2015年12月6日「いちじくの木の教え」

 2015126日 聖書箇所:マルコによる福音書132831

「いちじくの木の教え」


 

「人の子が戸口に近づいている」


先週から、教会の暦でアドベント(待降節)に入りました。今日はアドベントの第二週、こちらのクランツも二本目のろうそくに火をともしました。来週は三本目のろうそくに火をともし、クリスマスには、四本すべてのろうそくに火をともします。


アドベントというのは、「到来」という意味です。イエス・キリストが人間となって、この世界に誕生して下さった、その到来ですね。アドベントという言葉には「接近」という意味合いも含まれています。だんだんとイエス・キリストの到来が近づいてくるのが、このアドベントの時です。


本日の聖書箇所には、《人の子が戸口に近づいている》という言葉がありました(29節)。イエス・キリストがもう戸口にまで近づいている。もうすぐ、主が私たちの家に到着され、扉をたたく音がするかもしれない。そのとき、すぐに主イエスをお迎えすることができるようにしていなければならない、と聖書は語ります。アドベントのこの時、私たちは主イエスをお迎えするために、心を整えます。



注意深さ


本日の聖書箇所は、私たちが主をお迎えするに当たって、大切な二つのことを語っています。主をお迎えするに当たって大切なこと、その一つは、「注意深さ」、もう一つは「信頼」です。


改めて、本日の聖書箇所をお読みいたします。マルコによる福音書132831節《いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。/それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。/はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。/天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない》。


前半部では、いちじくの木がたとえとして語られています。いちじくは聖書が記されたパレスチナでも重要な植物でした。パレスチナに生息する植物の多くは常緑樹ですが、いちじくは落葉樹です。いちじくの木は年ごとに葉を茂らせ、実を結びます。主イエスがこの教えを話している季節(過越しの祭りの時期)は、ちょうどいちじくが葉を茂らせ始める季節にあたります。それは夏が近づいていること、また収穫の時季が近づいてきていることのしるしとされました(参照:メアリー・ヒーリー『マルコによる福音書』、350頁)


いちじくに注意深く気を配っていないと、そのような枝の変化、葉の変化には気が付かないことでしょう。うっかりしていると変化を見過ごし、収穫のふさわしい時期を逸してしまうかもしれません。主イエスはここで、いちじくの木に対して注意深くあるべきであるように、私たちが常に注意深くあらねばならないことをお語りになっています。


では私たちは特に、何についての「注意深さ」が求められているのでしょうか。そのことを理解するためには、主イエスが到来しようとしてくださっている場所はどのような場所なのかに想いを馳せると良いかもしれません。


主が到来しようとして下さっているところ、それは私たち人間の悲しみがあるところです。私たちの痛み、苦しみがあり、叫びがある場所です。そこにこそ、主は到来しようとしてくださっています。


その痛みは私たちの周りの至るところに見出せるでしょう。私たちの社会全体に、世界全体に、痛みが満ちています。また私たち自身の内にも、痛みがあります。暗闇を照らすまことの光として、イエス・キリストは私たちのもとへ来てくださいました。《闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた》(イザヤ書91節)


私たちが常に注意深くあらねばならないのは、人間の痛み、悲しみに対してでありましょう。またその痛みや悲しみをもたらしている現実に対してでありましょう。いちじくの木の葉の微妙な変化に気を配るように、他者の痛みに、また自分自身の痛みに、私たちは注意深く、鋭敏であることが求められています。私たちがその感覚を鈍らせてしまうとき、私たちの戸口にすでに主イエスが到来してくださっていたとしても、気が付かないことになってしまうかもしれません。



人間の悲惨さ


一方で、私たちは注意深くこの世界を見つめるほど、いかにそれが悲惨なものか、はかないものかに、打ちのめされてしまうかもしれません。注意深くあることは、私たちが困難な現実に対峙するということであり、それは大変な作業であると思います。私たちが注意深くあるということは、大変な忍耐を必要とすることであり、だからこそ私たちは困難な現実から目を背けようとします。


旧約聖書のコヘレトの言葉には、この世界を注意深く見つめた一人の賢者の格言が記されています。世界を注意深く見つめ続けるコヘレトの目に見えてきたのは、神さまの恵みより、社会の不正義、人間の悪でした。《わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。/見よ、虐げられる人の涙を。/彼らを慰める者はない。/見よ、虐げる者の手にある力を。/彼らを慰める者はない。/既に死んだ人を、幸いだと言おう。更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ。/いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから》(コヘレトの言葉413節)


悲観的ともとれるこのコヘレトの言葉は、いまも昔も、いかに私たちの生きる社会に悲惨さが満ちているかを伝えてくれています。注意深く私たちの現実を見つめるほど、私たちの目に真っ先に見えてくるのは人間の悲惨さです。人間の悲惨さ、私たちの生きる世界のはかなさを目の当たりにしたコヘレトは繰り返し述べます。《なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい》(コヘレトの言葉12節)


私たちはこれら悲惨さに目を背けることなく、かといって自暴自棄になることなく、目の前にある現実に注意深く対峙してゆくことが果たしてできるのでしょうか。私たちが注意深くあるということには、どれほどの忍耐が必要とされることでしょう。そして私たちはどこから、その力を得てゆくのでしょうか。


 


神の言葉への信頼


改めて、本日の聖書箇所を見てみたいと思います。イエス・キリスト御自身が、私たちに語って下さっています。3031節《はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。/天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない》。この世界のあらゆるものが過ぎ行くとしても、私の言葉は決して過ぎ行くことはない、と主イエスは私たちに伝えて下さっています。


本日の主イエスの言葉が伝えて下さっているのは、すべてが過ぎ去るように見えても、過ぎ去らないものがあるということです。すべてが理不尽で不確かなように見えても、確かで揺るがないものがあるということです。私たちが生きる土台とすることができるものが、私たちの間に存在しているということです。


その確かなものとは、イエス・キリストの言葉です。イエス・キリストを通して示されている、神さまの愛の言葉です。イザヤ書434節には、「わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」という神さまの言葉があります。神さまが、私たち一人ひとりをかけがえのない存在として愛して下さっているということ、イエス・キリストはご自身の存在そのものを言葉として、この愛を伝えて下さいました。


 


悲惨な現実のただ中に


主イエスは、私たちの悲惨な現実のただ中に、小さな赤ん坊としてお生まれになりました。主イエスはナザレという村で、私たちの悲惨な現実をつぶさに見ながらお育ちになりました。そして私たちの悲惨な現実のただ中で、私たちと共に生きようとして下さいました。そしてご生涯の最期に、人間の悲惨な現実のただ中で、十字架におかかりなりました。


私たちの目にはただ悲惨にしか見えないそのご生涯とその最期を通して、神さまの愛が私たちに示されました。神さまが私たち一人ひとりをかけがえのない存在として愛して下さっているという、その真理が示されました。私たち一人ひとりを注意深く見つめ、愛して下さっているという真理が示されました。


私たちが人間の悲惨さをはっきりと認識するとき、この神さまの愛は、私たちに目にはっきりと示されてゆきます。主イエスは、暗闇を照らすまことの光として、私たちのもとへ来てくださいました。私たちの暗闇のただ中で、まことの光が輝いています。私たちが目を背けたくなる悲惨な現実のただ中で、それでもなお消え去ることのない光として、イエス・キリストはおられます。


 


神の愛を土台とし


イエス・キリストを通して私たちに語られ続けている神さまの言葉、それは、「わたしは、あなたを、愛しています」という一語に尽きるといってよいでしょう。この神さまの愛の言葉は、決して過ぎ去ることはない真理であることを聖書は語ります。たとえ私たちの目の前にある現実がどれほど理不尽で、不確かなものに見えても、イエス・キリストによって示された神の愛は、私たちにとって揺るぎない、確かなものであり続けています。


《神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。/わたしたちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります》(ヨハネの手紙一4910節)


私たちがこの神の愛を土台とするとき、目の前にある現実に注意深くある力が与えられてゆくのでしょう。神さまが私たち一人ひとりをかけがえのない存在として愛して下さっているということ。その愛する存在の誰ひとりとして、失われてはならないのだということ。だからこそ私たちは互いに注意深くある必要があるのであり、自暴自棄になってはならないのであり、互いを尊重し合ってゆかねばならないのです。ヨハネによる福音書316節は私たちに伝えています。《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである》。


 


注意深さと信頼とを新たにして


私たち自身は、弱いものです。気が付くと神さまの言葉への信頼を失ってしまうものです。けれども、たとえ私たち自身の力が枯渇したとしても、私たちの間に存在する神の愛は、枯渇することはありません。それは尽きることのない泉のように、私たちに再び立ち上がる力を与え続けて下さいます。本日の聖書箇所は、この滅びることのない神の愛の言葉を「信頼すること」を私たちに伝えています。


アドベントのこの時、いま目の前にある現実への「注意深さ」と、その土台となる神さまの言葉への「信頼」とを、私たちの内に新たにしたいと思います。