2015年10月4日「神は、すべての顔から涙をぬぐい」

2015104日 聖書箇所:コリントの信徒への手紙一155055

「神は、すべての顔から涙をぬぐい」

 

 

召天者記念礼拝

 

本日は召天者記念礼拝です。天に召された愛する兄弟姉妹を覚え、礼拝をささげています。

 

花巻教会ではこのように、召天者記念礼拝の際は、天に召された兄弟姉妹の写真を会堂の前に並べています。3年前にこの教会に来た私は、実際に会ったことがない方の方が多いですが、これら信仰の先達たちのお名前はよく耳にしております。

 

先日、宮沢賢治と花巻のクリスチャンについて本を執筆してらっしゃる出版社の方が、教会に取材に来られました。宮沢賢治の生家の周囲にはクリスチャンが多くいたということですが、それら方々は、花巻教会の教会員でもありました。出版社の方の取材を受けることを通して、改めてそれら花巻教会を支えて来て下さった信仰の先輩方のことを私も知ることができ、感謝でした。

 

本日は天に召された兄弟姉妹を覚えると共に、主が約束して下さる復活への希望を、ご一緒に新たにしたいと思います。

 

 

 

「身体のよみがえり」

 

 お読みしました聖書の御言葉は、パウロという人物が、「復活」について語っている箇所です。復活といっても、イエス・キリストの復活ではなく、私たち一人ひとりの復活について、です。終わりの日が来た時、私たち一人ひとりは復活し、永遠の命の中に入れられる、ということが語られています。イエス・キリストが死から復活したように、私たちもまた復活するのだ、と。

 

「身体(からだ)のよみがえり」という言葉があります。キリスト教会がこの2000年間、信じ続けてきた事柄です。礼拝の中でごいっしょにお読みする使徒信条という告白にも、最後のところで「身体のよみがえり、永遠のいのちを信ず」という文言が出てきますね。この「身体のよみがえり」が指し示しているのは、イエス・キリストに結ばれた私たちが終わりの日に復活するというその出来事です。

 

 ここで疑問に思われるかもしれないことは、なぜ「身体」という言葉が出てくるのか、ということですね。死んでしまったら「身体」は消えてしまうはずなのに、なぜだろうと思われる方もいらっしゃるかもしれません。

 

 ここに、聖書のメッセージの特徴があります。聖書は、私たち人間という存在において、心と体は切り離せないものとして捉えています。

 

対照的なのは、古代のギリシャの考え方です。古代ギリシャでは、体はむしろ否定すべきものとされていました。体という牢獄に囚われている目には見えない部分――魂にこそ、人間の本質がある、と考えられていました。そのような世界観に対し、聖書は、いや、体もまた大切なのだ、人間において魂と体とは切り離せないものなのだと主張しています。心も体も魂も合わさってこそ、「私」という人間になる。その背後には、私たちの体もまた神さまが創ってくださったかけがえのないものなのだ、という考え方があります。

 

このように、聖書は目に見えるもの、耳で聴くことができるもの、手で触れることができるもの――私たちのこの体やこの世界のさまざまな物質を、なくてはならない大切なものとして捉えています。

 

私たちの実感もまたそうでありましょう。私たちは愛する人の目には見えない内面を愛していますが、同時に、その人の笑顔や、声や、外面もまた大切に思っています。愛する人のことを思い浮かべるとき、自然とその人の顔や声、面影を想い起こすことでしょう。心も、体も、魂も、それら全部が合わさって、いとおしいその人の存在を創り出しています。

 

詩人・彫刻家の高村光太郎氏が、亡くなった妻・智恵子さんとの愛を謳った詩集『智恵子抄』の中に、次のような詩の一節があります。《智恵子の裸形の背中の小さな黒子まで/わたしは意味ふかくおぼえていて、/今も記憶の歳月にみがかれた/その全存在が明滅する》。

高村光太郎氏は、妻・智恵子さんの背中の小さな黒子まで、意味深く記憶していたようです。その小さな黒子が、その体の位置に在るということ。その小さなしるしさえ、高村光太郎氏にとっては「智恵子さんが智恵子さんであること」の、かけがえのない証しであったのでしょう。

 

そのように、その人がその人であるためには、心も体も魂も、切り離すことはできません。それらすべてが合わさって、かけがえのないその人らしさを形づくっています。

 

キリスト教は「身体のよみがえり」ということを大切にしてきました。魂だけではなく、体もその人のかけがえのなさを形づくっているのであるから、終わりの日には体もまた復活するのだ、と信じ続けてきました。

 

 

 

「もし天国で君と会ったなら…」

 

 終わりの日に体もまたよみがえるのだとして、では、「どのように復活するのか」という素朴な疑問がわき上がるかもしれません。私たちはどんな体で復活するのか。自分が一番若々しかったときの体で復活するのか、もしくは晩年の体で復活するのか。できれば若々しい体がよいと思う方もいらっしゃるかもしれません(!?)。もしくは羽の生えた天使のような姿で復活するのか。

 

 キリスト教の歴史でもこのことが長らく議論になってきたようですが、聖書にはっきりと書いているわけではありません。パウロの手紙でも、象徴的なイメージで語られるにとどまっています。パウロは復活の体は新しい体であり、その意味でまったく変えられる。それは植物が種から果実に変わるように。と同時に、いまのわたしたちの体と変わらない部分もある、種と果実も同じ植物であるように……。

 

 私たちが知りたく思うのは、天に召された愛する兄弟姉妹とまた再会できるのであろうか。再会できると信じているとしても、いざ再会した時、私たちは互いに互いが分かるのであろうか。もしパウロが言うように私たちがまったく新しい体に変えられるのであれば、いとおしく思っていたその人の面影はもはや失われてしまっているのではないか、と不安を覚えます。

 

 このことを考えるとき、いつも思い出す歌があります。エリック・クラプトンというギタリスト・歌手が歌っている『ティアーズ・イン・ヘブン』という曲です。ラジオでもよく流れる曲で、ご存じの方もいらっしゃるでしょう。愛する幼い息子を不慮の事故で亡くしたクラプトンが、その悲嘆の中で記した歌詞がもととなっています。

 

『ティアーズ・イン・ヘブン』の歌詞は次のように始まります。

Would you know my nameIf I saw you in heaven

Would it(you) be the sameIf I saw you in heaven》。

 私なりに訳すと、「もし天国で君と会ったなら、僕の名前を覚えてくれているだろうか。もし天国で君と会ったなら、同じでいてくれるだろうか」となります。

 

幼い息子が神さまのもとに行き、いまは天使のような姿になっているとしても、父親である自分が彼と再会した時、自分を覚えていてくれるだろうか。彼は同じ姿でいてくれるのだろうか。たとえ天国で再会したとしても、私たちはもはや互いに誰だか分からない存在となっているのではないか……。誰しもが感じ得る根源的な問いを言葉にしてくれている歌詞であると私は受け止めています。これら言葉から、愛する息子がどんどん遠い存在となってしまうのではないか、というクラプトンの悲しみ、恐れ、孤独感も伝わってきます。どれほどの涙と共に、クラプトンはこの詞を書いたのであろうか、と思います。同時に、その深い悲しみの中で、地上に残された自分は、しかし、しっかりと生き続けねばならないとの決意も歌われてゆきます。

 

 

 

「その人がその人であること」は失われない

 

「もし天国で君と会ったなら、僕の名前を憶えてくれているだろうか。もし天国で君と会ったなら、同じでいてくれるだろうか」? 聖書にも、この問いに対するはっきりとした回答が記されているわけではありません。私たちにとってそれはいまだ謎であり続けています。当然のことでありますが、いま生きている人の中で、死を実際に経験した者はいないからです。

 

けれども、「その人がその人であること」は、決して失われることはない、その希望は私たちに与えられているということができるのではないでしょうか。その希望を端的に表わしている言葉が、「身体のよみがえり」という言葉です。

 

この「身体」という言葉の中には、愛する人の笑顔、声、手のあたたかさ、この世界でその人と過ごした大切な記憶、それらすべてが込められているのだと思います。私たちにとってかけがえなく大切なそれら部分は、決して消え去ってしまうのではない。終わりの日に、それらすべてが、神さまのもとへ抱きとめられる。神さまの永遠の命の中に、抱き入れられる。

 

パウロは本日の聖書箇所の中で、そのことを《この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る》と表現しています(54節)。朽ちるべきものとは、私たちの身体です。私たちの体はもろく、はかないものでもあります。対して、朽ちないものとは、永遠の命であられるイエス・キリストの身体です。私たちの体ははかないものであっても、イエス・キリストの体はそうではありません。

 

パウロは別の箇所で、《キリストを着る》という表現も用いています。私たちは復活のキリストに抱かれ、覆われることによって、新しい身体に変えられるのだとパウロは語ります。こうしてキリストの命に覆われる中で、「その人がその人であること」、「私が私であること」のかけがえのなさは、失われることなく守られてゆきます。終わりの日に、キリストの命の中に抱かれる中で、私たちはまた再び、いとおしい面影を見出すことができるでしょう。聖書は、その希望を私たちに約束してくれています。

 

改めて、パウロの言葉を共に味わいたいと思います。コリントの信徒への手紙一155055節《兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。/わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。/最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。/この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。/この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。

「死は勝利にのみ込まれた。/死よ、お前の勝利はどこにあるのか。/死よ、お前のとげはどこにあるのか。」

 

 

 

神は、すべての顔から涙をぬぐい

 

 先ほどご紹介したエリック・クラプトンの『ティアーズ・イン・ヘブン』の最後の歌詞は次のようになっています。

Beyond the doorThere’s peace I’m sure

And I know there’ll be no more

Tears in heaven》。

「扉の向こうには、安らぎがあると僕は分かっている。

そしてそこには、天国にはもはや涙が存在しないと僕は知っている」。

 

聖書の中にも、神さまがすべての顔から涙をぬぐってくださる日が来る、と記している箇所があります。《主はこの山で すべての民の顔を包んでいた布と すべての国を覆っていた布を滅ぼし/死を永久に滅ぼしてくださる。 主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい ご自分の民の恥をこの地上からぬぐい去ってくださる(イザヤ書2578節)

 

私たちはいまは涙を流し続けているのだとしても、いつの日か、神さまは私たちの顔から涙をぬぐってくださる。教会は、その時が必ず来ることを、この2000年間、変わらぬ希望として信じ続けてきました。私たちがキリストの命に抱かれ、死が滅ぼされる時が必ず来る。悲しみは喜びへと変えられ、私たちが愛する人々と共に、復活の命の中を生きるようになるその時を希望として信じ続けてきました。

 

神さまはまた、私たちの涙の一粒一粒をよく知っていてくださるでしょう。私たちの言葉に出来ぬ嘆き、悲しみ、恐れ、孤独感、その一つひとつの涙をも、よく知っていてくださいます。イエス・キリストは私たちと共に涙を流して下さりながら(ヨハネによる福音書1135節)、いま、私たちの顔から、涙をぬぐおうとしてくださっています。「もう泣かなくともよい」(ルカによる福音書713節)と語りかけて下さっています。

 

どうぞ本日、復活の主御自身の慰めの言葉が、ここに集った皆さん一人ひとりの心に届けられますように。