヘロデの葛藤


 洗礼者ヨハネからバトンを受け取るようにして活動を開始した主イエスですが、主イエスが活動を始めて間もなく、ヨハネはヘロデによって命を奪われることとなります。本日の聖書箇所はその出来事を回想して記しています。


マルコによる福音書61420節を改めてお読みいたします。《イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」/そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。/ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。/実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。/ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。/そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。/なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。》。


主イエスの名前が知れ渡った時、人々は口々に言いました。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」、「彼はエリヤだ」、「昔の預言者のような預言者だ」。エリヤというのは旧約聖書に登場する預言者です。人々の間で、預言者エリヤは世界の終わりが来る前に再来すると信じられていました。これは主イエスが、というよりは、洗礼者ヨハネのことを当時の人々が再来したエリヤではないかと考えていたことを示しています。ガリラヤ領主ヘロデ・アンティパスは主イエスについて聞き知って、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言いました16節)


 ヘロデはヨハネが自分たちの結婚の不正を指摘したことを理由に、ヨハネを牢につないでいました。ヘロデは内心ヨハネが《正しい聖なる人》であることを知っていて、彼を恐れながらも、同時に保護していました。当惑しながらも、同時にその言葉に喜んで耳を傾けていました。ヘロデの心には、ヨハネの言葉に従おうとするヘロデと反抗しようとするヘロデとがどちらも存在していたようです。


このような心理というのは私たちも経験するものではないでしょうか。正しいことに惹かれながら、同時にその真逆の事柄にも心惹かれている自分を見出すことがあるでしょう。また、ある人のことに好感をもつ自分と、反感をもつ自分とがどちらもいる。私たちの心の中には、善も悪も、「好き」も「嫌い」も、どちらも存在している。このように私たちの心のというものは複雑であり、一筋縄では語ることができないものです。ヘロデもまた心の中に相反する想いを抱き、葛藤の中にあった様子が記されています。ヘロデの内には、ヨハネとの出会いを通して目覚めはじめた良心と、ヨハネに反抗しようとする心とが共存していたようです。


昨年は大河ドラマで『軍師官兵衛』が放映されていましたが、主人公の黒田官兵衛の耳の痛い進言に、豊臣秀吉が耳を傾けようとしながら同時に怒りを覚えている様子が見事に演じられていました。ドラマにおいて、天下人の秀吉は官兵衛の正しさを知りながら、同時に自分に異を唱えてくる官兵衛に怒りを抑えることができません。秀吉は遂には官兵衛を排除するということには至りませんでしたが、ヘロデは葛藤の末、ヨハネを排除する方向へと突き進んでゆくこととなります。


 

洗礼者ヨハネの最期


2129《ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、/ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、/更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。/少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。/早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。/王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。/そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、/盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。/ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた》。


ヘロデの誕生日の祝いの席で、ヘロディアの娘は踊りをおどって、ヘロデと客を喜ばせました。ヘロデは娘に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、さらに「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と言います。当時ヘロデはあくまでガリラヤ領主であり、そのような権限はありませんでした。実際に権力をもっていたのはローマ皇帝であり、ヘロデは娘と客人との前で虚勢を張ったわけですが、ヘロデのこの小さな虚栄心が、大変な結果を招くことになります。


 少女は何を願うか母親のもとに相談に行きます。母親のヘロディアは、「洗礼者ヨハネの首を」と答えます。ヨハネが自分たちの結婚の不正を指摘して、恨みに思っていたからです。少女は大急ぎでヘロデのところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願います。ヘロデはこれを聞いて、非常に心を痛めます。心が痛んだということは、ヘロデの内に良心が働いていたということを示しているのでしょう。しかし、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった、との理由で少女の願いを受け入れます。良心よりも、自分の体面の方を優先させてしまったのです。


 こうしてヨハネの命は奪われることになったわけですが、物語においては、ヘロデの小さな虚栄心とヘロディアの個人的な恨みとが大きな要因としてあったという風に描かれています。ヘロデは自らの権力に酔いしれ、また自分の体面を優先させることによって、良心の声に耳をふさいでしまいました。ヨハネの言葉に従おうとする自分を見出しながらも、結果的には、ヨハネを排除しようとする否定的な力に抗うことができなかったのです。こうして、人間の小さな虚栄心と復讐心のために、旧約聖書の最期の預言者が葬り去られました。


 

「心の向きを変えよ」


 改めて本日の聖書箇所の冒頭に戻ります。主イエスの名前が知れ渡った時、ヘロデは、「わたしが首をはねたヨハネが、生き返ったのだ」とつぶやきました。このつぶやきから、ヘロデが心の憶測でヨハネの死について罪悪感を抱いていたことが示されていますが、なぜヘロデは「ヨハネが生き返った」と感じたのでしょうか。 


伝え聞いたイエス・キリストの姿に、ヨハネの姿が重なって見えたからでしょう。ヨハネはヨルダン川のほとりで人々に「悔い改めよ」と迫りました。それは言い換えれば、「心の向きを変えよ」ということです。善と悪とのどちらにも惹かれ、葛藤の中にいる人々に向かって、善なる方へはっきりと「心の向きを変える」決断をすることをヨハネは迫りました。


ヘロデはヨハネの「心の向きを変えよ」というメッセージに惹かれながらも、そのヨハネの言葉を否定する行動をとってしまいました。自分の良心の声に従うことはできませんでした。そうしてヨハネの命を奪うことによって、その口を封じようとしてしまいました。


これで自分を混乱させる存在がいなくなったと安心していた矢先、ヘロデの耳にイエス・キリストについての知らせが届きます。ガリラヤに人々から熱狂的な支持を得ている新しい指導者が現れた。その人は人々に、「悔い改めて、福音を信ぜよ」と伝えて歩いている――。


ヘロデはこの知らせを聞いて愕然としたのではないでしょうか。ヨハネの口を封じたと思っていたら、また新しく別の者が、「心の向きを変えよ」と言って回っている。大いなる力をもって悪霊を追い出し、人々の病いを癒して回り、大勢の人々から熱狂的な支持を受けている。ヘロデは何か大いなる力の存在を感じ、畏れを覚えたのではないかと思います。自分がその口を封じさせようとしてもなお語り続ける存在がある。自分がどれだけ否定しようとしてもなお自分に「心の向きを変えよ」と言って迫る存在があることをヘロデは知らされたのではないでしょうか。


 

「福音の中で立ち上がれ」


 ただし、洗礼者ヨハネとイエス・キリストの言葉とには、違いもあります。ヨハネは「心の向きを変えよ」と言いました。主イエスは「心の向きを変えて、福音の中で信ぜよ」とおっしゃいました。ここに、決定的な違いがあります。ヨハネと主イエスの違いは、そこに福音――喜ばしい知らせ――があるかないか、です。


洗礼者ヨハネの言葉は、人間が人間自身に向ける厳しい「審き」の言葉です。これは言い換えれば、私たちそれぞれの内にある良心の声であるということができるでしょう。対して、主イエスの言葉は私たちの良心の声とつながりつつ、それよりもさらに深い次元から来ているものです。なぜなら、主イエスの言葉は神さまから人間に向けられた、「ゆるし」の言葉であるからです。洗礼者ヨハネは私たちの良心を表す存在ですが、イエス・キリストは神の御心を表す存在です。


もちろん、私たちにとって、良心の働きは不可欠なものです。とりわけ私たちはいまそれぞれ、「心の向きを変えよ」という良心の声を真剣に受け止めるべき時にいるでしょう。自分たちの社会を、生活を、より良くするために方向転換することを考えながらも、今までの生き方に安住してしまう。私たちは日々、変わることができない自分を見出しています。


この度の東日本大震災と原発事故の経験は私たちの生き方が「変わる」ことを迫るものでありましたが、私たちの社会は、また私たち自身は、変わることができないままでいる部分が多くあります。国の指導者たちに限っては、変わらないどころか、より悪い方向へ逆行してゆこうとさえしています。昨年話題となった(岸見一郎氏の『嫌われる勇気』など)アドラーという心理学者は、「私たちが『変われない』のは、実は私たち自身が『変わりたくない』と決意しているからだ」と分析していますが、「心の向きを変えよ」というヨハネの叫びを、今一度私たち自身の良心の声として受け止め直すことが切実に求められているように思います。


と同時に、私たちに語りかける声は自らの内なる良心の声だけではありません。私たちの良心の声をも超える声が、私たちいつも語りかけ続けています。それはイエス・キリストを通して語られ続けている神さまの声です。この声は、私たちが「変わる」「変われない」を超えて、私たちの存在そのものを受け止め、ゆるし、生か続けてくださっています。たとえ「変わることができない」自分自身を見出しても、それで終わってしまうのではありません。


私たちに向けて語られる神さまの言葉の中には、私たちを裁く言葉は存在していません。ただ、「あなたという存在がどれほどかけがえなく、尊いか」、そのことのみを神さまは私たちに語り続けておられます。私たちがより良く変わってゆくべきなのは、私たち一人ひとりがかけがえなく尊い存在であるからです。決してないがしろにされてはならず、決して失われてはならない存在であるからです。


私たちはこの声に出会い、この福音の声に包まれるからこそ、自らがより良く「変わってゆく」ことへと再び立ち上がってゆきます。「変わることができない」自分を何度も見出しつつ、それでもなお、人生を信頼し、より良い生き方を目指して、歩み出してゆくことができます。


私たちは「変わる」ことができます。福音の力を信頼し、その信頼の中で、自分自身を、この社会を、より良くしてゆきたいと願うなら。イエス・キリストはそう願う私たちを助け、私たちにまことの力を与えてくださる方です。

 主イエスはいまも、私たちの傍らで励まし続けて下さっています。「時は満ち、神の国は近づいた。心の向きを変え、福音の中で立ち上がりなさい」。