2015年12月13日「目を覚ましていなさい」

 20151213日 聖書箇所:マルコによる福音書133237節

「目を覚ましていなさい」


 

「目を覚ましていなさい」


眠ってはいけない時に、眠気を催してしまうということは皆さんも経験されることと思います。講演会を聴きに行ったとき、途中でふいに睡魔が襲ってくる、など。特に、お昼の食事を終えた後は眠くなることが多いですよね。懸命に眠気を覚まそうとするのだけれど、なかなか眠気に抗えない。そのような時は事前にコーヒーを飲もうと、何をしようと、駄目なものですね。 


私も10代の後半から20代の前半までは、特にそうでした。最近はそこまで激しい眠気を催すということはなくなりましたが、若かったからでしょうか、授業中などに無性に眠くなったのを覚えています。自分なりに懸命に目を覚まそうとは努力するのですが、どうにもなりません。たとえば、あえてあくびをしてみるとか。でも効きません。シャーペンの先で手の平をつついてみるとか。チクッとした痛みで目が覚めるのではないかと思うのですが、でも効きません。最後には、息を止めてみる(!)ということも試してみました。息を止める苦しさで目が覚めるのではないかと思ったのですが、それでも駄目でした。考えてみれば、息を止めると脳に酸素が行き渡らなくなって、余計に眠くなってしまったかもしれません。さまざまな手を尽くしても、どうしても眠い。気が付くと、コックリコックリ舟を漕いでしまっているということがありました。十代の頃は、教会の礼拝に出席しているとき、説教中にコックリコックリ舟を漕いでしまっているということが時々ありました。


本日の聖書箇所には、「目を覚ましていなさい」という印象的な言葉が出てきます。ここで言われているのはもちろん、いま述べた肉体的な意味ではなく、精神的な意味において、です。心の目を覚ましていなさい、ということですね。心がまどろみ、眠り込んでしまうことへの注意を喚起しているのが本日の言葉です。


マルコによる福音書133237節《「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。/気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。/それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。/だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。/主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。/あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」


 


旅に出る主人と家を守る僕のたとえ


「目を覚ましている」べきことを教えるたとえとして、本日の聖書箇所では、旅に出る主人と家を守る僕のたとえが語られています。主人が旅に出る際、家に残る僕たちに責任をもたせ、門番には目を覚ましているようにと頼んで出かける。家の主人がいつ帰って来るのかは分かりません。主人は突然帰ってくるかもしれない。そのときに眠っていることのないように、「目を覚ましている」べきことが語られています。3637節《主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。/あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい》。


 主人が帰って来る《その日》というのは、ここでは世界の終わり、すなわち「終末」の時を意味しているようです。終末の時に、主人が再び帰って来る。ここでの《主人》を、私たち教会はイエス・キリスト御自身であると受け止めてきました。イエス・キリストが来られるまでの間、私たちは絶えず「目を覚ましている」べきであるという御言葉として受け止めてきました。


 いま私たちはアドベントの時を過ごしています。アドベントとは「到来」という意味ですが、本日の聖書箇所はちょうどアドベントの時期に読まれることの多い箇所です。イエス・キリストをお迎えする準備をするこの時、私たちはまどろむことなく、目を覚ましていることが求められています。


 教会では、イエス・キリストの「到来」に、二つの意味を込めて捉えてきました。一つは、イエス・キリストが2000年前に私たちのもとへ来て下さった、その「到来」。つまり、私たちがいま待ち望んでいるクリスマスの出来事ですね。もう一つは、将来、再びイエス・キリストが私たちのもとに来てくださるという意味での「到来」です。終末の時に、再びイエス・キリストがわたしたちのもとに来てくださるという信仰ですね。「再臨」と呼ばれることがあります。


 


「見張り」と「働き手」としての役割


では、改めまして、「目を覚ましている」というのはどういうことでしょうか。冒頭で如何ともしがたい眠気について触れましたが、身体的な意味ではなく、精神の目を覚ましているのはどのようなことを意味しているのでしょうか。


改めて先ほどのたとえ話を見てみますと、主人は家を守る僕たちに「仕事を割り当て責任を持たせて出かけた」と記されています。また門番に「目を覚ましているようにと頼んで出かけた」と記されています。《主人》、すなわち主イエスは、家を守る者たちに役割を託していかれた、ということが分かります。一つは、家の前の門番に象徴される、「見張り」としての役割です。もう一つは、家の中の僕たちに象徴される、「働き手」としての役割です。「目を覚ましている」ことの中には、これらの大切な役割が含まれているのですね。


家の前の門番の「見張り」としての役割を、本日は、神さまの栄光のための「見張り」の役割として捉えてみたいと思います。神さまではないものを、まるで神さまのように崇拝することに警鐘を鳴らす見張りの役割です。私たちはこの見張りの役割を主御自身から託されているということができるでしょう。この社会で起こっていることに絶えず目を配り、神さまの栄光がないがしろにされる現実に対しては、はっきりと「否」を言う役割です。


もう一つの、家の中の僕たちの「働き手」としての役割を、本日は、人間の尊厳のための「働き手」の役割として捉えてみたいと思います。私たちの社会において、人間の尊厳がないがしろにされている現実に対して、はっきりと「否」を言う役割です。他者の苦しみ、悲しみに耳を澄まし、その叫びを聴き取る役割。それは、イエス・キリスト御自身がこの地上で行って下さったことです。その主と同じように働くようにと、私たちは主から委託されています。


神さまの栄光についての感覚を敏感にしていること。人間の尊厳についての感覚を敏感にしていること。私たちにとって、そのどちらも等しく、大切なことです(マルコによる福音書2834節)。この二つの事柄について私たちの感覚を研ぎ澄ませていること、それが本日の聖書箇所における「目を覚ましていなさい」という言葉の意味するところであるのだと思います。


 


ゲツセマネの祈り


 マルコによる福音書は次の14章から、主イエスの受難物語を記してゆきます。主イエスが捕らえられ、裁判にかけられ、十字架につけられるという場面です。マルコによる福音書は、これら十字架の道行きの中で、弟子たちは実際には「目を覚ましていること」ができなかった様子を描き出してゆきます。


 それを象徴する場面が、ゲツセマネの祈りと呼ばれる場面です(マルコによる福音書143242節)。主イエスは逮捕される直前、弟子のペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴い、ゲツセマネという場所で祈りをささげられました。そこで主イエスはひどく恐れてもだえ始められた、と福音書は記します。主イエスは弟子たちにおっしゃいます。《わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい》1434節)


主イエスは弟子たちから少し離れたところで祈りをささげられ、「御心なら、この受難の杯を取り除けてほしい」と父なる神に願います。主イエスが戻って御覧になると、弟子たちは眠ってしまっていました。主イエスはペトロに、《シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。/誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い》と伝えられます3738節)。そしてまた少し離れたところに行って祈りをささげられます。再び戻ってみると、弟子たちはまた眠っていました。如何ともしがたい眠気に弟子たちは襲われてしまっていたのです。弟子たちは主イエスにどういえば良いのか分かりませんでした。主イエスが三度目に戻って来ると、弟子たちはやはり眠ってしまっていました。


懸命に祈る主イエスと、少し離れたところで眠り込む弟子たち。マルコによる福音書が記すのは、これが私たち自身の率直な姿である、ということです。主イエスの悲しみの叫びも弟子たちの心の耳には聞こえず、その苦しむ姿も心の目に見えることはありませんでした。神さまの切なる叫びと隣人の切なる叫びを前に、如何ともしがたい心身の眠気に襲われ眠り込んでしまうのが、私たちの率直な姿です。私はこのゲツセマネの場面を読むと、如何ともしがたい眠気に襲われて眠り込む弟子の一人であるような気持になります。


 深い悲しみを前に心身が眠り込んでしまうというのは、人間の一種の防衛本能によるものであるということもできるかもしれません。私たちはそれら悲しみを自分自身の内に受け止めることに「耐え得ない」と思うのでしょう。主イエスが背負ったのは、すべての人の悲しみであり、苦しみでした。生身の人間である弟子たちは、その圧倒的な悲しみにとても耐え得なかったのでしょう。弟子たちは神さまの声にも隣人の声にも心を閉ざし、まどろみの中に陥ってゆきました。


主イエスは眠り込んでいる弟子たちを責めることはなさいませんでした。「もうこれでいい。時が来た」とおっしゃり1441節)、すべてを受けとめ、すべてを引き受けて、お一人で十字架の道を歩んでゆかれました。


 


主はまどろむことなく、眠ることもない方


聖書が語るのは、イエス・キリストこそ、まどろむことなく、眠ることもない方であるということです。詩編121編には《見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない》という言葉があります。詩編12135節《どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守って下さるように。/見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。/主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方》。


たとえ私たちがまどろみ眠っているときも、主御自身は眠ることはありません。絶えず私たちを見守り、「目を覚ましていなさい」と語り続けて下さっています。決して眠ることはない主が共におられるからこそ、私たちはまどろみから目をさまし、再び立ち上がってゆく力を得ることができるのではないかと思います。


「目を覚ましていない」と絶えず語りかけて下さっている主イエス。この主こそ、絶えず目を覚ましてくださっている方です。私たちに目を注ぎ、私たちの悲しみ、苦しみ、叫びに耳を澄まして下さっている方です。


私たちが神さまと隣人に心を閉ざし、自らの内に閉じこもっているときも、主は変わらず私たちを見守って下さっています。この私の声にならない叫びを聴き届けて下さっています。この主が私たちと共におられるからこそ、私たちは再び立ち上がってゆく勇気を得ます。神さまと隣人に対して、再び心を開いてゆく力を与えられてゆきます。


 アドベントのこの時、私たちの内におられる主の声にご一緒に耳を傾けましょう。「私はいつも目を覚ましてあなたを見守っている。だから、あなたがたも目を覚ましていなさい」。