2015年11月1日「この人は、乏しい中から」

 2015111日 聖書箇所:マルコによる福音書124144

「この人は、乏しい中から」



レプトン(レプタ)


 本日の聖書箇所は、一人の女性が神殿にて、手にもっていたお金のすべてを賽銭箱にささげたという物語です。女性はレプトン銅貨二枚を持っていたのですが、一枚を自分のためにとっておくことなく、二枚とも献金しました。口語訳聖書では「レプトン」ではなく「レプタ」と訳されていましたので、そちらの表現の方に親しんでいる方もいらっしゃるかもしれません。


 レプトンというのは、当時のユダヤ社会の硬貨の最小単位です。それの二枚分ですので、女性がささげたのは、金額としてはささやかなものであったでしょう。けれどもイエス・キリストは「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた」とおっしゃってくださいました。どういう意味なのでしょうか。


 改めて、ごいっしょに物語を読んでみたいと思います。


マルコによる福音書124144節《イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。/ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。/イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。/皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」》。


 


この人は、乏しい中から


 物語の舞台はエルサレム神殿です。エルサレム神殿はいまは現存していませんが、当時は人々の目に壮麗な姿を誇っていました。紀元前20年にはヘロデ大王による大規模な修繕と拡張工事が始められており、当時はいまだ一部が工事中であったとも言われています。


 エルサレム神殿の門をくぐると、まず「異邦人の庭」と呼ばれる広い外庭がありました。異邦人の庭には、ユダヤ教徒のみならず、外国の人々も入ることができました。この異邦人の庭から2.4メートルほど高くなったところに、「婦人の庭」と呼ばれる回廊があったそうです。ここでは外国の人々は入ることはゆるされず、ユダヤ教徒の男性と女性だけが入ることができた回廊でした。この「婦人の庭」には13個のラッパのようなかたちをした賽銭箱が置かれていました。神殿を訪れた人々はこの賽銭箱に献金をささげる決まりとなっていました。本日の物語の舞台になっているのは、この「婦人の庭」の回廊であったと推測できます。


 この日、主イエスは回廊に置かれた賽銭箱の向かいに座って、人々がそれに献金を入れる様子を見ておられました。お金持ちなのであろう人々が、たくさんの金額を箱に入れていました。たくさんの硬貨を入れると、にぎやかな音がしたことであろうと思います。回廊にその音が響き渡ったかもしれません。周囲の人々の注目も引いたことでしょう。


 そのような中、一人の貧しいやもめの女性が賽銭箱の前に来ました。女性は手にもっていたレプトン銅貨二枚を賽銭箱に入れました。チン……。おそらく、耳を澄まさないと聴こえないほどの小さな音であったと思います。


 本日の物語は、出来事としてはこれだけの出来事です。一見誰の目にもとまらず、記憶にも残らないような出来事ですが、この女性の姿は、主イエスの記憶にしっかりととどめられました。そして弟子たちに伝えられ、2000年の時を経ていまも私たちに伝えられています。


主イエスは弟子たちを呼び寄せて言われました。《はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。/皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである》4344節)


 主イエスのこの言葉は、弟子たちを驚かすものであったでしょう。この一人の女性は、賽銭箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れたのだ、と。その理由は、他の人々は有り余る中から入れたけれど、この人は乏しい中から自分の持っている物をすべて入れたから、というものでした。


 


「小ささ」を象徴するものとして


 本日の物語から、私たちは何を読み取ることができるでしょうか。「この女性を見習ってわたしたちも生活費のすべてを献金しましょう」(!)というすすめではないのはもちろんのことです。この物語は、献金の問題に限定して捉える必要はないでしょう。


 レプトン銅貨は当時の硬貨の最小単位であると先ほど申しました。レプトン(レプタ)とは、「小ささ」の象徴であるということもできるでしょう。聖書の中には「小さなもの」を表わすものとして、たとえば他にもからし種という小さな種もでてきますが(マルコによる福音書43032節)、このレプトン銅貨も「小ささ」を象徴するものとしてここに登場しているのではないでしょうか。


 主イエスの言葉の中には、私たちの目に「小さなもの」がさまざまに出てきます。からし種や今回のレプトン銅貨もそうですし、有名な五千人の給食の物語の五つのパンと二匹の魚もそうでしょう。お腹を空かせた大勢の人々を前に、五つのパンと二匹の魚は取るに足らないような「小さなもの」です。けれども、主イエスはそのたった五つのパンと二匹の魚を用いて、その場にいたすべての人々の心身を満たされました63044節)


主イエスは「小さなもの」の中にこそ、神の国の可能性を見いだして下さっています。主イエスはおっしゃいました、「神の国はからし種のようなものである」。《土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、/蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る》43132節)


 


「小さい」ことを恥じる意識


 私たち自身の内には、「小さい」ことを恥じる意識があるのではないでしょうか。小さいことを恥じ、できればそれを隠したいと思う意識があります。自分という存在自体をそのようにみなす時もありますし、自分の力や働きをそのようにみなしている時もあります。


 場合によっては、「小さい」ことを恥じるあまり、無理やり自分を大きく見せようと頑張ってしまうこともあるでしょう。「小さい」ことを恥じて引っ込み思案になってしまうか、または「小さい」ことを恥じて無理にでも自分を大きく見せようとするか。その人の性格によって相違はあるでしょうが、「小さい」ことを恥じる意識は共通しています。


「小さい」ことを恥じる時、私たちは自分ではない自分になろうとしています。自分を必要以上に大きく見せてしまうか、もしくは必要以上に小さく縮こまってしまうか。そのような時見失われてしまうのは、あるがままの自分です。


 


あるがままの私をすべて差し出すこと


 先週の礼拝の説教では、あるがままの私を差し出すこと、それが祈りだということを述べました。感謝や賛美を祈るだけではなく、自分の中の否定的な想いも、嘆きも、怒りも、あるがままに神さまの前に言葉にすること。神さまの前に、あるがままの自分を差し出すこと、それが聖書が語る祈りであるということを共に御言葉から聴きました。


 本日の一人の女性は、あるがままの自分をすべて神さまの前に差し出すという姿を私たちに示してくれているのではないでしょうか。レプトン銅貨二枚は、その象徴です。たとえ私たちの目に自分自身が「小さなもの」「貧しいもの」に見えても、それをそのまま神さまの前に差し出す。無理に大きく見せかけようとするのではなく、そのままを神さまにおささげする。


 たくさんのお金を献金したお金持ちたちは、主イエスの目には、見せかけの自分だけをささげ、あるがままの自分をささげてはいないように映ったのかもしれません。たとえどれほどたくさんのお金をささげていようと、そこにその人自身はいなかった。


 対して、女性は献金したお金は小さなものでしたが、主イエスの目には、女性があるがままの自分をすべて神さまの前に差し出していると映りました。そこには感謝の想いだけではなく、女性の嘆きも、悲しみも、叫びも、涙も、弱さも、そのすべてが込められていたのだと思います。そこには、確かにその人自身がいました。主イエスはその祈りを何より高く評価されました。


私たちがあるがままの自分を差し出すとき、主イエスはそれを何より貴いものとして受け止めてくださいます。そしてそこに神の国が拡がり始めていることを教えて下さっています。


《はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。/皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである》4344節)。ある人は、ここでの《生活費》とは、もともとは「自分の生きていることすべて」を指す言葉であると述べています(古屋治雄氏。『説教黙想 アレテイア マルコによる福音書』より)。女性は「自分の生きていることすべて」を神さまの前に差し出しました。


 


主イエスのまことの祈りの中で


 キリスト教会は、この女性の姿は同時に、その「向かい側」におられる主イエスの姿、とりわけ、これから十字架に向かわれる主の姿を指し示しているものであると受け止めてきました。女性は「自分の生きていることすべて」を神さまの前に差し出しましたが、主イエスこそは十字架の道行きにおいて、「自分の生きていることすべて」を私たちのために差し出し、私たちのために祈り願って下さった方です。


 ヘブライ人への手紙578節《キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。/キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました》。


ヘブライ人への手紙は、主イエスは生前、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら祈りをささげてくださったことを記しています。私たちとまったく同じ、一人の人間として。弱さをもった、小さな存在として、祈りをささげてくださいました。


主イエスは感謝と賛美の歌声だけではなく、叫び声をささげ、流れる涙をささげられました。そしてそれは私たち自身の叫びであり、私たち自身の涙でありました。私たち自身の言葉にできぬ嘆き、叫び、涙でありました。


神の子である主イエスが、十字架の道行きにおいて、私たち自身の叫びを叫び、私自身の涙を流してくださいました。主イエスのそのあるがままの祈りを、神さまは受け止めて下さり、最上の献げ物としてくださったことを聖書は記します。この主イエスのまことの祈りの中で、私たちはいま、生かされています。


 この主イエスの祈りに生かされながら、私たちもまたあるがままの私を神さまと隣人の前に差し出してゆくことができるようにと願います。