2015年2月1日「湖の上を歩く」


201521日 聖書箇所:マルコによる福音書64556

 

「湖の上を歩く」

 

 

 

湖の上を歩く

 

 本日の聖書箇所は、福音書に記された中でももっとも不思議な出来事の一つでしょう。イエス・キリストが荒ぶる湖の上を歩いて行かれたという出来事です。この不思議な出来事はいまを生きる私たちにどのようなことを語りかけているでしょうか。本日はそれをご一緒に聴き取ってゆきたいと思います。

 

 

改めてマルコによる福音書64552節をお読みいたします。《それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。/群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。/夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。/ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところへ行き、そばを通り過ぎようとされた。/弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。/皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。/イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。/パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである》。

 

 

 物語の舞台となっているのは、パレスチナの北部にあるガリラヤ湖という湖です。ガリラヤ湖は上空から見ると楽器の竪琴(ハープ)のようなかたちをしている湖で、南北に21キロメートル、東西に13キロメートルの大きさです。湖のまわりには町が点在しており、人々は舟にのって町から町へ移動をすることができました。本日の聖書箇所に出て来るベトサイダも湖に面した町の名前です。

 

 

 先週は五千人に食べ物が与えられたという出来事をごいっしょに読みましたが、その出来事が起こった後、主イエスは弟子たちを舟で向こう岸のベトサイダに向かわせた、と福音書は記します。主イエスご自身は舟には乗らず、祈るために山に向かわれました。おそらく主イエスは後で、岸沿いに徒歩でベトサイダに向かうという話になっていたのでしょう。

 

 

 主イエスが山でどのようなことを祈られたのか、福音書は記しておりません。私たちにはそれをうかがい知ることはできませんが、先に出かけた弟子たちのことをもちろん心に覚えて下さっていたことでしょう。

 

 

 主イエスはかなり長い間山で祈っておられたようです。辺りが暗くなった頃、弟子たちの舟はすでに湖の真ん中まで来ていました。しかし吹き付けて来る向かい風のために弟子たちは苦戦をしていました。

 

ガリラヤ湖は地形の構造上、陸の方から突風が吹きつけて来ることがあったそうです。弟子たちが舟で向かっていたのは、ちょうどその突風が吹いて来る北西の方向でした。漁師であったペトロたちといえどもその逆風は如何ともしがたかったようで、長い間舟を漕ぎ悩んでいました。

 

 

 マルコによる福音書4章では、弟子たちがやはり湖の上で突風に苦しめられる場面が出て来ました。4章では弟子たちは舟の後ろの方で眠っておられた主イエスに助けを求めることができました。しかし本日の場面では、主イエスはいまだいっしょにはおられません。弟子たちは主イエスに助けを求めるということは考えず、何とか自分たちの力で解決しようとしました。

 

 

 夜が明ける頃、主イエスは弟子たちの方へ向かわれました。弟子たちは逆風と夜通し格闘し、疲れ切っていたことでしょう。主イエスは陸上ではなく、湖の上を歩いて弟子たちのもとへと向かわれたと福音書は記します。弟子たちは主イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い叫びました。主イエスは狼狽する弟子たちにお語りになります。《安心しなさい。わたしだ。恐れることはない》。主イエスが舟に乗り込まれると嵐は静まったと福音書は記します。

 

 

 

 

主イエスの「道」

 

湖の上を歩く主イエスの姿は絵画のモチーフにもされてきましたが、本日の物語の状況において主イエスは静かな水面ではなく、嵐によって荒れる波の上を歩いてゆかれた、ということになります。荒波のただ中を主イエスが歩いてゆかれると、そこに「道」が生じていったのです。

 

 

このイメージから連想されるのは、旧約聖書の出エジプト記の「葦の海の奇跡」の場面です。皆さんも映画の『十戒』などでご存じの、モーセが手を海に向かって差し伸べると海が割れて道が出現するという場面です。モーセとイスラエルの人々は、海の中に出現したその道を渡り、無事にエジプト軍の追跡から逃れることができました。主イエスが湖の上を歩かれる姿は、イスラエルの人々が大切にし続けてきたこの「葦の海の奇跡」の出来事が重ね合わされているようにも思います。主イエスが歩いて行かれると、荒ぶる海の中に道が生じてゆきました。

 

 

ヨハネによる福音書には《わたしは道であり、真理であり、命である》という言葉があります146節)。ここでは主イエスご自身が「道」であることが示されています。

 

弟子たちは逆風の中で舟を漕ぎ悩んでいましたが、主イエスは荒波の中に道を通し、逆風を静めてくださいました。しかし弟子たちは心が頑なになっており、この出来事の意味を理解できませんでした。

 

 

 

 

一人ひとりに神さまからの尊厳が回復されるため

 

 主イエスが通そうとしてくださった道とは、どのような道でしょうか。それは、一人ひとりに神さまからの尊厳が回復されるための道であると本日は考えてみたいと思います。

 

 

 湖を渡り終えゲネサレトという地に着いた後、主イエスはその道を具体的な行動で示してくださいました。5356節《こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。/一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、/その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。/村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた》。

 

 主イエスはご自分のもとに駆け付けた人々の病いを癒して回られました。最後の《いやされた》という語は、「救われた」という意味も持っている言葉です。主イエスは病いをもつ人々の病気を治されただけではなく、その人に神さまからの尊厳を回復してくださいました。神さまから見て、どれほどその人がかけがえなく尊い存在かということを知らせて下さいました。神さまの愛を知らされること、が私たちにとっての「救い」の出来事となります。

 

 

 心が頑なになった弟子たちは、主イエスの歩んでおられるその道が理解できなかったのだと思います。弟子たちは主イエスが歩もうとされる道とは別の方向を見ていました。弟子たちが歩もうとしていた道は、国家としてのイスラエルを再建するための道でした。

 

 

 

 

現在のガリラヤ地域

 

 本日の物語の舞台はガリラヤ地域ですが、現在それら地域はイスラエル国の領土となっています(行政区画では北部地区)。日本に住む私たちはそれは当たり前のように感じてしまうかもしれませんが、中東の歴史を振り返ってみると、それは必ずしも当たり前のことではないことを知らされます。

 

ガリラヤ地域は1948年にイスラエルが建国されるまで、長きに渡ってアラブ・パレスチナ人の居住地域でした。1948年にイスラエルが建国され、第一次中東戦争が始まってから、この地域はイスラエル軍によって占領され、イスラエル国の領土とされました。もともと住んでいたパレスチナの人々の住居は破壊され、土地は奪われ、ガリラヤ地域はイスラエル国の領土となったのです。

 

ガリラヤ地域に住んでいたパレスチナ人の多くは強制的に移住させられましたが、中にはガリラヤに残り続けた人々もいました。それら残った人々は強制的にイスラエル国籍をもつイスラエル国民にさせられたそうです。ガリラヤには現在も、パレスチナ人として生きてきた歴史も誇りも否定され、同時にパレスチナ人であることの不当な差別を受けながら暮らしている大勢のパレスチナの人々がいます。その多くはイスラム教徒ですが、中にはユダヤ教徒、キリスト教徒もいるそうです。

 

 

主イエスが生きておられた時代も病いや差別などで苦しんでいた人々が大勢いたことを福音書は記しています。それは現在も同様で、不義によって苦しめられている人々がいまのガリラヤにも数多くいます。人間としての尊厳をないがしろにされ、苦しんでいる人々が数多くいます。悲しむべきことに、主イエスが生きておられた時代より事態はさらに深刻になっているのかもしれません。

 

 

 

 

もう一つの視点から

 

 先ほど、弟子たちが歩もうとしていた道は、国家としてのイスラエルを再建するための道であったことを述べました。旧約聖書には、アブラハムの子孫にカナンの地――つまりパレスチナ――を与えるという神の約束が記されています(創世記151821節など)。主イエスが生きておられた当時、ガリラヤ地域はローマ帝国の支配下にありました。イスラエルの人々の間にイスラエルの独立を成し遂げようという機運が高まっていた時代でした。弟子たちもまたイスラエルの独立を強く願っており、主イエスはそのための救世主であると考えていたのです。

 

 

現在のイスラエルにも、このアブラハムに与えられた約束が実現されることを願っている人々がいます(いわゆる「政治的シオニズム」)。神さまの約束を固く信じること自体はもちろん大切なことですが、中東の状況を見ます時、それはデリケートな問題をはらむこととなります。この聖書の言葉を一方的に持ち出すことによって、イスラエルによるパレスチナの侵略を正当化してしまうことになる場合があるからです。実際、この聖書の言葉を根拠にイスラエル軍による空爆を支持している人々がイスラエルには大勢います。イスラエルを支持している人々はキリスト教徒の中にもいます(いわゆる「キリスト教シオニズム」)。パレスチナは神さまがイスラエルに与えた約束の地であるとして、イスラエル軍らによるパレスチナの人々への迫害に間接的に加担してしまっているのです。

 

 

旧約聖書はイスラエル民族によって書かれた書であるのでそれがイスラエルの目線から記されているのは当然のことですが、私たちは聖書を読む時、もう一つの視点――パレスチナの人々の視点からも読み直してみるということが現在求められているように思います(参照:村山盛忠氏『パレスチナ問題とキリスト教』、ぷねうま舎、2012年)。それはまた、弱くされ、差別されている人々の立場から聖書を読み直してゆくという姿勢にも通じるものでしょう。

 

 

弟子たちが主イエスに求めたのはイスラエルの独立を成し遂げるためのリーダーシップであり、奇跡を引き起こす超人的な力でした。しかし主イエスがなそうとされたのはそうではなく、一人ひとりに神さまからの尊厳を回復してゆくことでした。主イエスが歩もうとされているこの道を理解し始めたのは身近にいた弟子たちではなく、自身が弱くされ差別されていた人々でした。これらの人々は懸命な想いで主イエスのもとに駆けつけてゆきました。病人を連れてゆき、せめて主イエスの服のすそにでも触れさせてほしいと願いました。そうして触れた者は皆、救われました。大勢の人々が主イエスを通して神さまからの尊厳を取り戻してゆきました。

 

 

 

 

逆風

 

 本日の物語において、弟子たちは逆風に出会って苦しんだ様子が描かれています。私たちの生きる世界には、いまも恐ろしい「逆風」が吹いているように思います。それは、一人ひとりの生命と尊厳の大切さを否定しようとする恐ろしい力です。ある人々の存在を、まるではじめから「なかったかのようにする力」。この恐ろしい逆風に私たちの世界は日々翻弄され続けています。

 

 

先ほどのパレスチナ問題で言うと、パレスチナの人々の存在をあたかもはじめから「なかったかのようにする力」。パレスチナの人々の存在を認めようとせず、人間としての尊厳を認めようとしない力です。弟子たちの舟が逆風に押し流されていったように私たち自身、自分でも気づかないうちにこれら力に流されていってしまう危険性があります。

 

 

今朝ニュースを見てみると、イスラム国の人質となっている後藤さんが殺害されてしまったかもしれないということが報じられていました。まだはっきりと事実であるかは確定してはいませんが、事実であるとすると、まことに悲しいことです。

 

このことを受けて、今朝安倍総理は声明を出しています。《非道、卑劣極まりないテロ行為に、強い怒りを覚えます。許しがたい暴挙を、断固、非難します。テロリストたちを絶対に許さない。その罪を償わせるために、国際社会と連携してまいります》、《日本が、テロに屈することは、決してありません。中東への食糧、医療などの人道支援を、更に拡充してまいります。テロと闘う国際社会において、日本としての責任を、毅然として、果たしてまいります》(安倍総理の声明の抜粋)。このような表現は9・11のテロの後にもブッシュ元大統領によってなされました。確かにテロ行為は決してゆるしてはならないことですが、これら国際社会が発する声明が暗に示していることは、イスラム国という存在そのものを消し去ろうということです。この度の安倍総理の声明はこれら姿勢に日本も同調するという決意表明であるということができます。イスラム国という存在そのものを全否定し、軍事力によって滅ぼそうとする姿勢ですが、しかしこのような姿勢こそがテロを生み出す土壌を作り続けてしまっているのです。お互いがお互いの存在を否定する「逆風」を吹かせようとする限り、怒りの連鎖は生まれつづけ、テロ行為はなくなることはないでしょう。欧米を中心とする国際社会はこれまであまりにもイスラム圏の人々の尊厳を軽んじ続けてきました。欧米諸国が取るべき姿勢はテロ行為は認めないと同時に、イスラム圏の人々の存在とその尊厳を認めることであると思います。後藤さんが取り組んでこられたのも、国際社会の暴力に苦しめられている人々の存在とその尊厳を伝えるという作業だったのではないでしょうか。

 

 

 

 

主イエスの祈りに立ち還る

 

私たちはいま改めて、主イエスが示して下さっている道に立ち還る必要があります。主イエスは互いに互いを否定しようとする力に、はっきりと「否」をおっしゃっています。民族を超えて、宗教を超えて、あらゆる立場を超えて、神さまは私たち一人ひとりをかけがえのない存在として尊重して下さっているということを、私たちに伝えて下さっています。私たちはその真理をこそこの心に受け入れてゆかねばなりません。私たちに吹き付けて来る「逆風」のただ中で、主イエスは、私たち一人ひとりに尊厳が回復されるための道を示し続けてくださっています。

 

荒ぶる湖の上を歩かれる主イエスの姿は幻でも幽霊でもありません。主イエスはいま・ここに確かにいてくださり、語りかけて下さっています《安心しなさい。わたしだ。恐れることはない》。

 

 

私たち一人ひとりに神さまからの尊厳が回復されるようにとの主イエスの祈りに立ち還り、その主イエスの祈りに私たちも祈りを合わせてゆきたいと願います。