2015年2月22日「シリア・フェニキアの女性の信仰」

2015222日 聖書箇所:マルコによる福音書72430

「シリア・フェニキアの女性の信仰」



「未来」のイメージ


皆さんは、「未来」という言葉を聞いて、どのようなイメージを思い浮かべられるでしょうか。


 幼い頃は、私たちは「未来」という言葉に光り輝くような、希望に満ちたイメージを持っていたものです。それが私たちは年を重ねるごとに、だんだんと未来に対して前向きなイメージをもちづらくなるようになってゆきます。私たちがいま生きている現実の困難さを知ってゆくからでもあるでしょう。私たちがいま生きている現実は困難に満ちています。未来になると、状況はさらに悪くなって行ってしまうのではないだろうか……。今日、多くの人が将来について、悲観的な想いに囚われてしまうのもよく分かることです。


そのような中、私たちの心の中に湧いてくるのは諦めの気持ちです。かくも人の世は生きづらいものだと諦めてしまう。「仕方がない」という言葉がありますが、私たちは問題の多い現実を「仕方がない」として諦めてしまいたくなる時があるかもしれません。


 


運命論


 古代から人々の心を捉えてきた考え方に、「運命論」というものがあります。「この世界に起こる出来事は初めからそうなるように定められている、それを私たち人間の意志や力で変えることはできない」という考え方です。私たちの心が諦めで支配されてしまうとき、その諦めの気持ちと結びつきやすいのがこの運命論です。


 人間の社会が困難や苦しみに満ちていたのは、大昔からも同様であったでしょう。そのような中、運命論が人々の心を捉えてきたのも理解できることではあります。たとえば現在は奴隷制度は禁止されていますが、古代はそうではありませんでした。大勢の人々を従わす王家に生まれる人もいれば、毎日過酷な労働を強いられる奴隷の家に生まれる人もいる。その不条理な現実を、天が定めた運命だとすれば、「仕方がない」ものとして少しは受け入れることができるかもしれません。このような考えというものは確かに現状を受入れるためには時に有効であるとは思いますが、現状を変えてより良い未来を求めてゆく力にはつながらないものでしょう。運命論を受け入れてしまったままでは、人間の歴史に奴隷解放運動というものは起こり得なかったと思います。


 


聖書は運命論に基づいて書かれていない


では、聖書はどうでしょうか。聖書は「神さまのご計画」ということを大切にする書です。このことから、聖書とはまさに運命論に基づいて書かれているという印象を受ける人もいるかもしれません。「この世界に起こる出来事は初めから神さまによってそうなるように定められている。よって私たち人間の意志や力でそれを変えることはできない」のだと。確かに、聖書の中にはそのようなニュアンスで書かれている物語もあります。


しかし一方で、聖書は、神さまが人間に「自由意志」を与えたことを語っています。自由にものごとを考え、主体的に判断をすることができる「自由意志」です。このことから、聖書という書は人間の意思決定を非常に重視している書であるということが分かります。もしすべてのことが神さまによって決定づけられているのなら、そもそも私たちに自由意志が与えられていることの価値は失われてしまうでしょう。


 聖書全体を読んでみて結論として言えることは、聖書は運命論に基づいて書かれてはいない、ということです。そうではなく、むしろ、人間の主体的な意思決定というものを非常に重んじている書である、ということができます。この世界に起こる出来事は初めから神さまによってそうなるように定められているのではない。そうではなく、むしろ未来は私たち人間の態度によって刻々と変わってゆく。私たちが心の向きを変え神さまに立ち還り、生き方を変えてゆくことによって、私たちの未来は変わってゆく。どんなに困難な現実が目の前にあろうとも、私たちはそれをより良く変えてゆく可能性を秘めている。聖書はそのよう肯定的なメッセージを私たちに伝えているように思います。


 


ヨナの物語から ~未来はいまだ「白紙」


その代表的な例の一つは、旧約聖書のヨナの物語でしょう。ニネベという町に住む人々は、悪行を働き続けた結果、「あと四十日すれば、あなたたちの都は滅びるであろう」という宣告されます(ヨナ書3章4節)。ヨナを通して警告を聞いたニネベの人々は自分たちの悪行を悔い改め、その結果、ニネベは滅亡を免れます(ヨナ書3510節)。このヨナの物語から、ニネベの都の未来は初めから定められているのではなく、そこに住む人々の主体的な意思に委ねられていることが示されています。もしニネベの人々が「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」という宣告を運命として受け入れてしまったら、悔い改めは起こらず、本当にニネベは滅亡へと向かっていってしまったかもしれません。


ヨナの物語は、私たちが自分の心の向きを変え、生き方を変えてゆくことにより、未来もまた変わってゆくことを示しています。つまり、ある意味、私たちの未来は「白紙」であるとも言えます。


ある人は、人生で必要な本は二冊ある、と言っています。一冊は新約聖書、もう一冊はあなた自身の人生の書であると。あなた自身の人生の書に、あなたは毎日新しいページを書き始めるのだ、と。


今日と言う新しいページは、まっさらな白紙です。そこに何をどのように書き込むかは、私たちの自由な意思にゆだねられています。私たちは聖書を私たちの助けとしつつ、自分自身の人生の本に、新しい今日という日を書き込んでゆきます。私たちは今日という真っ新なページに、そして明日という真っ白なページに何を書きこんでゆくでしょうか。少しでも私たちの未来がより良くなるように、前向きな想いを書きこんでゆきたいものです。


 


主イエスとシリア・フェニキアの女性の物語


本日の聖書箇所に登場するシリア・フェニキアの女性は、主体性をもって新しく未来を切り開いた一人の人間の姿を私たちに指し示してくれています。本日登場するこの女性は、決して悲観的な運命論には陥りません。未来を切り開いて行こうとする意志をもった人間として、私たちの前に登場します。


改めて、本日のマルコによる福音書72430節をお読みいたします。《イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。/汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。/女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。/イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」/ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」/そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」/女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた》。


物語の舞台となっているティルスというよく知られた古代都市で、現在のレバノンの南西部に位置している街です。地中海に面したこのティルスは、古くからフェニキア人の重要な港町として繁栄していました。ティルスのあった場所は、現在は遺跡都市として保存されており、ユネスコの世界遺産にも登録されています。本日の舞台となっているティルスは、つまり、ユダヤの人々からすると自分たちとは異なる宗教、文化をもつ人々が暮らしている地ということになります。主イエスはこの時、パレスチナを離れて異国の街を訪れていらっしゃったのですね。


 ティルスの街に着くと、主イエスはある家に入られます。福音書は、主イエスはこの時、自分がそこにおられることを《誰にも知られたくないと思っておられた》と記しています24節)。事情は定かではありませんが、主イエスはその時、誰にも知られることなくお一人でいたかったことが示されています。しかし、主イエスがそこにおられるということは人々に知られることとなりました。そうして主イエスのことを聞きつけてやってきたのが、シリア・フェニキアの女性です。この女性には悪霊に取りつかれて苦しんでいる幼い娘がいたことを福音書は記しています。


ここでの《悪霊》が何を示すのか、現在の私たちにははっきりとは分かりません。何かの病気であったのかもしれません。女性は主イエスが娘に取りついている悪霊を追い出してくれるかもしれないという切なる想いをもって、主イエスのもとに駆けつけてきました。女性も生まれはフェニキア、育ちはギリシアと書かれていますので26節)、ユダヤの人々からすると外国人ということになります。


「娘から悪霊を追い出してください」と懸命に頼む女性に対し、主イエスは直接には返答せず、次のように答えられました。《まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない》27節)


まるでことわざのような不思議な言葉ですが、教会では伝統的に、ここでの《子供たち》とはユダヤの人々を意味し、《小犬》とは外国の人々を意味すると解釈してきました。《パン》は神さまの救いを意味しています。その解釈を踏まえて主イエスの発言を言い直しますと、「まずユダヤの人々に救いを与えねばならない。ユダヤの人々から救いを取り上げて、外国の人々に与えてはいけない」となります。つまり、主イエスはここで女性の願いを間接的に斥けていることになります。女性は外国人であるからです。


主イエスがなぜこのように突き放すような言い方をなさったのか、私たちにははっきりとは分かりません。その意図は分かりませんが、ここで福音書が記しているのは、それでも、女性はあきらめることをしなかったということです。


 


「その言葉のゆえに」


「神さまの救いはまずユダヤ人に与えられることになっている。外国人であるあなたがたの順番はまだ来ていない」。そうはっきりと宣告されたら、多くの人は「それならば、仕方がない」とあきらめて引き返してしまうのではないでしょうか。しかし女性は「仕方がない」こととしてあきらめることはしませんでした。


女性は主イエスの言葉を受けて、さらに言葉を返します。《主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます》28節)。女性はそう言って、先ほどの言葉の内容を、見事に肯定的な意味へと方向転換させました。ユダヤの人々に救いを与えねばならないのは分かります。しかし、外国人である私たちも同時に、その満ちあふれる恵みに与ることができます、と。


女性のこの言葉を受けて、主イエスはお答えになります。《それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった》29節)。《それほど言うなら》と訳されている言葉は、原文では「その言葉のゆえに」という言葉です。そう訳した方が、より正確でありましょう。女性の切なる想いが込められた「その言葉のゆえに」、女性の目の前に新しい未来が切り開かれました。女性が家に帰ってみると、娘から悪霊は出て行っていました30節)


 


現代の運命論に抗して


本日のシリア・フェニキアの女性の姿から、「神さまのご計画」とされていることにただ従順であるだけが、信仰者の姿ではないということを知らされます。「神さまのご計画」とされていることも、それは人間の意志によって修正され得ることであるかもしれないのです。私たちが誰かのために懸命に行動する時、決定づけられていたような現実が動き、より良い未来が切り開かれてゆくということが起こり得ます。


また、私たちの生きる社会では、一部の人々によって物事がすでに決定づけられているということが多々起こっています。私たちの主体的な意志とは関係なく、また私たちの意志に反して物事が決められ進められてゆく、ということが起こっています。「これはこういうことに定められています」と、ものごとが進められてしまっている現状があります。まるで一種の運命論に基づいて、社会が動かされてしまっているようです。


そのような問題ある現状を「仕方がない」ものとして受け入れてしまっているのだとしたら、私たち自身もまた運命論に支配されてしまっているのだということになるでしょう。私たちはいま目の前にある様々な問題を、「仕方がない」ものとして受け入れてしまってはなりません。私たちは現代の運命論に抗ってゆかねばなりません。


動かし難く決定づけられているように見える現実も、私たちの祈りに基づいた言動と、そしてイエス・キリストの助けによって動かされてゆきます。神さまはその私たちの願いを必ず聞き届けてくださるでしょう。そして必ず助けの手を差し伸べて下さるでしょう。神さまへの信頼をもって、いま目の前にある現実に立ち向かってゆきたいと願います。私たちの生きる社会が、少しでも、より良い未来となってゆきますように。大切な人々が、少しでも、より幸せに生きてゆくことができますように。