2015年1月4日「十二人を派遣する」

201514

聖書箇所:マルコによる福音書6613

「十二人を派遣する」

 

新しい年のはじめに、皆さんとごいっしょに神さまに礼拝をささげることができますことを、感謝いたします。今年一年、皆さんの上に、主の恵みとお守りがありますようにお祈りしております。

 

熊谷英三郎先生

週報にも記していますように、12日金曜日に、花巻まぶねキリスト教会の熊谷英三郎先生が主のみもとに召されました。インフルエンザによって併発した肺炎によって昨年末から入院されていましたが、それが悪化されたためとのことでした。突然の知らせに私たちも驚いております。奥様のノブ子さま、ご家族の皆さま、教会員の皆さまの上に主の御支えがありますよう、どうぞお祈りください。


本日の聖書箇所を読みながら、熊谷先生ご夫妻のお姿を同時に思い起こしました。本日の聖書箇所では主イエスが弟子たちを二人一組で伝道へと派遣しますが、熊谷先生ご夫妻もお二人で花巻の小舟渡の地に単立の伝道所を開拓し、長い間二人三脚で牧会を続けて来られました。新聞配達等をなされながら教会を懸命に支え続けて来られたことをお聞きし、ご夫妻のお姿から伝道者としての大切な姿勢を学ばせていただきました。

昨年は花巻市教師会を立ち上げ、定期的にごいっしょする機会が与えられました。花巻市教師会は、熊谷先生が私に「花巻市の教会の教師が定期的に集まる機会があったらいいですね」とおっしゃってくださったことがきっかけでした。教師会の奨励においては、伝道所を立ち上げたころのお話、今までの牧会におけるお話を伺い、そのご苦労と共に、喜びをお聞きすることができましたこと、感謝しております。1213日にはごいっしょに市民クリスマスを行うことができましたこと、心より感謝しております。

熊谷先生はいま主のみもとで平安を得ていることと思います。主が熊谷先生のこれまでの尊いお働きを顧みて下さいますように、奥様のノブ子さま、ご家族の皆さま、まぶね教会の皆さまの上に主の慰めがありますよう、お祈りしております。


 

十二人を派遣する

 マルコによる福音書6613節をお読みいたします。《それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。/そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、/旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、/ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。/また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。/しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」/十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。/そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。


 本日の聖書箇所は、主イエスが12人の弟子たちを派遣する場面です。主イエスがガリラヤの地でしてくださったこと――神の国の福音を宣べ伝え、悪霊を追い出し、病をいやすということを――弟子たちもまた行うように弟子たちを派遣されました。二人ずつ組にして、必要最小限の物だけを携え、弟子たちは宣教の旅に出かけます。


主イエスは弟子たちを二人一組にして派遣されました。古代イスラエルには、裁判での重要な証言は二人または三人によってなされなければならないという規定がありました(申命記176節など)。神の国の福音を証言するにおいて、一人より二人の方がより確かなものとなる、ということがあったでしょう。互いに足らない言葉を補い合うことができますし、また互いの言葉をより豊かにしてゆくことができます。また何より、私たちがひとりぼっちではなく、二人で助け合ってゆくことができるようにと配慮してくださいました。互いを互いの同伴者としてくださいました。

 弟子たちは主イエスによって押し出され、神の国を宣べ伝え、多くの悪霊を追い出し、多くの病いをいやしてゆきました。


 

目に見える結果は重要ではなく

11節には《しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい》という言葉が記されています。足の裏の埃を払うというのは当時の訣別の動作です。この言葉は「いやな相手を切り捨ててよい」という意味ではなく、「結果は気にしなくてもよい」という主イエスの励ましの言葉として受け止めることができるでしょう。相手が自分たちの言葉を受け入れてくれるかくれないかばかりにエネルギーを使っていてはいけない。結果を出すのは私たちではなく神さまである、だから安心して、自分たちにできることをしてゆけばいいということがここで言われているのではないでしょうか。たとえ私たちの目からは何の実りもないように見えても、神さまの目から見れば、豊かに実った麦畑が見えている、ということもあるでしょう。目に見える結果ばかりを追い求める必要はない、ということをここで主イエスは伝えて下さっています。


 

神さまの愛を伝える

神の国の福音を宣べ伝えるということ、それは、神さまの愛を伝えることです。神さまが私たち一人ひとりをかけがえのない存在として大切にしてくださっている、その愛を伝えることです。悪霊を追い出すこと、病いをいやすことも、この神さまの愛の力によっています。


旧約聖書のイザヤ書には、このような言葉があります。「わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書434節)。かつて神さまは預言者を通して、この言葉を語られました。そしてイエス・キリストを通してこの言葉を語られました。そしていま、私たち一人ひとりを通して、この言葉を語られようとしています。その意味で、私たちは教会にいるときだけではなく、日々の生活において、あらゆる場において、いつも神さまの言葉をとりつぐ存在である、ということになります。


神さまの愛ということを考えるとき、それは他ならぬ私たちを通して伝えられるものだ、ということを改めて思い起こしたいと思います。神さまの愛を感じる瞬間というものを、神秘的な宗教体験のようなものとしてイメージしていらっしゃる方もいるかもしれません。実際、そのような経験をされた方もいることでしょう。一人でお祈りしているときに、神さまの愛が心に満ちてきたという経験をした、など。ただ、そのような経験をする人はそれほど多くはないかもしれません。むしろ多くの場合、神さまの愛は、人を通して伝えられているものであると思います。神さまは、誰かを通して、あなたを愛している。またそして、神さまはあなたを通して、誰かを愛しておられる。

それが神さまの愛であると気付かないほど、当たり前に、日常的に出会い続けているものとして私は受け止めています。


毎月はじめにお誕生日の方々に向けて歌う『君は愛されるため生まれた』という曲に、《永遠の神の愛は われらの 出会いのなかで 実を結ぶ》という歌詞が出て来ます。わたしはその通りであると思っています。神さまは何か神秘的な仕方で私たちに現れるというよりは、誰かとの出会いを通して、誰かとのふれあいを通して、私たちに日々現れて下さっているのではないでしょうか。


 主イエスはかつて、ガリラヤの地でこう宣言されました。115節《時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい》。ここで言われている神の国とは、「わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」という神さまの声が満ちている場であるということができるでしょう。主イエスは、私たち一人ひとりが神さまから見ていかにかけがえなく尊い存在であるかということを伝えて下さいました。そしていま私たちは、この神さまの声を伝え合うようにと招かれています。主イエスの弟子となるとは、神さまのこの声を携え運ぶ存在となるということでしょう。

聖書にはこのような言葉もあります。《あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です》(コリントの信徒への手紙二33節)。 ここでは、私たちは一人ひとりがイエス・キリストの手紙であると言われています。私たちの内には大切な神さまからの言葉が書き記されていて、誰かにそれが読まれることを待っています。


 

「あなたはかけがえなく、貴い」

 本日は2015年になって初めての主日礼拝です。この新しい一年をどのような年になってゆくか、どのような一年としてゆくか、私たち在り方が問われています。

私たちの社会は「私の目に、あなたはかけがえなく、貴い」という神さまの声とは正反対の方向へと向かいつつあります。人間が代替可能な「人材」としかみなされず、一人ひとりのかけがえのなさがないがしろにされている状況があります。私たちの社会の中であふれているのは、「自分の替わりなどいくらでもいる」「自分なんてどうでもいい存在である」という無数の悲しみの声、失望の声です。国家の政策はこの状況をさらに悪化させる方向へと舵を切ろうとしています。敗戦から70年目を迎えるこの年ですが、しかしこの1月からは国会では集団的自衛権を行使するための法律が話し合われることになります。原発も再稼働に向けて着々と進められています。人間の生命と尊厳を軽視した政策が次々と行われようとしています。

私たちはこれら状況に、はっきりと「否」を発してゆかねばなりません。「あなた」という存在は替わりのきく存在であるということは決してない。そうではなく、神さまから見て、「あなた」という存在は、かけがえなく貴い。「あなた」の代わりになる存在は誰一人として存在しないのだということ。神さまが与えて下さっているこの人間の尊厳を、私たち教会の、そして私たちの社会の土台に据えてゆくことが切に求められています。この真実が私たち一人ひとりに染みわたってゆくとき、それが人間の悪の暴走の歯止めとなって機能してゆくことでしょう。私たちは生命と尊厳をこそ第一とする社会を形づくってゆかねばなりません。


わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」――私たち一人ひとりは、この神さまの言葉が記された手紙です。この言葉を互いに伝え合ってゆくため、共に遣わされてまいりましょう。