2015年11月22日「苦難の予告」

 20151122日 聖書箇所:マルコによる福音書131423 

「苦難の予告」

 

 

柳谷明先生召天

 

1115日(日)午前10時前、私たちの愛する柳谷明先生が天に召されました。ご家族の皆さまの上に、柳谷先生につらなるすべての方々の上に、神さまよりの慰めがありますよう、お祈りいたします。

 

前日の土曜日には三男の和人さんとお孫さんの千咲ちゃんが柳谷先生の病室に泊まられていました。翌日日曜日の教会学校の分級に出席するため、「教会に行ってくるよ」と声をかけると、先生はお二人のほうを見ていらっしゃったそうです。それからほどなくして、ご容態が急変されました。ご家族の皆様で亡くなったのを確認された時間は1043分ですが、天に召されたのは950分くらいではないかということです。ちょうど礼拝が始まる前の時間ですので、お嬢様の励子さんは、「父は一緒に教会の礼拝に行ったのだと思う」とおっしゃっていました。

礼拝後まもなく私も病院に参りましたが、おだやかなお顔でいらっしゃいました。

 

牧師を隠退された2011年4月から、柳谷先生はご夫妻でこの花巻教会の礼拝に出席されていました。私は2013年からこの花巻教会に赴任いたしましたが、いまだ神学校を卒業して間もない新任教師でありましたので、聖餐式の司式を二か月に一回のペースで担当していただきました。私が休暇のときは説教も担当していただき、心より感謝しております。祈祷会にも毎週欠かさず出席しておられました。礼拝で、また祈祷会で、大きな声で讃美歌を歌ってくださる柳谷先生の存在に、いつも励ましを受けておりました。

 

柳谷先生の最後の礼拝出席となったのは、104日の召天者記念礼拝でした。痛みをこらえながら、またお薬の副作用をこらえながらの、車いすに乗っての礼拝の出席でした。入院中も、何とかして礼拝に出席したいと願っておられたようです。教会の礼拝に対するその強い想い、その姿勢に、私たち花巻教会も多くのことを教えていただきました。

 

本日は、日本キリスト教団の暦では収穫感謝日・謝恩日に当たります。収穫感謝日は、神さまから与えられた収穫の恵みを感謝する日です。謝恩日は、牧師を隠退された先生方とご家族を覚え、感謝の想いを新たにする日です。日本全国の教会で、隠退された先生方のお働きと、神さまの恵みを覚えて感謝の礼拝がささげられています。私たち花巻教会は特に、柳谷先生の牧師のお働きと、柳谷先生のご生涯を通して現された神さまの恵みに感謝をささげたいと思います。17日に行われた前夜式と18日に行われたご葬儀では、私たちは柳谷先生のお働きの、その豊かな実りを見させていただいたように思います。

 

 

 

平和を求める祈り

 

柳谷明先生は水曜日の祈祷会にも毎週欠かさず出席されていました。お祈りの中で、日本の行く末を危惧されていたのが心に残っております。私たちが社会はいま、集団的自衛権の容認、原発の再稼働など、聖書が語る平和とは正反対の方向へ進もうとしています。

 

昨年、岩手地区教師会のグループ研究会に私は柳谷先生とご一緒に出席しましたが、その研究会の中で、柳谷先生は、私たちの国においてあの東日本大震災と原発事故がなかったことのようにされている現状があることを嘆いておられました。ガラテヤの信徒への手紙34節の《あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……》というパウロの手紙の一節を引用され、危機感を表明されていました。

 

昨日は鎌仲ひとみ監督の『小さき声のカノン』という映画の自主上映会をいたしました。放射能の被害から子どもたちを守ろうとする人々のドキュメンタリー映画です。鎌仲監督も講演の中で、日本人は一種の健忘症にかかっているのではないか、あの原発事故があったことを多くの人々がもう忘れてしまっているのではないか、とおっしゃっていました。いま多くの子どもたちの命が放射能により傷つけられている現状があるのにも関わらず、です。この映画には、放射能の汚染の中で生きる子どもたちの命を守りたいという願いが込められています。柳谷先生もご存命であったら、必ずこの度の上映会に来て下さったであろうと妻と話しておりました。

 

柳谷先生は大船渡で牧師をしてらっしゃる頃、志を同じくする方々と「平和を語る市民の会」を結成したり、山形で牧師をしてらっしゃる頃は山形9条の会を立ち上げて働かれたりするなど、平和への働きかけに積極的に取り組まれたと伺っております。柳谷先生ご自身も子どもの時に戦争を経験され、10歳のときに敗戦を迎えられています。それだけに、日本の平和、世界の平和ということに強い願いをもっておられたことと思います。とりわけ、お孫さんたちの世代の将来を想うとき、平和がこの地に実現されることを祈らずにはいられなかったことと思います。私たち遺された者は柳谷先生の信仰を受け継ぐと共に、先生の平和への祈りも受け継いでゆかねばならないと思っております。

 

 

 

パリの同時多発テロから一週間

 

パリでの同時多発テロから一週間が経過しましたが、緊迫した状態が続いています。14日のテロの翌日、フランスはアメリカと連携して、即座にISの拠点のラッカを空爆しました。ロシアの飛行機の墜落事故もテロによるものが明確になり、早速ロシアは報復の攻撃を開始しました。ISの拠点への空爆が当たり前のようにニュースで報道されていますが、冷静に考えると異常な事態です。暴力は暴力を呼び、報復は報復を呼んでいます。その負の連鎖は断ち切られることはなく、空爆によって多くの民間の方々の命が奪われています。

 

ある人が、今私たちが考えるべきは「何をするべきか」ではなく、「何をすべきでないか」であるとSNSに書き込んでいました。いまの国際社会は「すべきではない」ことを真っ先に行ってしまっているという状況にあります。「すべきではない」こととは即ち暴力による解決であり、空爆です。

 

客観的に考えれば、テロという暴力に対して空爆という暴力を返せば、また新しいテロという暴力を生んでしまうことは明白です。しかしあえて空爆を行い続けるということは、見方を変えれば、今後もテロが起こるようにあえて仕向けていると言わざるを得ないでしょう。フランスのオランド大統領はいまの状況は「対テロ戦争」であると明言していますが、空爆をすることによって、今後もこの「戦争状態が続くように」とあえて仕向けているとしか思えません。その背後には、軍需産業によって利益を得ようとしている人々の存在があるのでしょう。愚かであるとしか言いようがありませんが、これが私たちの世界の現状です。

 

このような現状に対し、私たちキリスト教会はどのような言葉を発するべきでしょうか。

 

 

 

マカバイ戦争の頃

 

本日の聖書箇所は、イエス・キリストがこれから大きな苦難が来ることを弟子たちに予告している箇所です。

 

マルコによる福音書131423節《「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。/屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。/畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。/それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。/このことが冬に起こらないように、祈りなさい。/それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。/主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。/そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。/偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。/だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって行っておく。」》。

 

冒頭に、《憎むべき破壊者》という謎めいた語句が出て参ります。このフレーズは当時のユダヤの人々に広く伝わっていた言い方であったようで、旧約聖書のダニエル書や外典のマカバイ記にも出てきます(ダニエル書927節、1131節、1211節、マカバイ記一154節)

ダニエル書やマカバイ記では、この《憎むべき破壊者》とは、セレウコス朝シリアの王アンティオコス・エピファネスが紀元前167年にエルサレム神殿に立てたゼウスの彫像を意味していると言われています。神聖な神殿に異なる宗教の神の像を立てられるということは、ユダヤ教徒の人々にとっては耐え難い冒瀆でした。

 

当時、アンティオコス・エピファネスはユダヤ教徒に対して、ヘレニズム文化への同化政策を取っていました。アンティオコス・エピファネスはユダヤ教の根幹にある律法を禁止し、ギリシャの神々の像をエルサレム神殿に配置しました。その理不尽な同化政策に抵抗するユダヤ教徒に対し、アンティオコス・エピファネスは激しい迫害を行いました。

 

そのような中、ユダ・マカバイという政治的なリーダーが登場します。ユダ・マカバイは民族的な英雄です。マカバイ記という書の名前はこのユダ・マカバイから採られています。ユダ・マカバイをリーダーとしてなされた独立戦争はマカバイ戦争と呼ばれることもあります。イスラエルはその後、一時的に独立を果たすことに成功しますが、同時に、戦争を通して非常にたくさんのユダヤ教徒の人々の命が奪われることになりました。たくさんの人々が、イスラエル民族のために、神のために、自分の命を献げてゆきました。

 

 

 

「山に逃げなさい」

 

本日の聖書箇所において登場する《憎むべき破壊者》とは、マカバイ戦争の発端となった、エルサレム神殿に配置されたギリシャの神々の像を想い起こさせる言葉です。実際、マルコによる福音書が記される少し前(紀元3940年)に、同じような出来事が起こったと言われています。ローマ皇帝のカリグラという人物が自分を神とし、その像をエルサレム神殿に持ち込もうとしたのです。ただし、それは実現されずに未遂に終わりました。もしそれが実現していたら、マカバイ戦争のような激しい抵抗運動が起きたことでしょう。多くの血が流され、多くの命が失われることになったと思います。

 

 本日の聖書箇所は、もしもそのようなことが起こったら、という前提で教えが説かれている箇所です。14節《憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい》。

 

 印象的なのは、ここで主イエスが「逃げなさい」とおっしゃっていることです。「抵抗せよ」とはおっしゃっていないし、「戦え」ともおっしゃっていません。マカバイ戦争の時代なら、「神殿を守るために命を献げろ」、「イスラエル民族のために命を献げろ」、「神のために命を捨てろ」と人々は互いに言い合ったことでしょう。そしてそのように殉教することが、信仰者の模範であるとされたでしょう。けれども、主イエスはもはや、そのようなことはおっしゃいません。「逃げろ」とおっしゃっています。それは言い換えれば、「生きろ」というではないでしょうか。

 

 

 

命こそ宝

 

 沖縄の言葉に、「命どぅ宝」という言葉があります。「命こそ宝」という意味の言葉です。国の栄誉よりも、民族の栄誉よりも、一人ひとりの命こそが宝。命をこそ何よりも貴いものとして守ってゆかねばならない。私はイエス・キリストが私たちに伝えて下さっている福音と、「命どぅ宝」という言葉とに、深く響きあうものを感じています。主イエスは次の言葉も遺されています。《人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。/自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか》93637節)一人ひとりの命は全世界よりも重いということ。その一つひとつの命が、「かけがえのないもの」(=かわりがきかないもの)であるということを伝えて下さっています。

 

 私たち教会は、いまこの神の国の福音の呼び声を、新しく聴き取ってゆくことが求められています。「命を捨てる」ことを強要する従来の宗教性を乗り越えて、「命をこそ何より貴いものとする」新しい宗教性を形成してゆくことが求められています。

 

国のために命を捨てるな。民族のために命を捨てるな。思想信条のために命を捨てるな。神のために命を捨てるな。生きよ!

 

主イエスは、神さまは私たちに「生きよ」とおっしゃっていることを伝えて下さっています。生きよ、何としてでも、生き続けよ。あなたの命を守れ。あなたの家族の命を守れ。あなたの友の命を守れ。子どもたちの命を守れ。神さまからいただいているこのかけがえのない命を守れ。なぜなら、命こそ宝であるのだから。

 

生命と尊厳を第一とする姿勢こそが、まことの平和を作り出す土台になってゆきます。どうぞ私たちがこの地にまことの平和を実現してゆくために共に働いてゆくことができますように。