2015年1月25日「五千人に食べ物を与える」

2015125日 聖書箇所:マルコによる福音書63044

 

「五千人に食べ物を与える」

 

 

 

 

主は羊飼い

 

本日の聖書箇所の中に、《イエスは舟から上がり、大勢の群集を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた》34節)という一節があります。主イエスはご自分のもとに懸命な想いで集まった人々を御覧になり、《飼い主のいない羊のような》有様を深く憐れまれ、いろいろと教え始められました。

 

 

羊という動物はパレスチナ地方では非常に身近な動物です。羊は群れを成して牧草地から牧草地へと移動しますが、羊だけで移動することはもちろん不可能で、羊飼いが羊を導いてゆくことが必要です。今年はちょうど干支ではひつじ年ですが、聖書は神さまを羊飼いとして表現することがあります。もっともよく知られているのは詩編23編ですね。《主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない》(詩編231節)。神さまが《飼い主のいない羊のような》私たちを正しい道へと立ち帰らせ、私たちの命を守り育んでくださる羊飼いとして表現されています。また新約聖書のヨハネによる福音書では、イエス・キリスト御自身が、《わたしは良い羊飼いである》とおっしゃっています(ヨハネによる福音書1011節)

 

 

 聖書は、いついかなるときもこの羊飼いなるイエス・キリストが共にいてくださることを語ります。私たちが困難な状況にいるときも、悲しみの内にいるときも、いつも共にいてくださる。そうして私たちに必要な言葉を与え、必要な今日の糧を与えてくださることを伝えます。

 

 

 

 

「イスラム国」による人質事件

 

 私たち自身は、しかし、共にいてくださるこのお方のことを忘れてしまいます。困難な状況の立ち会った時、我を忘れて取り乱してしまいます。どうしていいか分からず、途方に暮れてしまいます。

 

 

新しい一年が始まりましたが、私たちの生きる社会は依然として混乱し続けたままです。特に20日に起こった「イスラム国」による人質事件によって、私たちの社会は衝撃を受け、動揺しています。まずは何より人質となっているお二人の命が守られることを共に祈りたいと思います。本日の早朝から、人質となっている一人の湯川さんが殺害されたかもしれないということがニュースが流れましたが、まだ真偽ははっきりとしていません。もうお一人の後藤さんの命が守られますようにと祈ります。

 

また同時に、この度の事件がどのようにして起こったのか、その歴史や背景をきめ細やかに知ってゆくことが必要でしょう。「イスラム国」によるテロ行為は決してゆるしてはならないことです。一方で、昨年8月からのアメリカ軍と有志国によるシリアへの空爆で「イスラム国」の戦闘員が少なくとも数千人死亡しているということが発表されています。そして、その空爆によって「イスラム国」とは関係のない多くの民間の人々が殺されています。その中には数多くの子どもたちも含まれています。「イスラム国」によるテロ行為はゆるしがたいですが、アメリカ軍らによるこのような殺戮行為も決してゆるすことができない行為です。私たちはこの度の問題をさまざまな視点から総合して受け止めてゆかねばなりません。

 

 

また、キリスト教会にとっても、この度の事件は自分たちに深く関わる問題として受け止めてゆくことが必要であると思います。私たちキリスト教徒はこの度の問題をどう受け止めてゆけばいいでしょうか。共に考えてゆかねばならない課題です。

 

 

 私たち自身の心が揺れ動いているいまこの時、心を静かにし、羊飼いなるイエス・キリストの声にご一緒に耳を傾けたいと思います。

 

 

 

五千人に食べ物を与える

 

改めて、本日の聖書箇所をお読みいたします。マルコによる福音書63044節《さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。/イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。/そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。/ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。/イエスは舟から上がり、大勢の群集を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。/そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。/人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」/これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。/イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」/そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。/人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。/イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。/すべての人が食べて満腹した。/そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。/パンを食べた人は男が五千人であった》。

 

 

 本日の聖書箇所は、よく知られた「五千人に食べ物を与える」場面です。主イエスが5つのパンと2匹の魚を分けて弟子たちに配らせると、5000人分の食物となったといういわゆる「奇跡物語」を記したものです。

 

 

 物語は12人の弟子たちが宣教の旅から主イエスのもとに戻ってきたところから始まります。主イエスは弟子たちに、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」とおっしゃいます31節)。多くの人々が出入りしていたので、弟子たちは食事をする時間もなかったからです。主イエスと弟子たちは舟に乗って、人里離れた所へ向かいます。すると、大勢の人々がそれに気付き、主イエスと弟子たちが向かうところへ一斉に駆けつけ、先に到着しました。その数は5000人にも及ぶ数であったことを、福音書は物語の最後に記しています。

 

 

 主イエスは舟から上がり、御自分を待っている人々を御覧になりました。34節《イエスは舟から上がり、大勢の群集を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた》。先ほど、私たち自身は羊であり、イエス・キリストは羊飼いであるという話をいたしました。羊飼いは羊のことをよくご存じです。羊がいまどのような状況にあるか。何を求めているか。必要ならば休息を与え、必要ならば水を与えてくださいます。

 

 いま弟子たちに必要なのは、休息と食事でした。弟子たちは宣教の旅によって心身共に疲れていたのでしょう。主イエスはそのことを見て取られ、弟子たちに食事を与え、人気のないところで休ませられました。一方、いま湖のほとりに集っている大勢の人々に必要なのは、言葉でした。生きる指針を見失い、混乱の中を生きている人々が求めていたのは、生きる力となるような言葉でした。主イエスは《飼い主のいない羊のような》様子で佇む人々に向かっていろいろと教え始められました。主イエスがどのようなことを話されたのかは本日の聖書箇所には記されていませんが、神の国の福音について話されたのではないかと思います。

 

 

 

 

大勢の群集を前にして

 

 時間がだいぶ経ったころ、休息を終えた弟子たちが主イエスのところに来て、言います。《ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。/人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう》。主イエスはかなり長く人々に話をされていたのでしょう。いつしか食事をするべき時間となりました。人々にとって次に必要となるのは、食事と休息でありましょう。弟子たちは人々を解散させるように要望します。そうすれば人々は自分で周りの村へ食べる物を買いに行くであろうと考えたからです。

 

 しかし、これに対する主イエスの言葉は意外なものでした。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」37節)。弟子たちは「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と答えます。1デナリオンは当時の一日分の賃金に相当する額であるそうですから、200デナリオン分のパンというと、すさまじい分量になります。それほど大勢の人々が集っていたことが表現されているのでしょう。

 

 

 主イエスは弟子たちに「パンは幾つあるのか。見て来なさい」とおっしゃいます38節)。弟子たちは確かめて来て言います。「5つあります。それに魚が2匹です」。食べ物を与えようにも、弟子たちの手元には、わずかな食糧しかありませんでした。

 

 

 主イエスの言葉に対する弟子たちの反応から、弟子たちは膨大な数の人々に少々圧倒されているということが伝わってきます。と同時に、どこか無力感を感じてもいたかもしれません。あまりの大勢の人々を前に、自分にできることはないと感じている。主イエスに対する少し刺のある弟子たちの返答は、それら戸惑いと無力感の裏返しであったのかもしれません。

 

 

 弟子たちのこの反応というのは、私たちも実感できることなのではないでしょうか。私たちもまた、自分を圧倒するような何かに出会った時、無力感を感じることがあります。最近はメディアの発達でより多くの情報が私たちのもとに届くようになりました。たとえば、世界中で日々起こっていることを受け止めようとすれば、私たち自身はたちまち許容量がオーバーになってしまうのではないでしょうか。インターネットのニュースを見ますと、日々悲惨なニュースが報じられ、死亡した人々の数が数字として報じられ、また困難な状況の内にいる人々の数が膨大な数字として報じられます。そのような膨大な数字を前に、いったい自分に何ができるのかと私たちは思います。そこで起こっている事柄の規模の大きさに対して、自分という存在があまりにも無力に思えるからです。

 

 

 ここで弟子たちもまた、膨大な数の群集を前に、自身の許容量が少々オーバー気味になってしまったのかもしれません。もはや自分たちの手には負えない。自分たちにできることはない。私たちは自分の許容量がオーバー気味であるとき、入ってくる情報をシャットアウトするようになります。外界の情報を遮断することによって自分を守ろうとするわけですが、弟子たちも大勢の群集を前にそのような状態に陥ってしまったような印象を受けます。この場が解散され、人々が自分たちの前からいなくなることを望んでしまいました。

 

 

 

 

自身の手にあるものを、目の前にいる人に

 

 主イエスはそのような状況を御覧になり、弟子たちにある提案をなさいました。大勢の群集を、100人または50人ずつの組に分けるようにお命じになったのです。弟子たちはその指示のとおり、人々を組に分けてゆきました。そうするとどうなったでしょうか。大勢の群衆が、顔の見えるグループの集まりになっていったのではないかと想像します。弟子たちは人々の数に圧倒されていましたが、人々が細かなグループに分けられてゆくことにより、弟子たちの恐れはだんだんと軽減されていったのではないでしょうか。自分たちを圧倒する群衆が顔の見えるグループとなり、一人ひとりの表情が見えるようになっていった。主イエスがお命じになった組み分けを、そのような意味のあるものとして本日は受け止めたいと思います。

 

 

この作業を突き詰めてゆくと、弟子たちの目に映るのは、自分の目の前にいる一人の人、ということになったでしょう。主イエスが私たちにおしゃっているのは5000人の空腹を満たせということではなく、自分の目の前にいる人々のために自分のできることをしなさい、ということであると思います。確かに弟子たちの手元にあるのはわずかな食糧でした。それを5000人もの人々に与えようとするから不可能であると思うのですが、しかし主イエスはそのような無理難題をおっしゃったのではないでしょう。「あなたの手にあるものを、いま目の前にいる人々に分け与えなさい」。主イエスはそのようにシンプルなことをおっしゃっているのだと受け止めてみたいと思います。

 

 

私たちは5000人を救う英雄になることはできないし、なろうと思う必要もありません。突き詰めてゆくと、いま目の前にいるその人のために、自分にできることをすればよいのでしょう。

 

 

弟子たちの手元にあるのがたとえただ一つのパン、ただ1匹の魚であってもよかったのだと思います。いま目の前にいる一人の人に、自分のもっているものを分け与えることができるとすれば、主イエスの目からすると、それで弟子たちは十分なことをしたと映ったのではないでしょうか。私たちのその小さな行為をこそ、主イエスは豊かに用いようとして下さっています。

 

主イエスは弟子たちから受け取った5つのパンと2匹の魚をお取りになり、天を仰いで祝福してくださいました。そうしてそれを裂き、多くの人々に分け与えて下さいました。私たちには理解の出来ない力をもって、たった5つのパンと2匹の魚を、大勢の人の必要を満たすものとして用いて下さいました。

 

 

 

 

小さなパンが、キリストを通して

 

手元にある5つのパンと2匹の魚を分け合うか、分け合わないか。その小さいと言えば小さな行為が、5000人の必要を満たすような大きな働きへと、主イエスを通して変えられてゆきました。私たちにできることは確かに小さなことかもしれませんが、それを「しない」でいるのではなく、「する」こと。それが大切なことなのだとこの度の物語から教えられます。

 

 

私たちが自分にできることをしなければ、それはゼロです。もし私たちが自分にできることをすれば、それが1であっても0.1であっても、ゼロとは圧倒的な違いがあります。主イエスがもっとも悲しまれるのは、私たちが何も「しない」でいることでしょう。私たちが具体的な誰かのために自分にできることを実行する時、主イエスが私たちと共に働いていてくださいます。私たちの小さなパンを祝福し、御心のままに用いてくださるでしょう。

 

 

そして何より、主イエスご自身が身をもって、一つのパンを分け与える姿を示して下さっています。主イエスはご自身の体を一つのパンとして、私たちに分け与えて下さいました。私たち一人ひとりをかけがえのない存在として、御自身をただ一つのパンとして分け与えて下さいました。私たちのために裂き分かられたこのパンから、神さまの大いなる恵みが現れ出ました。私たちはいまも、この主イエスの命のパンに育まれ続けています。ただ一つのパンを分け与えることのまことの豊かさを、主イエスは私たちに示し続けて下さっています。

 

 

いま目の前にいる大切な人のために、自分自身を分け与えること。すべてはそこから始まってゆくことを、本日主イエスは私たちに教えて下さっています。たとえ手元に一つのパンもなくても、私たちはその人のために祈ることができるでしょう。私たちの内にともされたイエス・キリストの愛を、目の前にいる人と分かちあってゆくことができるでしょう。

 

 

私たち一人ひとりの行為は小さなものであっても、それらがイエス・イエスを通して、この世界をより良く変える力として用いられてゆくことを信じています。