2015年11月29日「キリストは明日おいでになる」

 20151129日 聖書箇所:マルコによる福音書132427

ダニエル書71314節、ルカによる福音書12638

「キリストは明日おいでになる」

 

 

アドベント ~イエス・キリストの到来

 

教会の暦では、本日からアドベント(待降節)に入ります。アドベントとは、「到来」という意味の言葉です。イエス・キリストの到来――すなわち、イエス・キリストが誕生したクリスマスを待ち望む時期です。

 

 クリスマスに向けて、ご自宅にアドベント・カレンダーを飾った方もいらっしゃることでしょう。私も幼い頃、家に飾られたアドベント・カレンダーを一日一日めくってゆくのが楽しみでした。ある年は待ちきれなくて、クリスマスの数日前に、こっそり25日の絵を隙間からのぞいてしまったこともあります。そこには飼い葉桶に眠る赤ん坊のイエスさまの絵が描いてあったかと記憶しています。アドベントは、主イエスのご誕生を「待ち望む」時期ですから、子どもにもそれを伝えるのにアドベント・カレンダーはよいものですね。

 

 また教会では、アドベントの時期に週ごとに1本ずつ、ろうそくに火をともしてゆく風習があります。先週の金曜日に有志の皆さんがリースとクランツづくりをしてくださいました。第1週目の本日は、こちらのクランツのろうそくの1本に、火がともされています。第2週目には2本に火が、第3週目には3本に火が、そして4週目のクリスマスには4本すべてのろうそくに火がともります。この風習も、イエス・キリストの到来が週ごとに近づいている様子を私たちに感じさせてくれるものです。

 

ろうそくの光は、イエス・キリストが「まことの光」であることを表しています。新約聖書では、イエス・キリストは「まことの光」と呼ばれます。《その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである》(ヨハネによる福音書1章9節)

私たちはアドベントの期間、このまことの光を「待ち望む」想いを、自らの内に新たにします。

 

 

 

主が再び来られる時

 

 先ほど、アドベントとは「到来」という意味であるということを申しました。それはイエス・キリストの誕生を意味するとともに、終わりの日に再びイエス・キリストが私たちのもとに来られるという「到来」の意味も含まれています。教会の言葉で「再臨」という言葉がありますが、主が再び来られる時を「待ち望む」想いを新たにするのも、このアドベントの時期です。

 

 お読みしました聖書箇所は、ちょうど、イエス・キリストの再臨について述べられている箇所です。改めてお読みしたいと思います。

マルコによる福音書132427節《「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、/星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。/そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。/そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」》。

 

 太陽が暗くなるとか、星が空から落ちるとか、何だか怖いような描写が記されていますが、旧約聖書の時代から伝統的に、終わりの日について、このような表現がなされることがあります(イザヤ書1310節、ヨエル書245節など)。一種の象徴的な表現ですが、非常にスケールが大きいですね。前々回や前回の礼拝では私たちは「惑わされないように気をつけなさい」という主イエスの言葉を読みました。戦争が起こっても、いまだ「終わり」ではない。イスラエル民族にとって悲劇的な出来事が起こっても、いまだ「終わり」ではない。本当の「終わり」は、まだ来ることはない、という警告を私たちは聞きました。

 

本日の聖書箇所で記されているのは、まだ来ることはない「終わり」の時がもし来たらどのようなことが起こるかが象徴的に記されています。太陽は暗くなり、天地は揺り動かされる。そして《人の子》が到来する。《人の子》というこの不思議な存在を、教会は伝統的に「再臨のイエス・キリスト」と受け止めてきました。26節《そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る》。

 

まことの光であるイエス・キリストが、再び私たちのもとに来て、暗闇の中にいる世のすべての人を照らしてくださる。その日が必ず来たることを、教会はこの2000年間、希望として信じ続けてきました。

 

 

 

「目を覚ましていなさい」

 

 アドベントはイエス・キリストの「誕生」を「待ち望む」時であり、また同時に、イエス・キリストの「再臨」を「待ち望む」時であるということを述べました。

 

 分かるようでいて、分からない部分もあるかもしれません。具体的には、では、私たちはアドベントの時をどのような姿勢で過ごしたらよいのだろう、と。

マルコによる福音書の続きの箇所には、次のような言葉があります。3233節《その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。/気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである》。アドベントにおいて私たちが思い起こすべき姿勢とは、言い換えれば、「目を覚ましていること」ということができるでしょう。まどろみの中にいることなく、心の目をぱっちり覚ましていること、です。

 

では何に対して、でしょうか。まことの光であるイエス・キリストの到来に対して、ですが、より具体的に私なりに表現すれば、イエス・キリストを通してもたらされる「神さまの栄光の光」と、「人間の尊厳の光」についてです。このまことの光について、私たちはまどろむことなく、「目を覚ましていること」が求められているのだと思います。

 

 

 

神さまの栄光と人間の尊厳

 

聖書には繰り返し「栄光」という言葉が出てきます。本日の御言葉にも出てきました。26節《そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る》。

原文のギリシャ語では「ドクサ」と言い、元来は「輝き」という意味をもつ言葉ですが、「栄光」とも、また「尊厳」とも訳すことのできる言葉です。神さまに対しては「栄光」と訳し、人間に対しては「尊厳」と訳すことがふさわしいでしょう。

 

イエス・キリストの到来を通して私たちに示されるもの、それは神さまの大いなる栄光の光であり、また、その神さまから私たちに与えられる人間の尊厳の光です。クリスマスとは、神さまの大いなる栄光の光が示された日であると同時に、御子を通して私たちの間に尊厳の光がともされた日です。私たちはその光がすでにともされていることを信じ、また主が再び来られる時にその光が完全に私たちを照らし出すことを信じています。

 

私たちは日々の生活の中で、この光についての感受性を失ってしまうことが多いものです。ついつい自分自身のことばかり考えて、神さまの栄光のために何かを為す、という想いを忘れてしまいます。そのとき、私たちはまどろみの中にいます。

 

しかしまた、では神さまの栄光のためにすべてを為していれば、それで良いのか、というとそうはなりません。隣り人が困っていたり助けを必要としているのに平気でそれを見過ごしているのであれば、私たちは人間の尊厳についての感受性を失っていることになります。そのときやはり私たちはまどろみの中にいます。神さまの栄光へと人間の尊厳、その両者は本来的に切り離すことができないものです。

 

人間の尊厳とは、言い換えれば、「一人ひとりのかけがえのなさ」ということです。神さまは私たち一人ひとりをかけがえのない存在として見つめて下さっています。神さまから見て、私たちはかけがえなく、貴いのだということ。それが、私たち一人ひとりに与えられている神さまから与えられている尊厳の光です。私たちはこの光への感受性を失うことなく、目を覚ましていることが求められています。私たちは尊厳がないがしろにされている現状に対して、鋭敏でいることが求められています。私たちが互いをかけがえのない存在として大切にし合う時、神さまの栄光の光が私たちの間に輝き出でます。

 

 

 

まどろみと暗闇

 

私たちは日々の生活の中で、いかにこの光を見失うことが多いことでしょう。自らまどろみの中に陥ってゆくことが多いことでしょう。また、私たちの生きる社会がいかにこの光を見失い、暗闇の中に陥ってしまっていることでしょう。

 

私たちのいま生きる社会には、至る所にまどろみがあり、暗闇があります。人間の尊厳への感覚が麻痺してしまっている現状があります。

 

先日の1112日(木)~13日(金)にかけて、岩手地区の一泊教師会として福島へ現地研修に行って参りました。福島でいま起こっていること、まさにそれは、人間の尊厳の感覚の喪失であると感じています。皆さんもよくご存じのように、原発事故直後から現在に至るまで、国の対応の一つひとつがまったくおかしなものであると言いますか、まったくピントがずれたものになってしまっています。放射能の危険を人々に「知らす」のではなく、それを「隠す」。国策として「逃げろ」と言うべきところを、「とどまれ」、「戻れ」と言う。放射能の危険にさられている人々の命を守るという、何より最優先すべきことが、まったくないがしろにされています。とりわけ、放射能の影響に最も敏感な子どもたちの命を守るという最優先の事柄が、後回しにされている。「ただちに影響はない」などと言って、ごまかされ続けている。放射能のリスクの不安の中で生きる人々の声はかき消されてゆく。

 

為政者たちのピントのずれとは、命と尊厳に対するピントのずれに他ならないでしょう。人々の命と尊厳は軽視され、一部の人々の都合や利害関係が優先され続けている現状があります。至るところで小さな叫び声が発されていますが、その声は、「安全・安心」キャンペーンの大きな声の中でかき消されてゆきます。

 

このように、私たちの間には、私たち自身が造りだしてしまっているまどろみ、暗闇があります。私たちはこれら暗闇を直視し、はっきりと認識してゆく必要があります。まどろみと暗闇は私たちの社会に、私たちの身近なところに、また私たち自身の内に、存在しています。私たちはこれら内外の暗さを自覚しつつ、しかしそれに取り込まれることなく、「目を覚ましている」役割を主から託されています。アドベントのこの時期、私たちは改めてこの役割を想い起こしたいと思います。

 

 

 

キリストの光を輝かす教会に

 

一人ひとりに神さまからの尊厳が確保されために、主は、私たち一人ひとりを用いようとして下さっています。私たちは主が再び来られる時を「待ち望む」と同時に、すでに私たちのもとに来られた主と共に「働いてゆく」のです。私たちの間に神さまからの尊厳の光をともすために。

 

本日は午後から、正教師就任式が行われます。皆さんのお祈りに支えられ、按手礼を受けることをゆるされ、本日就任式を行うことができますことを心より感謝しております。

 

説教の中で共に聴きましたように、私たち花巻教会は本日改めて、「目を覚ましている」という主から託された役割を想い起こしたいと思います。イエス・キリストがともしてくださった神さまの栄光の光と人間の尊厳の光に対して、絶えず「目を覚ましていること」。そして私たちもまた花巻の地にあって、このキリストの光を輝かす教会となることができますよう、ご一緒に歩んでゆきたいと願っています。