2015年10月25日「あるがままの私で祈る」

20151025日 聖書箇所:マルコによる福音書123840

「あるがままの私で祈る」


 

律法学者への批判の言葉


 本日の聖書箇所には、律法学者に対するイエス・キリストの厳しい批判の言葉が記されています。律法学者とは、旧約聖書の律法の専門家のことです。ユダヤ教にとって最も重要な律法に対して深い造詣をもち、その文言を解釈して人々に教える役職として、律法学者は当時大きな権威をもっていました。


 律法学者という役職が人々からどれほど優遇されていたかは、本日の聖書箇所からも伺われます。律法学者は正装である亜麻布の長い衣を身にまとい、広場では人々から恭しく挨拶をされていました。律法学者が通り過ぎるときは、すべての人は立ち上がって敬意を払うべきだという教えもあったようです(参照:メアリー・ヒーリー『カトリック聖書注解 マルコによる福音書』)。律法学者は人々が集う会堂では上席に座らされ、宴会では上座に座らされるという待遇を受けました(3839節)。


 主イエスの目に、律法学者たちはその待遇をまんざらでもない様子で喜んでいるように見えたようです。律法学者たちの態度に、そのような優遇を受ける自分を誇る高慢さがが見え隠れてしていたのですね。


 もちろん、自分自身の職業や役割に誇りをもつということは必要です。人々の教師として、律法学者たちは社会の中で重要な役割を果たしていたことでしょう。と同時に、職業や役割でその人の価値が決まるわけではない、ということも忘れてはならないことです。律法学者という職業に誇りを持つことは否定されるべきことではありませんが、それによって自分自身を他の人々より上に置いたり、異なる職業の人々を見下したり差別したりしているのなら、大きな問題です。


 主イエスは職業や身分などで人を分け隔てすることはなさいませんでした。そうではなく、主イエスが見つめようとして下さっていたのは、「一人の人間」としてのその人自身です。


 


「一人の人間」としての自分


 最近、私はよく「一人の人間としての自分に立ち還る」ということを考えています。いま私たち一人ひとりが、そのことを必要としているのではないか、という感覚があります。


 たとえば私は牧師でありますが、それより前に、私は一人の信仰者です。そして一人の信仰者である前に、私は鈴木道也という一人の人間です。その「一人の人間」としての自分自身を忘れないでいたい、最近はよくそのように考えています。

このような言い方をすると、違和感を覚える方もいらっしゃるかもしれません。牧師であることは鈴木道也という人格と切っても切り離せないというふうに捉える方もいらっしゃるでしょう。もちろん、それは私という人間の大切な一部であるでしょう。と同時に、それがわたしのすべてでもありません。私自身としては、まず第一に、常に「一人の人間」としての自分に立ち還って物事を見つめ、考えてゆきたいという思いがあります。


牧師としての立場から発言することと、一人の人間として発言することとは、一致することもありますが、一致しないこともあります。


たとえば、私たち教会が辛い出来事に直面した時、牧師としての私が「それでも神さまが私たちを導き、支えてくださることを信じて、いっしょに祈りましょう」と言ったとしましょう。その言葉は嘘ではありません。それは心からの言葉でありますが、また同時に、その言葉が自分の心の中のすべてを表わしているわけでもありません。そのように言いながら、一方で心の奥の方では、「神さま、何でこんなことになったんですか!」と叫んでいる自分もいます。教会の代表として祈りながら、同時に、「本当は、いまの私は祈る気力がありません。いまはあなたに向かって祈りたくありません」と内心は泣きべそをかいている子どものような自分もいるわけです。その想いもまた、自分にとって偽らざる本当の気持ちです。


一人の人間としての自分を大切にしたいということは、この、弱くて傷つきやすいもう一人の自分も大切にしたい、ということでもあります。あまりに「牧師」としての自分、または「信仰者」としての自分に重きを置きすぎた時、この生身の自分が置いてけぼりにされてしまうのではないか、という危惧を感じています。


本日の聖書箇所の律法学者たちは、「律法学者」としての自分がすべてとなってしまい、「一人の人間」としての自分自身を喪失してしまっていた状態にあったのかもしれない、と想像します。本当は、心の奥の方に不安におびえている自分、傷つき、泣き声をあげている自分がいるのに、そのもう一人の自分に自分自身が目を向けてあげるということをしない。人々から敬われる威厳ある「律法学者」としての自分に、ある意味、すがって生きていたのではないか、と想像します。いわば「律法学者」という仮面の自分を生きている状態です。


律法学者として自分に重きを置くことで、自分は価値のある人間であること、人々から尊重される人間であると感じとることができるから、ということもあったでしょう。そのような律法学者たちの態度というのも、私たちにはよく理解できることです。けれども、そのような態度でいる限り、心の奥底に癒されることのない痛みが存在し続けることになります。


 


もう一人の自分の声に耳を傾けて


 皆さんもそれぞれ、教会で、職場で、家庭で、責任を担ってらっしゃることと思います。役員の方であれば、役員として教会を支える責任を感じてらっしゃることでしょう。学校の教師をしてらっしゃる方であれば、子どもたちを教育する責任を感じてらっしゃるでしょう。家庭をもち子どもがいらっしゃる方であれば、母としての責任、父としての責任を感じてらっしゃることでしょう。皆さんも懸命に、自分の役割、自分の責任を日々果たしてらっしゃることと思います。


 そのように自分なりに懸命に責任を果たしつつ、また同時に、私たちは「一人の人間」としての自分自身を忘れない、ということが大切であるのだと思います。「辛い」と思っている自分、傷つき、悩み、不安を覚えて震えている、小さな子どものような自分自身がいることを忘れない。そのもう一人の自分の声に、いつも耳を傾けてあげることが大切であるのだと思います。


それはまず第一に自分にとって大切なことであるし、またもしかしたら周囲の人々にとっても、大切なことかもしれません。たとえば威厳のある「父」としての自分を見せるより、悩み苦しむ一人の人間としての自分を見せることが、子どもたちによい影響を与えるということもあるかもしれません。


私自身、弱さを人に見せるのが苦手な傾向があると自覚しています。心の中は本当は辛いのに、顔では微笑みを浮かべながら何でもないように過ごしているのが割と得意な方であると自覚しています。いつしか、そのように自分自身を訓練してしまったのでしょう。牧師になってから、ますますその傾向が増してしまっていたように思います。しかし、それは果たしていいことなのでしょうか。最近はそのような自分でいることは、必ずしもいいこととは思わなくなりました。もっと率直に、自分の弱さを人に見せられれば、と願っています。


 


あるがままの私で祈る


改めて、本日の聖書箇所をごいっしょに読んでみましょう。マルコによる福音書123840節《イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、/会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、/また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」


「律法学者」としての自分にすがって生きていた律法学者たちの姿を、主イエスは厳しく批判されています。そのように仮面の自分で生きている限り、まことの解放といやしは起こらないからです。


後半部では、《やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする》という言葉があります。当時律法学者たちは律法を教えることによる報酬を受け取ることは禁じられていたそうです。よって彼らの生活は個人的に受け取る献金によっていました(参照:メアリー・ヒーリー『カトリック聖書注解 マルコによる福音書』)。主イエスの批判の言葉から、律法学者たちが「信仰」という名のもとに、貧しい人びとから個人的な献金を強要することがあったかもしれないことが伺われます。律法学者の人々も、内心はもっとお金が欲しいし経済的に裕福な生活がしたいと思っていたかもしれないのに、それは表には出さない。表面上はいかにも禁欲的で敬虔な自分を装っていたのかもしれません。自分の心の中にあるものは押し隠して、いかにも敬虔な、信仰的な長い祈りをしていたようです。


私たちも普段教会で、自分の心の中にあるものは押し隠して、お祈りしてしまうことがあるでしょう。先ほどの私の例で言うと、教会が辛い出来事に直面したとき、牧師としての責任感から、しっかりとしたお祈りをしなければならないと思って、力を振り絞って「信仰的な」お祈りする。しかし内心は、「神さま、どうして」「いまは祈ることもできない」という気持ちがある。


聖書が私たちに教える祈りとは、むしろ、後者の気持ちをはっきりと言葉にするものです。一人の人間としての自分の正直な気持ちを、神さまの前に注ぎ出す、それが聖書が私たちに教える祈りです。「教会の代表である牧師」という仮面を外し、「敬虔な信仰者」という仮面も外し、一人の人間として神さまと正直に対話をしてゆくことです。


感謝や賛美を祈るだけではなく、自分の中の否定的な想いも、嘆きも、怒りも、あるがままに神さまの前に言葉にすること。神さまの前に、あるがままの自分を差し出すこと、それが見せかけではない、まことの祈りなのでしょう。


 


主はわたしの泣く声を聞き


聖書が私たちに語るのは、神さまは私たちのその叫びを必ず聴いていてくださるということです。イエス・キリストは私たちの泣く声を聞き、嘆きを聞き、私たちの祈りを受け入れて下さる方です。詩編69節《…主はわたしの泣く声を聞き/主はわたしの嘆きを聞き/主はわたしの祈りを受け入れてくださる》。ぶざまな泣き声でもいいし、うまく言葉にならなくてもいい。神の霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださるでしょう(ローマの信徒への手紙826節)


私たちは神さまの前で、あらゆる重荷を下ろしてよいのです。重い衣服を脱ぎ、仮面も取り外し、一人の人間として神さまの前に安らうこと。あるがままの自分として、神さまの前に憩うこと。そのためにいま、私たちは礼拝に集っています。


いま、主のお語りになる声に、共に私たちの心を開きましょう。マタイによる福音書1128節《疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう》――。


どうぞ、私たちの心の内の痛みに、主からの癒しがありますように。絶え間なく続いていた痛みが癒され、その傷口から命の水が湧き出でますように。少しずつ、一歩ずつでも、私たちがその解放と癒しの道へと向かって共に歩んでゆくことができますようにと願っています。