2015年11月15日「惑わされないように気をつけなさい」

 201511月15日 聖書箇所:マルコによる福音書13313

「惑わされないように気をつけなさい」



ノストラダムスの大予言


私が子どもの頃、ノストラダムスの大予言が流行っていました。「19997の月に、恐怖の大王がやってきて世界が滅亡する」という内容のものです。「そんなことは起こるはずはない」と思いつつ、「もし起こったらどうしよう」とかすかな不安も覚えました。


予言されていた年の1999年になったとき、私は高校1年生でした。いよいよ7月に入ろうとする時はやはり不安を感じました。が、結局7月になっても何も起こらず、気がつけば8月になっていました。まことにあっけのないものでした。


当時ノストラダムスの予言を信じていた子どもたちの中には、「もし1999年に世界が滅びるのなら、学校での勉強なんて意味ないんじゃない?」、「もし世界がもうすぐ滅びるのなら、テスト勉強をする意味もないんじゃない?」と一度は思ったことがある人は多いのではないかと思います。そしてそれを口実にしてテレビゲームに没入してゆく(!)のです。


ノストラダムスの大予言のブームは、1973年に発行された『ノストラダムの大予言』という本がきっかけになったと言われています。以降、70年代から90年代にかけて、毎年のように雑誌やテレビなどで取り上げられ、ノストラダムスの大予言は一種の社会現象となってゆきました。


 


私たちの心の中の「破壊願望」


それほどブームになった背景には、当時の人々の心情に、予言の内容が共鳴するものがあったからでしょう。70年代、80年代というと、深刻な公害問題、環境汚染の問題が広く取り上げられるようになった時代です。また当時、世界は冷戦状態にあり、核兵器による「世界の滅亡」という不安が人々の心を捉えていました。核戦争後の世界を描く映画や漫画なども登場するようになりました。


もちろん、世界が滅亡するようなことは「起こってほしくない」と私たちは思うわけですが、人間の心理というのは不可思議なもので、そのようなことがむしろ「起こってほしい」と願う心理もかすかに働いていることもあります。


 たとえば私たちがもっと幼い子どもであるとしましょう。一生懸命作っていた工作に、一か所どうしてもうまくいかない部分が出て来た。それが気に食わないあまり、せっかく作ってきた工作を全部壊してしまう。そのような経験が私たちにもあるのではないでしょうか。本来なら、落ち着いて、うまく行かないその一部分だけを修正してゆけばいいのですが、我慢できず、全部を壊してしまう。そうすればすっきりするという衝動に駆られてしまう。


 それは幼い子どものような衝動でありますが、そのような衝動と言うのは、大人になってからも、私たちの心のどこかに存在し続けているように思います。一種の「破壊願望」と呼べるような衝動を、私たちは誰しも心に隠し持っているものです。困難な目の前の現実すべてが、いっそ破壊されてしまえばすっきりするのではないか、という願望です。ノストラダムスの大予言のような予言が人々の心を捉えるのは、私たちが抱えるこの「破壊願望」とひそかに共鳴するからではないだろうか、とも考えます。


 


2001911日の同時多発テロ


「破壊願望」は、それが幼稚園児の工作の場合であれば可愛いものですが、たとえばもしも国家の為政者たちがその衝動に捉えられてしまったとしたら、大変な悲劇が起こってゆくことになります。実際、私たちがいま生きる世界はこの「破壊願望」に囚われてしまっているのではないか、と感じることがあります。


 ノストラダムスの大予言が杞憂に終わった後、しかし全世界をショックに陥れる出来事が起こりました。2001年の911日にアメリカで起こった同時多発テロです。この時私は高校3年生でしたが、世界貿易センタービルが崩壊してゆく映像をテレビで見ながら、大変なショックを受けたのを覚えています。この出来事と共に、21世紀という新しい世紀は幕を開けました。


 もちろんテロ行為は許すことはできないものですが、私が「破壊願望」に囚われてしまっていると感じているのは、むしろその後のアメリカを中心とする西欧諸国の対応です。アメリカと有志連合軍は「テロの撲滅」というスローガンの下、テロという暴力により強大な暴力で対抗するという政策を取ってゆきました。同年にはアフガニスタン戦争が起こり、2003年からイラク戦争が起こりました。その結果、世界の情勢がどれほど泥沼の状態になっていってしまったかは、皆さんもよくご存じの通りです。イラク戦争による死者数は、正確な数字ははっきりしていませんが、ある統計では5060万人以上になるとも言われています。そしてその中の7割以上が民間人です。大半の人が、有志連合軍による銃撃や爆破、空爆といった攻撃によって命を落としています。


 冷静に考えるとこのような悲惨な結果になることが自明であるにも関わらず、あえて戦争に踏み切ったアメリカと有志連合――日本政府もアメリカを強く支持しました――は、一種の「破壊願望」に囚われているとしか言いようがないのではないでしょうか。もちろん当人たちは自分たちは「破壊的」な行動を行っているのではなく、世界の平和のために「建設的」な行動をしていると自負しているでしょう。しかし、何より肝心な外交という努力もせずに、「テロの撲滅」というスローガンの下にすさまじい破壊行為を行い、無数の人の命を奪い傷つけたのが、先のイラク戦争でありました。それは命と尊厳を傷つけ奪う、破壊的な行為以外の何物でもありません。


「破壊願望」に囚われていたのは為政者たちだけではありませんでした。同時多発テロを受け、愛国心の高まりの中で、アメリカの国民の多くが熱烈にブッシュ政権を支持しました。


 


20151114日の同時多発テロ ~暴力の連鎖を止めよ


昨日1114日、フランスのパリで大規模な同時多発テロが起こりました。皆さんもニュースを受け、大変心を痛めていらっしゃることと思います。パリでのテロによって命を奪われた人々を覚えて、また深い悲しみと恐怖の中を過ごしているフランスの人々を覚えて、祈りを合わせたいと思います。


この度の事件は、2001年のアメリカでの同時多発テロと同じように、ヨーロッパの今後を決定づける出来事になってしまうと思われます。ヨーロッパは、そして世界は、昨日の1114日を境にまた変わってゆかざるを得ないでしょう。では一体、どのような方向へ変わってゆくのでしょうか……? 「テロの撲滅」というスローガンの下、また9・11以後のような破壊行為が繰り返されないようにと願うばかりです。テロという暴力に、より強大な暴力で報復するというやり方では、いつまでもこの世界からテロはなくなることはないでしょう。そもそもISという存在も、イラク戦争という破壊行為が生み出してしまったものです。国際社会は空爆という破壊行為を中止し、暴力に頼るのではない仕方でこのイスラム過激派組織によるテロの問題と向かい合ってゆくべきです。私たちはこの度のテロ事件を、暴力の連鎖を止めるための節目の出来事にできるよう努力してゆくことが求められています。

 


「惑わされないように気をつけなさい」


聖書が書かれた時代にも、ノストラダムスの大予言のようなものはありました。「何年の何月に世界の終わりが来る」、「その前兆としてこのようなことが起こる」という予言です。専門的な用語で「黙示思想」というものがそれに当たります。


 本日の聖書箇所で、弟子たちがイエス・キリストにした質問は、まさにこの黙示思想的な関心を示しています。弟子たちは「世界の終わり」について、《おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか》と質問をしました(4節)。この弟子たちの姿は、ノストラダムスの預言に関心を寄せている人々の心情に似ています。


 その問いに対し主イエスは冷静にお答えになりました。《イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。/わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。/戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。/民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。…」》(58節)。


ここでの主イエスのメッセージは、「まだ終わりではない」ということです。「まだ世の終わりなど来ない」ということです。主イエスはここで黙示思想的な関心、言い換えれば、ノストラダムスの大予言的な関心をはっきりと斥けておられます。熱狂的になるのではなく、冷静沈着に一つひとつのものごとに接するようにと諭しておられます。


 

「福音のはじめ」へ


19997の月に、恐怖の大王がやってきて世界が滅亡する」というのがノストラダムスの大予言でしたが、もし「恐怖の大王」という存在がいるとしたら、それは一人ひとりの心にひそむ「破滅願望」であるのかもしれません。それは、「全部がめちゃくちゃになったら、むしろすっきりするのではないか」という無責任な願望であり、「自分さえよければ他の人はどうなってもいい」という自分勝手な願望でもあります。私たちはこの衝動にのみ込まれないように、常に気をつけていなければなりません。


 主イエスはたとえ大変な出来事があったとしても、「世界の終わり」はまだ来ないのだから、人に惑わされないようにしなさい、とおっしゃっています。自暴自棄になるのではなく、落ち着いて、やるべきことを一つひとつ行ってゆくことの大切さを私たちに伝えて下さっています。


危機的な状況の中で、とりわけ私たちがなすべきこと、それは、神の国の福音に固く立ってゆくことです。主イエスはおっしゃいました、《しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない》(10節)。


 福音とは、一人ひとりの生命と尊厳を守る神さまご自身の力です。私たちは危機的な状況にある今こそ、この福音に固く立ってゆかねばなりません。私たちの「破壊願望」と対極にあるもの、それが「神の国の福音」です。自分自身を大切にすること、自分の隣り人を大切にすること、一人ひとりの命と尊厳とを何よりも第一に守ってゆくこと。私たちは今こそ、このことに目を注ぎ、私たちの基盤としてゆけねばなりません。


マルコによる福音書の冒頭は、《神の子イエス・キリストの福音の初め》と記しています。私たちは「世界の終わり」に立ち会っているのではありません。福音書が記すように、「福音のはじめ」に立ち会っているのです。


ごいっしょに自らの内に命じましょう。「恐怖の大王よ、去れ!」と。どうぞ今こそ私たちが、一人ひとりの命と尊厳を守るための一歩を踏み出してゆくことができますように。