2015年11月8日「神殿の崩壊の予告」

  201511月8日 聖書箇所:マルコによる福音書1312

「神殿の崩壊の予告」



神殿の崩壊の予告


本日の箇所には、イエス・キリストによるエルサレム神殿の崩壊の預言が記されています。エルサレム神殿はエルサレムにあったユダヤ教の礼拝の中心地です。紀元前20年頃よりヘロデ大王による大規模な修繕と拡張工事が進められ、当時、神殿は人々の目に壮麗な姿を見せていました。


ヘロデ王は白い大理石で造られていた本殿の正面を輝く黄金で装飾しました。また、敷地を大幅に拡張し広い境内を造り、その周りに回廊を巡らしました。エルサレム神殿に巡礼に来た人々は、その荘厳さに驚いたことでしょう。主イエスの弟子の一人も、「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と思わず感嘆の声を挙げたことが本日の聖書箇所に記されています。


もしいま現存していたら間違いなく世界遺産に選ばれていたでしょうが、紀元70年に、神殿はローマ軍によって破壊されてしまいました。神殿の外壁だけは現存しており、その西側の部分がよく知られた「嘆きの壁」として残されています。写真やテレビの映像などで、嘆きの壁に手を当てて祈っているユダヤ教徒の人々の姿を見たことがある方もいらっしゃることと思います。


 ユダヤ教徒の人々にとって礼拝の中心地であったその神殿が崩壊することを本日の主イエスの言葉は予告しています。マルコによる福音書132節《イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」》。


紀元70年のローマ軍の侵攻によりそれは現実になるわけですが、この言葉がどれほど物騒な言葉であったかは想像に難くありません。当時の社会の中で最も権威があったのが、エルサレム神殿を中心とする権力体制でした。神殿には「最高法院」というユダヤ人の自治機関が存在しており、宗教的にも政治的にも絶大な権力をもっていました。


最高法院のトップの議長の座にいるのは大祭司と呼ばれる人物で、議員として祭司長、長老、律法学者と呼ばれる人々がいました。神殿を批判するということは、当時のユダヤ社会の権力者のトップを批判するということと等しいことでした。もしそのような言動が知られたら、死罪にされてもおかしくはなかったでしょう。事実、主イエスはこの後、最高法院の人々の策略によって捕えられ、十字架刑に処せられることになります。


 


「土台」の喪失


 主イエスがここで批判しておられるのは、神殿そのものというよりも、神殿を中心とする当時の宗教的な支配体制であるということができるでしょう。最高法院とそれに属する宗教的な指導者たちは、神殿の権威を利用して人々を支配し、人々の財産を搾取していました。マルコによる福音書の11章には「あなたたちは神殿を強盗の巣にしてしまった」という主イエスの痛烈な批判の言葉も記されていました(1117節)。


本来、すべての人の祈りの家であるべき神殿で、宗教的な指導者たちは貧しい人びとから金品を搾取している。また、神殿の周りで困窮し助けを求める人々のことを顧みることはない。主イエスはその現状を御覧になり、深く嘆かれました。


 当時の宗教的な支配体制は、まことの「土台」を失っていたのだと言うことができます。自分たちの私利私欲などの不確かなものによって成り立っているこれら体制は、主イエスの目から見ると、まことにもろいもの、はかないものに見えたのではないでしょうか。「土台」を失ったこのようなあり方は、いつか崩壊するであろう。自ら崩壊を招くであろう、と。主イエスはきらびやかに装飾された神殿を見つめながらおっしゃいました、《一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない》。


「砂上の楼閣」という諺もありますが、私たちは物事に取り組む時、目先の損得をばかり考え、砂の上に家を建てようとしていることがあるのではないかと思わされます。もし大雨が降ったら、河川が氾濫したら、ということは考えず、とりあえずの目先の自分の利益を優先させてしまうのです。主イエスは当時のエルサレムの神殿体制をそのようなものだと批判されましたが、今を生きる私たちの社会にも当てはまることではないでしょうか。一見、立派であったり、きらびやかに見えたりしていても、内実が伴わず、基礎がしっかりとしていない、ということがあるように思います。そのつけはいつか、近い将来必ずやってくることになります。


 


一人ひとりに与えられている神さまからの尊厳


当時のエルサレム神殿において、見失われていたものとは、何でしょうか。見失われていたまことの「土台」とは何でしょうか。本日はその「土台」を、「私たち一人ひとりに与えられている神さまからの尊厳」と受け止めたいと思います。


「尊厳」とは、言い換えれば、「かけがえのなさ」ということです。「神さまから見て、私たち一人ひとりがかけがえなく貴い」ということ。その根本的な真理が、当時のエルサレム神殿において見失われてしまっていたのだと思います。


旧約聖書のイザヤ書には《わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している》という、神さまからイスラエルに向けての言葉あります(イザヤ書434節)。その神さまからの語りかけの声が、聴こえなくなっていたのが、当時のユダヤの社会であったのではないでしょうか。


神さまからの尊厳がもっとも確保される場であるべき神殿で、人々の尊厳がないがしろにされている。貧しい人々は財産を搾取され、宗教的な指導者たちはますます私腹を肥やしている。目先の利益ばかりが優先されている。そこには、「一人ひとりに神さまからかけがえのない命が与えられ、尊厳が与えられている」ということへの感受性が見失われています。


「生命と尊厳を第一とする」というこの「土台」が見失われるとき、社会は崩壊へと進んでゆきます。私たちがいま生きる社会もまた、そのような危うい状況にあるのではないでしょうか。たとえばこの国の原発に対する姿勢、放射能の被害に苦しむ人々に対する姿勢を見ると、いかにこの国において「土台」が見失われているかが分かります。「生命と尊厳」が守られることは第一とはされず、個々人の「利益」が優先されてしまうという現実があります。


 


神の国の福音


 主イエスはその宣教の始まりにおいて、このようにおっしゃいました。115節《時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい》。


 主イエスがおっしゃる「神の国」とは、「私たち一人ひとりに神さまからの尊厳が確保されている場」のことです。主イエスは心の向きを変え、いまこそその神の国の福音を信頼しなさい、とおっしゃいました。


「福音」とは、私たち一人ひとりに神さまからの尊厳を取り戻してくださる、神ご自身の力です。主イエスはその福音を伝えるため、私たちのもとへ来てくださいました。私たちはいま一度、この福音に立ち還ることが求められています。この神の国の福音を土台として、私たちは社会を形づくってゆくことが求められています。


 


主はエルサレムのために泣かれた


 私たちに神の国の福音を伝えるために宣教の旅に出て下さった主イエスですが、その旅も終わりに近づいています。エルサレムに来られた主イエスはこの先、捕えられ、十字架にお架かりになります。主イエスの神の国の福音の言葉は人々から拒絶されてゆきます。


別の福音書では、エルサレムに近づいて都を見た主イエスが、涙を流されたということを証言しています。ルカによる福音書194144節《エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、/言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。/やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、/お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」》。


主イエスはエルサレムの現状を御覧になったとき、近い将来、自ら滅びを招くであろうことを見抜かれました。主イエスはエルサレムのために、涙を流されたと福音書は記します。


主イエスが涙を流されたという記述は新約聖書の中に3回だけ出てきます。一つはヨハネによる福音書のラザロの死の場面において、もう一つはヘブライ人への手紙で主のご受難の記述において、そしてもう一つがこのルカによる福音書の場面です。


主は涙を流されるほどに、エルサレムを愛しておられました。胸が引き裂かれるような悲痛な想いの中で、主はエルサレムと神殿の崩壊を予告されました。


 


主の祈りに私たちの祈りを合わせ


主イエスはこの先、十字架の道を歩まれてゆくことになります。主は最高法院の人々によって捕えられ、裁判にかけられ、十字架に処せられることになります。主イエスが伝えて下さった神の国の福音は、人々に聞き入れられることはなかったのです。


 主イエスの涙について、ヘブライ人への手紙は次のように語っています。《キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました》(ヘブライ人への手紙57節)。


 主イエスは十字架の道行きにおける激しい苦痛の中で、それでも、涙を流しながら、私たちのために祈りと願いとをささげてくださいました。私たち人間に神さまからの尊厳の光がともされることを祈り続けてくださいました。神さまから見てかけがえなく貴い私たち一人ひとりが決して失われることのないようにと願い続けてくださいました。主イエスのこの祈りがともるところ、それが主の十字架です。主の祈りが灯り続けているところ、それが主の十字架です。


いまこそ、この主の十字架に立ち還りたいと願います。主の祈りに立ち還り、その祈りに私たち自身の祈りを合わせてゆきたいと願います。いまこそ、神の国の福音を、私たちの生の「土台」にしてゆくことができますように。

《時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい》。