2015年10月18日「この方こそ主」

20151018日 聖書箇所:マルコによる福音書123537

 

「この方こそ主」

 

 

イエス・キリストはどんな顔…?

 

突拍子もない質問になりますが、皆さんは、タイムマシンで過去に行けるとしたら、どの時代に行って、誰に会ってみたいでしょうか。幕末の時代に行って、坂本竜馬に会ってみたいという方もいらっしゃるでしょう。ルネッサンス時代に行って、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロ、ラファエロなどの天才に会ってみたいという方もいらっしゃるでしょう。クリスチャンである方々なら、2000年前のパレスチナに行って、イエス・キリストに会ってみたいと思うこと思います。私ももし行けることなら、主イエスが生きておられた時代に行ってみたいものです。 

 

生前の主イエスは、どのようなお顔をしていたのでしょうか。目鼻立ちはどんなだったでしょうか。髪の毛は黒色だったのだろうか。やはり髭は生えていたのでしょうか。私たちはそれは知りません。

生前の主イエスは、どのような声をしてらっしゃったのでしょうか。大勢の人々に対して話をしていたので、おそらくよく通る声だったのではないかと思います。高い声だったのでしょうか、低い声だったのでしょうか。生前の主イエスはどれくらいの背の高さだったのでしょうか。普段はどのような服装だったのでしょうか。考え出すと、いろいろ知りたいことが出てきますね。

 

意外なことに(?)、聖書はイエス・キリストの外見については一切記していません。主イエスがどのようなお顔をしていたのかも、どれくらいの背の高さであったのかも、どんな声をしてらっしゃったのかも記していません。おそらく、福音書の著者たちはそのようなことを記すことには関心がなかったのでしょう。けれども今から2000年前、確かにイエス・キリストはパレスチナの地で、私たちとまったく同じように生きて生活しておられました。幻としてではなく、幽霊としてでもなく、肉体をもった一人の人間である方として。疲れを覚え、空腹も覚える、傷つきやすい肉体をもった方として。これは厳然たる事実です。

 

 

 

「人の子」としての主イエス

 

新約聖書の福音書は主イエスの外見については記してはいませんが、主イエスが生前、どのようにこの地上で生きて、活動されたか、ということを記しています。どのような言葉を発し、どのように振る舞っておられたのか。福音書は一人の人間としてのイエス・キリストの側面を私たちに提示してくれています。

 

キリスト教はイエス・キリストを「神の子」として信仰していますが、また同時に「人の子」、すわなち一人の人間であったと捉えています。伝統的な表現を用いれば、「まことの神であり、まことの人である」方として信じています。そのどちらが欠けてもいけないのだ、と。

 

マルコによる福音書が執筆された当時、「神の子」としてのキリストを強調する風潮があったようです。復活し、神の右の座に座し、やがて再臨される方としてのキリストが強調されていた。それは神の子としてのイエス・キリストの非常に重要な側面ですが、そればかりを強調すると、人間としてこの地上を生きておられた「人の子」としての主イエスの側面が希薄になってしまうということがありました。そのような風潮に対し、マルコ福音書の著者は一人の人間としての主イエスの側面を重視して福音書を記しました。生前の主イエスはどのような言葉を発し、どのように振る舞われたのか。福音書が書かれたおかげで、現代を生きる私たちもその一端をうかがい知ることができます。これら具体的な描写のおかげで、現代に生きる私たちも一人の人間として生きた主イエスを感じ取ることができます。

 

 

 

「民族の名誉」ではなく「個人の尊厳」を

 

マルコ福音書が記すのは、苦しむ人々、病をもつ人々、社会から「罪人」とされ差別されていた人々のところに自ら赴き、友となった主イエスのお姿です。人々を苦しみから解放し、神さまからの尊厳を取り戻して下さった主イエスのお姿です。神の国を実現してくださった主イエスのお姿です。私たちはこれまでマルコ福音書をご一緒に読むことを通して、その生前の主イエスのお姿に出会ってきました。主イエスはそれら活動を通して、私たち一人ひとりが、神さまの目から見ていかにかけがえなく貴いか、ということを伝えて下さいました。神さまの目から見た、「個人の尊厳」を伝えて下さいました。

 

マルコによる福音書は、一方で、主イエスと同時代の人々にはその主イエスの願いが理解されなかった、ということを記しています。人々は主イエスにまた別のことを期待していたのです。それは「民族の名誉」を取り戻すということでした。

 

当時のイスラエルはローマ帝国の支配下にありました。いわば属国的な位置にあったわけですが、人々はイスラエルの独立を取り戻してくれる政治的な救世主を待望していました。当時の人々には「個人の尊厳」という意識はなく、それよりも圧倒的に「民族の名誉」というものを重視していたのです。

 

人びとにそのような民族主義、愛国心を伝えて回っていた人々が、おそらく律法学者と呼ばれるであったと思われます。律法学者とは、旧約聖書に記されている律法の専門家のことです。彼らは人々の教師として、政治的な救世主がいかに必要であるかを熱心に説いて回っていたのかもしれません。その政治的な救世主を表わす呼び名が「ダビデの子」という呼び名でした。ダビデとは、イスラエルのもっとも偉大な王とされるダビデのことです。ダビデの系統からいつかイスラエルの独立を取り戻し、ダビデ王朝を復活させてくれる救世主が現れるという願いが、この呼び名には込められています。

 

本日の聖書箇所では、主イエスはこの政治的な救世主像をはっきりと批判しておられます。

マルコによる福音書123537節《イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。/ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。/『主は、わたしの主にお告げになった。/「わたしの右の座に着きなさい。/わたしがあなたの敵を/あなたの足元に屈服させるときまで」と。』/このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群集は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた》。

 

 ダビデ王が救い主を「主」と読んでいるのに、どうして救世主が「ダビデの子」なのか、とここで主イエスは律法学者たちに問いかけておられます。少し内容が分かりづらいですが、つまりここで主イエスは律法学者たちが伝えて回っている政治的な救世主像を批判しておられるのだということができます。

 

 確かに自分たちの国を愛するということ、自分たちの民族を愛するということは大切なことです。しかし「民族の名誉」にばかり強調点が置かれたとき、見えなくなってしまうものがあります。それが「個人の尊厳」です。主イエスはイスラエルの名誉を取り戻すのではなく、個々人の尊厳を取り戻すことをこそ、願って下さっていました。

 共同体から疎外され、尊厳がないがしろにされている人々のもとを率先して訪ねて回られた主イエスのそのお姿に、それが現れています。

 

 

 

尊厳がはく奪されて亡くなった主イエス

 

 マルコによる福音書がこれから記すのは、主イエスの歩まれた十字架の道です。人々から嘲笑され、体中無残に傷つけられ、衣服をはぎ取られ、十字架に釘で磔にされ、まさに個人の尊厳がまったくはく奪される経験をなさいました。人々に個人の尊厳を取り戻そうと働いてくださった主イエスご自身は、尊厳がまったく奪われたかたちでご生涯の最期を遂げられたのです。

 

 マルコによる福音書は多くの分量をこの主イエスの悲惨な最期を描くことに費やしています。当時の、「神の子」としてのキリストを強調する人々にとって、この主イエスの最期のお姿というのは衝撃的であったことと思います。栄光に包まれた神の子キリストが、十字架に磔にされて、血だらけになり、叫びながら亡くなったなど、考えたくもない。目を背けたい、見たくない、触れたくないはずであるその悲惨な死を、マルコ福音書はあえて描き出します。しかも、福音書全体の頂点に位置するもっとも大切な場面として、です。

 

マルコによる福音書153339節《昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。/三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。/そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。/ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見てみよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。/しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。/すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。/百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った》。

 

 肉体の苦痛が極まる中で、十字架に裸で磔にされ、尊厳がまったく奪われた状況の中で、主イエスは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶叫して亡くなられました。私たちの目に、悲惨としか言いようがない死です。

 

 マルコ福音書は、この死を目撃したローマの百人隊長の姿を記しています。この主イエスの十字架の死を目撃した百人隊長は言いました。「本当に、この人は神の子だった」。

 

 

 

十字架から照らされる尊厳の光

 

 私たちの目には悲惨なその死が、しかし、その場に居合わせた百人隊長には、「神さまの栄光」が現れ出るものとして映りました。百人隊長は知らされました。悲惨な最期を遂げたこの一人の人間の内に、神さまの栄光の光が現れている。この方こそ、まことの神の子であることを百人隊長は知らされました。「本当に、この人は神の子だった」。

 

 主イエスはこの十字架の光を通して、私たち一人ひとりを照らしてくださいました。ご生涯の最期に、その十字架の死を通して、私たち一人ひとりに、消えることのない神さまからの光を灯して下さったのです。この光こそ、神さまからの尊厳の光です。主イエスを通して、私たち一人ひとりを照らし出す、「人間の尊厳」の光です。

 

 私たちがどれほど悲惨な状況にあろうと、この尊厳の光は、どんなことがあっても、決して失われることはありません。私たちがどれほど無残な経験をしようと、十字架の主を通して、私たちには消えることのない尊厳の光がともされています。私たちの目にどれほど悲惨な出来事に見えようと、私たちの内から神さまからの尊厳は失われることがありません。どんなことがあっても、神さまの目から見て、あなたという存在は、かけがえなく貴い存在であり続けています。

 

主イエスは十字架におかかりになったお姿で、いま、私たちに語り続けておられます。どれほどあなたの肉体が悲惨な状況にあろうと、他者から虐げられる状況にいようと、あなたの尊厳は決して失われることはない、と。

 

 消えることのない光を灯して下さったイエス・キリスト、私たちの存在を光で照らしてくださるイエス・キリスト。この方こそ、まことの神でありまことの人であられる、私たちの主です。どうぞこの地上に人間の尊厳が、天に主の栄光がとこしえにありますように。